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五分間

 無性に腹が立っていた。
 これから早朝の補習だった。
 母親の、気をつけなさいよという声が聞こえ、よけいに怒りが増した。
 感情が抜け落ちた不自然な気遣いに腹が立つ。
 腫れ物に触るようなコミュニケーションは憂鬱だった。お嬢様育ちの母親は繊細だが思いやりがまったくない。
 玄関のドアを開けて外へ出ると、朝の新鮮な空気が頬をなでた。
 俺の怒りの理由は不確定な要素から来るものだった。受験や進路のこと、家庭のこと。あまりにも不確かな先のこと。それに恋愛のこと。まるでそれは、心の中で黒い糸がぐしゃぐしゃと絡まっているかのようだ。子供の頃によく見た内容のない夢に似ていた。
 現実を見れば正しいのか。夢を追えば正しいのか。それは心を不安定にさせる。
 希望と失望の一卵性双生児、などという表現は古臭いが、非常に正しい。
 自転車に乗って道路に出た。
 これは、俺がはじめて自分のお金で買ったものだった。
 中学生だからアルバイトは基本的にできない。最後の夏休みに高校生のふりをして、叔父の小さな海の家で働いたときの金だ。
 親は買ってやるといっていたが、俺は拒否した。欲しいと積極的に思っていたわけではない。言葉にしにくいが、そういう問題とは違う。安物でもいいから、とにかくなにか自分の力で物を手に入れたかったのである。
 夏休みをつぶしても、どうせ受験勉強はやったりやらなかったりだから、どうということはない。現状は、そのせいで第一志望校が微妙な感じだった。補習はその休みのツケである。
 路地を抜け住宅街から飛び出した。途中、すれ違いざま邪魔な路上駐輪の自転車を蹴り飛ばした。派手に倒れてライトが壊れる。
 早朝だから、誰も見ていない。
 最近キレる若者というニュースを良く見るが、今の俺はたぶんそれに近かった。
なんとなく自分が、世界一危険な存在のような気がしてきた。もちろん気のせいだが。
 しばらく行くと、長い長い緩やかな一本の下り坂に出た。おそらく俺の住むこの街で、もっとも長い坂である。
 昔から一気に、ここを自転車で降りていくのが好きだった。
 手前の横断歩道で俺は止まった。信号が赤だ。いつもはここの信号は守らないし、車が来なければ無視だった。しかし、今日は急いでいく意味も必要もないので珍しく止まったのである。生徒に関心が薄いくせに、親身なふりをする補習担当の教師の顔など一秒でも多く視界に入れたくないからだ。
 車は一台もこなかった。静かな朝だった。
 深呼吸をした。遠くに森と海が見える。ここからの見晴らしはすばらしい。緩やかな坂の下、その向こうは日本海だ。
 空が青い。秋の風が心地よい。
 みんな、自分が生まれた季節がもっとも心地よいのかなと、愚にも付かないことを思った。
 そんなことを考えていて、ふと見ると、いつまでも信号が変わらないことに気がついた。
 電柱を見た。押しボタン式だった。交通量が少ない場所だからだ。いつも信号無視をしていたため気がつかなかったのだった。
 俺は自転車に乗ったまま電柱に近づき、不自然な姿勢でボタンに手を伸ばした。次の瞬間、背後から白い手が伸びてきて、先に押してしまった。
 驚いてバランスを崩し、危うく転びそうになった。
「おっとっととっ」
 振り向くと女がいた。
 いわゆるOL風の服装の女。年齢は二十代前半くらいか、スマートで背が高く、俺の身長百七十五センチと変わらない。美人だが、その口元の変な笑みが俺の癇に障った。転びそうになったせいもあり、俺はにらみつけた。
 女は視線が合っても笑みをうかべている。
「なに笑ってんだよ」
「……楽しいから」
「は?」
 俺は女の顔をまじまじと見てしまった。頭のいかれた電波系かと思いながら聞いた。
「なにが?」
「今日、起こるべき未来がね」
「みらい?」
 俺はこいつは頭がおかしい奴だと思い、自転車のペダルに足をかけた。その瞬間、タイヤのスポークがガキンと音を立てた。振り向くと女の持った傘が後ろのスポークの間に差し込まれていた。
 俺は予想外なことに驚いて目を見開いた。すべての眠気が地平線の彼方まで吹き飛んだ。
 いきなりなにをするんだ、こいつは――
「おい! てめぇ、なにやってんだよ」
「坂道降りるんでしょ、お姉さんを乗せていきなさい」
「は? なにいってんだ。なんであんたをのせなきゃならないんだ」
「うしろがあいているからよ」
「馬鹿か、おまえ」
「君、乗せないとスポーク折るわよ」
 次の言葉がでてこなかった。こいつは本格的にやばい奴だ。そういえば、やけに目が充血しているではないか。酔っ払っているのか、それともまさか、変な薬でもやっているのだろうか。
「やめろよ、いったいなんなんだよ、酒でも飲んでるのか?」
「要求は一つ。坂の下まで降りるだけよ」
 じぶんで歩け、といいかけたとき女は傘を道路端に投げ捨て、後ろに乗っかった。
「おい、いい加減にしろ。あの傘は捨てていいのか」
「あれは、そこで拾ったものよ。そんなのいいからスタート、レッツゴー。いけ、小僧」
「誰が小僧だ。ふざけなんよ、てめぇ」
「あ? てめえとはなんだ、この美人のお姉さんに向かって」
「自分で言うな、降りろよ」
 俺は押そうとして触れようとした瞬間、悲鳴を上げるわよと呟かれて固まった。
 俺は、やむを得ず坂を下りはじめた。
 くそったれ女め。叫ばれたら不利だ。受験が近いのに痴漢にでもされたらかなわない。まったく今日は厄日だ。少なくとも朝のテレビ番組の占いコーナーでは最下位に違いない。
「もっとゆっくりいきなよぉ」
「あんた、いったい誰だよ」
 俺は吐きすてるように聞いた。
「んー。わたしはエミコ、笑う子と書く」
 またがらずに、片側から腰をかけて、俺の肩をつかんだ自称、笑子はそう言って鈴のように笑った。
「笑う子ぉ? こっちはまったく笑えない」
「そお、それより空が青いわねぇ、今日はとくにさわやかな日よ」
「確かにそれはそうだがな……」
「だからゆっくりと、心があらわれるように」
「あんた、さっきから言動がおかしいよ、やっぱり酔っ払ってんだろ」
「さあねぇ」
 俺たちは異様にゆっくりと、下っていった。
 通りがかりの散歩の爺さんが振り向いて、こちらを不審気に見る。早朝だからいいものの、学生服の俺と、フォーマルスーツの女の二人乗りは目立つ。
 スピードを上げようとすると、笑子は俺の頭を手のひらでパシパシ叩いた。
「痛え!」
「速いよ」
 俺はブレーキを小刻みにかける。
「……いい加減にしろよ。あんたさぁ、これから仕事じゃないのか? こんなことしてていいのかよ」
「いいのよ」
「へんなやつだな」
「む。変とはなんだ、こら、ガキのくせになまいきだぞ」
「……」
 俺は通りがかりに歩道の不法駐輪自転車を蹴り倒した。笑子は後ろで、おおー、ワイルドとか言っている。ふざけやがって。俺はへの字口にして、鼻からため息をついた。
 こういった場合どうすればいいんだ。
 経験は答えてくれなかった。俺はまだ人生の五分の一も生きていない。
 ここは冷静に理由を聞くべきだ。
 ふいに振り向いてみると、笑子はなぜか泣いていた。
 ――なに?
 笑子は俺の背中を軽く叩いた。それから腰に手を回して、背中に頭を寄せた。体温を感じて一瞬どきりとした。
 無言で、しばらく過ぎた。
 目の充血は、泣きはらしたものだったのか。
 思考の中で言葉が、スロットのコインみたいにジャラジャラと落ちていく。一つだけ手元に残ったのでそのまま言った。
「……なにがあったんだよ?」
「しばらくこのままで……」
 坂の終わりが見えてきた、道は左右に分かれ正面はガードレール。その向こうは崖だ。
 俺は自転車を止めて笑子を見た。
 タイトで短いスカートからのびる、白いきれいな足。長い指、気が強そうな瞳。
 なあ、と促すと、笑子は言った。
「ごめんね、変なことして」
「……」
 言葉に詰まった俺と視線が合った。
「なに、心配してくれたの? 優しいのね」
「別にそういうわけでは……」
 俺は少し赤面した。
 笑子の頬に一滴涙が伝わる。俺はポケットからハンカチを出して、無言で渡してからまた自転車をこぎ始めた。
 やがて長い坂は終った。
 あんまりゆっくりで、たっぷり五分くらいはかかっただろう。
 自転車が止まると、笑子はさっと降りて、素早く俺の頬に唇を寄せた。
 俺の思考も止まった。
 笑子の手が伸びて、学生服の上着のポケットに何かを入れた。
 それは硬く重いもの。
「ありがとう。ハンカチ貰うわ。それと交換してね」
 笑子は完璧な笑顔を俺に見せて、踵をかえして歩道を歩いていった。
 俺はそのうしろ姿を見ながら、ポケットに手を入れた。
 とりだしてみると、それは折りたたみ式の刃物、いわゆるバタフライナイフという代物だった。
 いったい今日の予定はなんだったんだろう。
 でも、どうやらその楽しい未来は変わったらしいが――
 しばらく俺の心は彼女に占領されていた。
 もう一度会えたら言いたい言葉が一つあった。
 でも、もう二度と会うことはなかった。
 今でも、そのナイフは俺の机にしまってある。
 心の中にもしまってある。
 この刃で、まだ見ぬ未来に切り込もうと勝手に決めた。



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