二つの第九交響曲

1 西ドイツ最後の第九演奏と長野オリンピック

(1) ドイツと日本で演奏された第九交響曲

 1990年10月2日,ドイツ民主共和国(以下東ドイツ)のベルリン市シュウシュピールハウス(Schauspielhaus)で,ある演奏会が開催された。クルト・マズア(Kurt Masur)指揮ライプチヒ・ゲヴァントハウスオーケストラの演奏によるこの演奏会には,ドイツ連邦共和国(以下西ドイツ)大統領,東西ドイツの首相,閣僚たちが聴衆として来場した。この演奏会は,東西ドイツ国民にとって特別な意味を持つものであった。
 第二次世界大戦後,ソ連とアメリカの大国によってドイツは東西に引き裂かれた。その後,28年間の冷戦の時期を経て,1989年11月29日,東西にベルリンを分断していた壁の効力は無くなった。そして,ついに1990年10月3日に東西ドイツは,統一の日を迎えようとする。その統一の数時間前に東ドイツとして最後の演奏会が開かれたのである。
 この演奏会の曲目は,ベートーヴェン作曲交響曲第九番「合唱付き」であった。
 歴史的な瞬間を前にしての緊張感の中,演奏は鬼気迫る迫力を持って進行した。最終楽章の演奏が終了した後,会場は感動の渦で埋め尽くされた。この直後,1990年10月3日午前0時に東西ドイツは統一を果たし,東西の冷戦による鉄のカーテンは融解した。東ドイツは西ドイツに編入され,国家として消滅した。
 国家のアイデンティティが問われる日の演奏会の曲目に,ドイツ人はベートーヴェンの第九交響曲を選んだ。世界中によく知られたこの曲が,当然のことではあるがドイツ国民の誇りであることを全世界に再認識させた。ドイツ国民にとってベートーヴェンは郷土を代表する偉大な音楽家なのである。
 もう一つの事象は,ドイツ統一の8年後,1998年に長野市で行われた冬季オリンピックの開会式である。ここでは諏訪大社の御柱祭の木遣りや関取による土俵入りなど日本の文化を生かした内容が演じられた。そして,開会式の後半,小澤征爾指揮サイトウキネンオーケストラの演奏によるベートーヴェン作曲交響曲第九番「合唱付き」が演奏された。
 その時,開会式会場にいる数万人の観衆は,全員立ち上がってシラーの詩によるドイツ語の歌を歌った。さらに世界の五つの都市(ニューヨークの国連ビル,シドニーのオペラハウス,ベルリンの壁跡, 南アフリカの喜望峰,北京の故宮)を音と映像で結び,それぞれの場所で現地の人が同時に合唱を行うという離れ業を行った。この後行われた聖火台への点火の際にはプッチーニが作曲した歌劇「蝶々夫人」のアリアが会場に流れ,開会式は終了した。
 生中継で五大陸を結び,同じ曲を同時に演奏するという画期的な技術を強くアピールしたこのイベントは,地球規模の通信技術力と,同時に日本人がヨーロッパの音楽をよく理解し,高い演奏技能を持つことを世界各国が確認するものであった。

(2) それぞれの第九の意味

 これら二つの事象を比較してみると,東ドイツでは,国民のアイデンティティを確認するために自国の文化である第九の演奏を取り上げた。他国の人が見ても感動を覚えるほどの郷土愛と祖国統一への意志がそこには感じられた。
 一方,日本の事象では,日本人のドイツ音楽への愛着と,日本人がすでにヨーロッパ文化と同等の価値観を持っているという自負が感じられた。
 しかし,日本の事象では「なぜ日本で行うオリンピックで,日本人がドイツ語の曲を世界に向けて歌うのか」という疑問に明快に答えるのがむずかしい。さらに「南アフリカ,中国などヨーロッパと異なる文化をもつ国の人にドイツ人の曲を歌わせることの意味は何か」と考えると,釈然としない感じが残る。日本人の文化に対する考え方に,偏りがあるような印象を拭いきれない。
 どうしてこのような印象が生じるのだろうか。ここで明治期から続いてきた音楽科教育の流れを概観してみたい。
2 日本の音楽科教育がめざすもの
(1) 福沢諭吉がめざした文明国家
 音楽科教育は明治期の日本が出発点になっている。明治期に様々な分野で大きな影響を与えた福沢諭吉(1835〜1901)の著作を見てみよう。
 福沢は1877(明治8)年に『文明論之概略』を著した。福沢は「欧羅巴諸国並に亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し,土耳古,支那,日本等,亜細亜の諸国を以て半開の国と称し,阿非利加及び墺太利亜等を目して野蛮の国といい・・・」1と,それぞれの国の文明の度合いを3段階に分類している。また,文明の度合いは相対的なものであり,ヨーロッパ諸国とアメリカという文明国を目標に,「半開」である日本は文明化を進めていくことが,日本の当面の課題であることを述べている。
 福沢はヨーロッパ,アメリカが最高の文明国ではなく,あくまでもその時点での相対的位置であることを「正しく今の世界にありてこの名を下すべきのみ」2と,ことわっている。その理由として,「西洋諸国,常に戦争を事とせり」3,ということや「党与を結びて権を争う者あり」4などをあげている。また,「文明は限りなきものにて,今の西洋諸国を以て満足すべきにあらざるなり」5と,欧米の文明を越えた理想国家を日本が目指すべきことを暗示している。
 福沢にとっては,日本が欧米諸国と同等以上の文明国となること,さらに国家として独立することが大きな願いであった。

(3) メーソンの唱歌教育

 福沢が『文明論之概略』を著した時期,井澤修二(1851〜1917)は,文部省からアメリカ合衆国マサチューセッツ州へ派遣されていた。
 伊澤は,日本の音楽科教育の方針を「わが国には雅楽,俗楽があるが,そのまま用いるのにはどちらにも難点がある」と当時の文部大臣田中不二麿に上申書を提出した。
 「音楽取調成績申報要略」において伊澤は「まずは進んでいる西洋音楽を取り入れるべきである」としながらも,「東西二洋の音楽を折衷して新曲を作ること」と「将来国楽を興すべき人物を養成すること」という方針を提案した。
 伊澤は外国人教師メーソン(Luther Whiting Mason 1818〜96)を日本に招いた。
 メーソンは「ドイツ人の作曲家で教育家のクリスチャン・ハインリッヒ・ホーマンが編纂した『教育学基礎に基づいた国民学校歌唱教育のための実用教程』という」6教科書をもとに『音楽掛図』を作成し,日本の唱歌教育の教科書とした。
 この『音楽掛図』は,彼がアメリカ合衆国オハイオ州のシンシナティ市で教材として使っていたものを土台にしてつくられていた。当時,シンシナティ市はドイツ人移民が大半を占める町であった。そのため『音楽掛図』にはドイツ民謡が多数含まれていた。「蝶々」「霞か雲か」「ローレライ」などがそれである。
 このため,日本の音楽科教育は,ドイツ民謡に日本語の歌詞をつけた楽曲を多く含んだ教科書で出発することになった。

(4) 西洋音楽への傾倒とその批判

 伊澤は「東西二洋の音楽を折衷」することを提案したが,その後の音楽科教育は西洋音楽偏重に傾いていった。また,第二次世界大戦に向かって,教育現場は軍歌による教育など軍国主義に突き進んでいき,芸術文化などに対する様々な検閲が行われた。その後,戦争が終わり,それまでの軍国主義教育が全面的に見直され,教育界は新しい方向を模索しはじめた。
 そんな中,ウィーン少年合唱隊が1955(昭和30)年に来日し,公演を行った。この公演の衝撃は大きく,「ウィーン・ショック」という言葉が当時生まれたほどである。
 品川三郎は「ウィーン少年合唱隊には,混声合唱や男声四部合唱の持つような,幅の広さや,ボリュームは欠けているが,その代わりハーモニーの焦点が実に清澄である」7と述べ,彼の著作『児童発声』は「頭声的発声」という一つの歌唱指導の方向を示すものとして,教育界に大きな影響を与えた。
 こうして日本の音楽科教育は授業の主要部分を占める歌唱をヨーロッパ的な発声法に解決を求めていった。
 音楽科教育がヨーロッパ音楽に重心をおいていく中,この流れを批判し,日本音楽へ新たな視点を提案する動きが出てきた。
 小泉文夫は,日本語の音調や拍節を基本にした「わらべうた」による教育を提唱した。小泉は「東洋諸国がオリジナリティを失うことなく,ひいては音楽の
生命力を傷つけることなく,西洋音楽をいかにして導入するかという方法は,そもそも何のために,誰のために,音楽が存在しているのかという問題に深くかかわっている」1と,日本人としてのアイデンティティを音楽科教育において育成する提案を行った。
 また,小泉は「音楽文化の価値や現代社会への適合性については,西洋音楽とは限らず,日本音楽やアジア,アフリカの音楽,それに大衆音楽も平等に考慮しなければならない」2と,世界中の音楽に貴賤をつけることを否定し,存在するすべての音楽を同等に扱うべきだと主張した。
 藤井知昭は,「『音楽』というのは,西洋音楽あるいはクラシック音楽と呼ぶヨーロッパ音楽でしかなかったのである。ヨーロッパ以外の諸民族の音楽も,日本の伝統的な音楽も,現代に流行する音楽も,『音楽』以前であったといえよう」3と,音楽科教育の西洋音楽偏重を痛烈に批判した。
 小泉の提唱した「わらべうた」による音楽科教育は,大西友信によると「一時はわらべ歌教育として全国を風靡」4したが,「いつしか完全に滅びてしまった」5という状態に陥る。その原因として大西は「民族音楽のもつ音楽的語法の発展へと繋げず,ソルフェージュの教材として取り扱うようになったため」6と指導方法の問題が原因である,と分析した。

(5) 日本文化への視点の転換

 この後,音楽科教育は西洋の音楽に重心をおきながら,日本や世界の音楽をも扱うという折衷的な状態がしばらく続いた。しかし「今後もずっとこのように,洋楽発声法と日本語の,便宜的・折衷的な二人三脚がつづくものだろうか」7と柴田南雄が危惧したような疑問を抱く教師が増えてくることになる。
 そして,研究熱心な教師により日本音楽を土台にした発声法や郷土の音楽の授業における実践などの取り組みが提案されるようになった。
 熱田庫康は「洋楽のスタイルでつくられた楽曲は洋学的な歌い方で楽しみ,邦楽は,邦楽的な発声
で楽しむ」8と曲種に応じて発声法を切り替えるという,それまでの頭声的発声法をくつがえす先駆的な実践を提案した。
 また,竹内ちさ子は「軽快で小気味よい小太鼓のリズムを積極的に踏襲しながら新しいお囃子作りに挑戦させた」9という民俗芸能である祭囃子の実践を提案した。
 小泉は民俗芸能や大衆の音楽について「今日の大部分の日本人の直接の祖先は農民」10であることを指摘し,農民文化から発生した音楽に重大な意味があると述べていた。宮廷の音楽である「雅楽」や武家の音楽である「能楽」も重要だが,江戸期まで人口の大部分を占めていた農民文化による音楽の価値を認めることが大切だと述べていた。農民文化による音楽とはすなわち「民謡」であり「祭囃子」「獅子舞」「神楽」などのことである。
 小島美子は伝統芸能を現在にふさわしい形に発展させていく方向として「直接に土台になるのは,おそらく民謡や民俗芸能である」11と,音楽科教育における「郷土の音楽」の重要性を述べた。
 そして1998(平成10)年に,世界音楽の視点で自国の文化を積極的に取り扱うよう求めた中学校学習指導要領が告示されたのである。


2 福沢諭吉がめざした文明国家

 音楽科教育は明治期の日本が出発点になっている。明治期に様々な分野で大きな影響を与えた福沢諭吉(1835〜1901)の著作を見てみよう。
 福沢は1877(明治8)年に『文明論之概略』を著した。福沢は「欧羅巴諸国並に亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し,土耳古,支那,日本等,亜細亜の諸国を以て半開の国と称し,阿非利加及び墺太利亜等を目して野蛮の国といい・・・」1と,それぞれの国の文明の度合いを3段階に分類している。また,文明の度合いは相対的なものであり,ヨーロッパ諸国とアメリカという文明国を目標に,「半開」である日本は文明化を進めていくことが,日本の当面の課題であることを述べている。
 福沢はヨーロッパ,アメリカが最高の文明国ではなく,あくまでもその時点での相対的位置であることを「正しく今の世界にありてこの名を下すべきのみ」2と,ことわっている。その理由として,「西洋諸国,常に戦争を事とせり」3,ということや「党与を結びて権を争う者あり」4などをあげている。また,「文明は限りなきものにて,今の西洋諸国を以て満足すべきにあらざるなり」5と,欧米の文明を越えた理想国家を日本が目指すべきことを暗示している。
 福沢にとっては,日本が欧米諸国と同等以上の文明国となること,さらに国家として独立することが大きな願いであった。

(1) メーソンの唱歌教育

 福沢が『文明論之概略』を著した時期,井澤修二(1851〜1917)は,文部省からアメリカ合衆国マサチューセッツ州へ派遣されていた。
 伊澤は,日本の音楽科教育の方針を「わが国には雅楽,俗楽があるが,そのまま用いるのにはどちらにも難点がある」と当時の文部大臣田中不二麿に上申書を提出した。
 「音楽取調成績申報要略」において伊澤は「まずは進んでいる西洋音楽を取り入れるべきである」としながらも,「東西二洋の音楽を折衷して新曲を作ること」と「将来国楽を興すべき人物を養成すること」という方針を提案した。
 伊澤は外国人教師メーソン(Luther Whiting Mason 1818〜96)を日本に招いた。
 メーソンは「ドイツ人の作曲家で教育家のクリスチャン・ハインリッヒ・ホーマンが編纂した『教育学基礎に基づいた国民学校歌唱教育のための実用教程』という」6教科書をもとに『音楽掛図』を作成し,日本の唱歌教育の教科書とした。
 この『音楽掛図』は,彼がアメリカ合衆国オハイオ州のシンシナティ市で教材として使っていたものを土台にしてつくられていた。当時,シンシナティ市はドイツ人移民が大半を占める町であった。そのため『音楽掛図』にはドイツ民謡が多数含まれていた。「蝶々」「霞か雲か」「ローレライ」などがそれである。
 このため,日本の音楽科教育は,ドイツ民謡に日本語の歌詞をつけた楽曲を多く含んだ教科書で出発することになった。

(2) 西洋音楽への傾倒とその批判

 伊澤は「東西二洋の音楽を折衷」することを提案したが,その後の音楽科教育は西洋音楽偏重に傾いていった。また,第二次世界大戦に向かって,教育現場は軍歌による教育など軍国主義に突き進んでいき,芸術文化などに対する様々な検閲が行われた。その後,戦争が終わり,それまでの軍国主義教育が全面的に見直され,教育界は新しい方向を模索しはじめた。
 そんな中,ウィーン少年合唱隊が1955(昭和30)年に来日し,公演を行った。この公演の衝撃は大きく,「ウィーン・ショック」という言葉が当時生まれたほどである。
 品川三郎は「ウィーン少年合唱隊には,混声合唱や男声四部合唱の持つような,幅の広さや,ボリュームは欠けているが,その代わりハーモニーの焦点が実に清澄である」7と述べ,彼の著作『児童発声』は「頭声的発声」という一つの歌唱指導の方向を示すものとして,教育界に大きな影響を与えた。
 こうして日本の音楽科教育は授業の主要部分を占める歌唱をヨーロッパ的な発声法に解決を求めていった。
 音楽科教育がヨーロッパ音楽に重心をおいていく中,この流れを批判し,日本音楽へ新たな視点を提案する動きが出てきた。
 小泉文夫は,日本語の音調や拍節を基本にした「わらべうた」による教育を提唱した。小泉は「東洋諸国がオリジナリティを失うことなく,ひいては音楽の
生命力を傷つけることなく,西洋音楽をいかにして導入するかという方法は,そもそも何のために,誰のために,音楽が存在しているのかという問題に深くかかわっている」1と,日本人としてのアイデンティティを音楽科教育において育成する提案を行った。
 また,小泉は「音楽文化の価値や現代社会への適合性については,西洋音楽とは限らず,日本音楽やアジア,アフリカの音楽,それに大衆音楽も平等に考慮しなければならない」2と,世界中の音楽に貴賤をつけることを否定し,存在するすべての音楽を同等に扱うべきだと主張した。
 藤井知昭は,「『音楽』というのは,西洋音楽あるいはクラシック音楽と呼ぶヨーロッパ音楽でしかなかったのである。ヨーロッパ以外の諸民族の音楽も,日本の伝統的な音楽も,現代に流行する音楽も,『音楽』以前であったといえよう」3と,音楽科教育の西洋音楽偏重を痛烈に批判した。
 小泉の提唱した「わらべうた」による音楽科教育は,大西友信によると「一時はわらべ歌教育として全国を風靡」4したが,「いつしか完全に滅びてしまった」5という状態に陥る。その原因として大西は「民族音楽のもつ音楽的語法の発展へと繋げず,ソルフェージュの教材として取り扱うようになったため」6と指導方法の問題が原因である,と分析した。

(3) 日本文化への視点の転換

 この後,音楽科教育は西洋の音楽に重心をおきながら,日本や世界の音楽をも扱うという折衷的な状態がしばらく続いた。しかし「今後もずっとこのように,洋楽発声法と日本語の,便宜的・折衷的な二人三脚がつづくものだろうか」7と柴田南雄が危惧したような疑問を抱く教師が増えてくることになる。
 そして,研究熱心な教師により日本音楽を土台にした発声法や郷土の音楽の授業における実践などの取り組みが提案されるようになった。
 熱田庫康は「洋楽のスタイルでつくられた楽曲は洋学的な歌い方で楽しみ,邦楽は,邦楽的な発声
で楽しむ」8と曲種に応じて発声法を切り替えるという,それまでの頭声的発声法をくつがえす先駆的な実践を提案した。
 また,竹内ちさ子は「軽快で小気味よい小太鼓のリズムを積極的に踏襲しながら新しいお囃子作りに挑戦させた」9という民俗芸能である祭囃子の実践を提案した。
 小泉は民俗芸能や大衆の音楽について「今日の大部分の日本人の直接の祖先は農民」10であることを指摘し,農民文化から発生した音楽に重大な意味があると述べていた。宮廷の音楽である「雅楽」や武家の音楽である「能楽」も重要だが,江戸期まで人口の大部分を占めていた農民文化による音楽の価値を認めることが大切だと述べていた。農民文化による音楽とはすなわち「民謡」であり「祭囃子」「獅子舞」「神楽」などのことである。
 小島美子は伝統芸能を現在にふさわしい形に発展させていく方向として「直接に土台になるのは,おそらく民謡や民俗芸能である」11と,音楽科教育における「郷土の音楽」の重要性を述べた。
 そして1998(平成10)年に,世界音楽の視点で自国の文化を積極的に取り扱うよう求めた中学校学習指導要領が告示されたのである。

3 郷土の音楽を学ぶ意味

(1) 学習指導要領の示すもの

 中学校学習指導要領は,その解説で「表現教材としての楽曲を,特定の地域や時代に偏ることなく選択し,広い視点から世界の音楽文化を取り上げること」12が必要であると述べた。これは明治期から続いてきた西洋音楽偏重を改め,世界音楽の視点ですべての音楽を見つめ直すという画期的な提言である。
 さらに「音楽は,それを作りだした人や社会,生まれる状況や時代背景などと密接に結びついている」1とし,「我が国や郷土の伝統音楽をはじめ,欧米を含む世界の諸民族の様々な音楽を聴くことによって,人類の音楽文化が多様であることと,音楽がそれを生み出した社会や文化・歴史などと密接に結びついていること,したがって,一定の尺度でその芸術的価値を判断することはできないことと,それぞれが固有の美しさをもっていること」2などを学ぶことが大切だとした。

(2) 郷土の音楽から学ぶこと

 郷土の音楽を授業で取り扱うことで,音楽科教育はどのように変わるのであろうか。また,郷土の音楽から学ぶことはなんであろうか。そして,それは今までの音楽科教育の何を補完するものであろうか。
 本研究を通して結論づけられる,郷土の音楽の教育的意義は次の二つである。
 第1は日本の伝統的な文化と様々な民族の文化の価値を認め,尊重する態度を養うことである。ヨーロッパの音楽を学ぶことは,ヨーロッパの文化を学ぶことであり,日本の音楽を学ぶことは,日本の文化を学ぶことである。郷土の音楽を学ぶことを通して,日本人が築き上げてきた日本文化の一端を学ぶことができる。
 第2は音楽の背後にある歴史や地域社会の構造などの脈絡を含めて,音楽を理解することである。郷土の音楽は,その地域の歴史や人々の生活,他の地域との関連などがその音楽に大きく関わっている。この学習から,音楽にまつわる様々な社会的な脈絡を含めて,音楽が存在することを学ぶことができる。
 郷土の音楽の学習を通して,世界中どの地域でも文化があり,その文化に価値があることに気づき,そこに生きている人たちをそこから感じ取れるとよい。フランスの文化,スペインの文化,インドの文化,中国の文化など,それぞれの国には独自の文化があり,よさがあることを学びとれるとよい。
 そして,そこから発展して,世界中のどの音楽でもそれにまつわる歴史や地域社会などの背景があり,それはその地域の音楽と密接な関係があることに気がついていくだろう。郷土の音楽を学ぶことで,世界中のあらゆる音楽は,社会的な様々な脈絡と共に存在していることに気がつくきっかけになるのである。

 作家の司馬遼太郎は「アメリカ素描」の冒頭で,文明と文化について定義づけている。それによると文明とは「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」3であり,普遍的で合理的である交通信号は,文明であると例示している。
 一方,文化とは「特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもの」4であり,「日本でいうと,婦人がふすまをあけるとき,両ひざをつき,両手であけるようなもの」5であり,「文化であるがために美しく感じられ,その美しさが来客に秩序についての安堵感を与え,自分自身にも,魚巣に住む魚のように安堵感をもたらす」6と,述べている。

 日本は,文化を積み上げてきた国である。明治以後の近代化により文明化が進んでも,千年以上続いてきた日本文化の香りを消し去ることはできない。日本文化は我々の生活のあちこちに染みついている。その文化である日本音楽をはっきりと認識し,学習することは,日本人としてのアイデンティティを確認し,誇りをもって文化を継承しようとするきっかけになる。
 福沢諭吉が目指したものは「自国の独立」であった。明治期の教育は,他国の文明や文化を学び,追いつくことで近代化を図ろうとしていた。教育課程審議会は「豊かな人間性や社会性,国際社会に生きる日本人としての自覚」7を現在の教育の課題であると答申した。

 日本は世界の大国と肩を並べるほどの文明国になった。その一方で,自国の文化に取り組む姿勢が,今,教育に求められている。
 郷土の音楽への取り組みは,将来,日本文化を誇りとし,それを自らの背景にしながら世界で活躍するような子どもたちを育成する第一歩である。


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