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愛せども、雲かすめ

「桜並木が綺麗だったよ」
 彼女はふいにそういった。
「今日はどうしたんだ? やけに感傷的じゃん」
「いいじゃない、たまには……」
 僕は、トランクス一枚の姿で、目玉焼きを作りながら、彼女の目を見た。
 何も考えてないような瞳の奥に鈍い光が見え隠れする。
 彼女はいつもそうだ。感情を外に出すのを極端に嫌がる。
 全裸のまま、薄い上掛けに包まるようにして、リビングのソファーに座り、物憂げに僕を眺めるようにしている。
「それで、どこへ行ってきたんだ」
「西町公園」
「子供といっしょにかい?」
「そうよ。それで、桜が凄い綺麗でね、あたしあんまり花見なんて好きじゃないから、いままであんまり見ようともしなかったから、なおさらそう思ったの」
「なるほど」
「それでね、あたし一年ぶりに泣いたわ。勝手に涙がでてきたのよ。変でしょ」
 彼女は淡々と話す。僕に聞かせようというより、まるでなにか独白のように。
「なんか、感動したとは思えない言いかただね」
「そうよ。感動なんかしてないわ。むしろ失望したの」
 彼女は吐きすてるように言ってから、近くに投げ捨ててあった下着をつけはじめた。
 急に不機嫌な目つきをしてテレビを付けた。
 昨日の晩は、子猫のように甘く鳴いていたのに、それがまったく嘘みたいな、きつい表情だ。
 感情の起伏が激しく、彼女のそんなところが、僕は苦手だ。
「失望ってなんだよ」
「綺麗だったけど、散った花びらを踏みしめる、あの子を見てたら、急に、桜は身勝手だと思えてきたの」
「そんなこといったって仕方ないさ。桜は、ぱっと咲いて散るものだ」
「そう、みんな身勝手……」
「……」

 僕らは、去年離婚した。たった六年の結婚生活だった。
 白髪が生えるまで、そばにいると誓ったはずなのに、それは脆く、はかないものだった。
 馴れ合いを求める僕は、結婚してからは、優しさばかりの人間になった。
 新鮮なものを求める彼女は、僕がやさしくなればなるほど、僕を裏切った。
 僕は、テーブルにベーコンエッグと食パンとコーヒーを運んでから、彼女の目を見つめた。
「……なぁ、身勝手だったのは、僕だったと思うかい?」
「その話はもういいわ」
「僕は君を信じた、変わろうと思った。君をいたわった」
「わかってる。だけど、そんなのいらなかったのよ。あなたは夫だったのよ。あたしの保護者じゃない。あたしは、息苦しかった」
 息苦しいと、他の男とも寝るのかい。と僕は言いそうになったがやめた。
「もっと、心をさらけ出す勇気があれば、傷つけあわずに済んだのかもな」
「そうね……。とりあえずわかったことは、こうやって月一で会えば、あたしたちは、なんとかうまくいくということかな」
 僕はため息をついて、テレビを見た。
 全国の開花予測とそれに挿入される、ほのぼのとした幸せそうな家族のカット。それは、冷たく僕の頬をなでる。
 月一回の、セックスしてデートするだけの関係は幸せなのだろうか。
 テレビの隣の、高かったモダンなサイドボードの中には、不釣合いなガンダムのプラモデルが二体飾ってある。洒落た小物のディスプレイも台無しだ。それは、五歳になる息子に僕と彼女が買ってきたものだった。誕生日にまったく同じものを買ってきてしまい、同じものが二体もあるというわけだ。その日、二人で笑いあった。たぶん幸せだったと思う。その時の、鳩が豆鉄砲食らったような息子の表情を思い出すと、優しい気持ちになる。
 幸せとはなんだろうか。
 そんな思いを断ち切るように、彼女は決定的なことを言った。
「でもね。桜が散りきるまでには、この関係も終わりにしようよ」
「なんで」
「あたしは、一人の人を愛せないの」
「そんなの……もう、いいさ」
「わからない? あたし、あなたのこと、もう嫌いなのよ」
「それなら、なぜ僕に抱かれる」
「愛してるから」
「どっちなんだよ」
「両方よ。嫌いなんだけど、愛してるの」
 僕は、一瞬そんなことあるかと思ったが、よく考えれば、好きだけど愛してないなんてのはよく聞く。逆もあるのかとも思い直した。事実、僕も言われてみれば、彼女に対し、そんな感情になっている気がする。
 僕はどうすればいいのだろう。
 今は、あの頃、未熟だったと気がつく。だが、離婚して寂しさを手に入れても、成長した実感はない。
 成長ってなんだろうかと思う。
 僕の心はまだ幼く、少年のように、この町のアスファルトをさまよい歩いているだけなのかもしれない。
 コーヒーをすすると、彼女の携帯電話が鳴った。こんな朝早くに誰だろう。彼女はパンに噛り付きながら、今のボーイフレンドよと素っ気なくいった。
「出ないの?」
「今日は出ない。あなたとの時間だから」
「それは光栄だね」
「そうだ、今日のお昼は鰻でも食べない? いい鰻屋さん見つけたのよ」
「いいね……」
「スタミナつけて、あなたも、頑張りなさいよ。人に優しすぎちゃ駄目。これからは、自分のためにも生きてみて」
「……」
「だから、これでおしまいにする。愛してるうちに終わりにする」
「……そうか」
 僕はなんとなく彼女に触れた。背中に回って強めに抱きしめた。一回だけキスをしてから、深く深くため息をついた。
 外はもう明るくなっている。
 出窓のカーテンを開けると、ほんのりチョコレートの香りがした。彼女が近くのホームセンターで購入したチョコレートコスモスが、小さなプランターに咲いていた。フラワーアレンジメントに凝っている彼女のお気に入りの花だ。
 僕は朝日を浴びながら、この光が炎だったらいいのにと思った。
 僕など燃え尽きてしまえばいい。
 この甘い香りの中で消え去りたい。 
 愛してる。
 つまらない言葉だ。
 痛々しくて、くだらなくて、あたたかい。



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