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魔王氏(年齢不詳)独身

「神め!」
 魔王は、いきなり、ちゃぶ台をぶち壊して、ひっくり返した。
 醤油と目玉焼きが宙を舞い、フローリングの床を茶碗が滑る。
 吹っ飛んだ食パンが、豪快に窓ガラスに張り付いた。
 部屋の持ち主である、大学生の利明は、部屋の隅で震えていた。
 朝食がぶちまけられた床には、なにやら血文字で幾何学的な図形がかかれている。
「神め! 神の野郎め! 絶対にぶち殺してくれるわ。やっとだ、やっとこの時が来たのだ! 二万年の長きにわたる地獄での塗炭の苦しみと、狂気的怒りの日々と……」
「……あのー」
「絶望と、意志が砕けるような、暗鬱なる退屈の悪夢は……」
「あのー、盛り上がってるところ悪いんですが……」
「この日が来たからには、我が全身全霊を尽くして……」
「あなたは、いったいどこから部屋に入って……」
「そうだ! このときのためにあみ出した最強の技で……って、さっきから、うるせぇな!」
 魔王は漆黒の腕を上げて、野獣の爪が生えた指で利明を差し、不吉な赤い目で睨みつけた。
 びくりとして硬直した利明は息を呑んだ。
 顔をひきつらせながらも、半笑いで恐る恐る質問をした。
「あ、あなたは一体、どこのどなたで?」
 魔王は、ヤクザも失禁するような凶悪な形相で、ニヤリと笑った。
「我輩は、魔王だ。地獄の最深部にそびえ立つ、瀟洒な宮殿の最上階に住んでおる」
「……はぁ。そうですか。まおうさん。だから、あのですね、もしかして部屋を間違えていませんかね。こんなことをして、さすがに冗談じゃすみませんよ。壊したものは弁償してもらいますよ」
「いや、間違えてはないはず……。は? なんだと、弁償だと? 我輩にそんな口の聞き方をする貴様こそ誰だ!」
「この部屋の住人の、植田です」
「住人だと? ほう、単なる人間風情が、宇宙最大の約束の地である、この地の所有を表明したうえ、我輩に暴言を吐くというのか!」
「に、人間って……。所有って言っても賃貸ですよ。あたりまえですけど。しかし、いきなり部屋に入ってくるなんて非常識ですよ。それに、暴言なんて吐いてませんから。まおうさん、そんな格好してると、最近物騒だから、通報でもされたら面倒ですよ」
 魔王は、自分の姿を見た。
 筋骨隆々たる漆黒の肉体。
 まるでギリシャ彫刻のような、均整のとれたスタイル。
 鋼鉄より硬い美しい爪は、神を解体するためにきれいに磨かれている。
「そんな格好とは、なんだ!? 貴様の、その貧弱な肉体と比べるな」
「そりゃ、僕は確かに貧弱ですけど……、いえ、そうじゃなくて、コスプレも最近は市民権をだんだん得てはいまけど、やっぱ、その格好で出歩くのはやばいですって。その出来は確かに凄いと思いますよ。だけどですね、わかってください……」
「言ってる意味が、まったくわからんな。それより貴様、茶をいれよ!」
 魔王はその場に座り込み、床を叩いた。
「ちょ、ちょっと! 怒られますからドンドンしないでくださいよ。入れます、入れますから、ちょっと話を聞いてください。誤解をときましょうよ」
「誤解も糞もない。ここは待ち合わせ場所なのだ。約束の地なのだ。二万年前から、最終決戦の場と決めてある。アルマゲドンだ。そうだな、あと二分ほどで神がここに出現する」
 利明は呆れた顔で、朝食のためのインスタントコーヒーに、ポットからお湯を入れて、そのマグカップを魔王に渡した。
 フムと、うなずいた魔王だが、マグカップの中身を見て片眉を吊り上げ、唸った。
「貴様ぁ! なんだ、この泥水は!?」
「は? それは、だから、コーヒーですけど……」
 魔王は、無礼者と叫んで、マグカップを握りつぶした。
「あちちちちち!」
 東京下町のアパートの二階に、魔王の情けない声が響いた。
「熱いぞ、このボケナスがぁ! お茶といえば、緑色に決まっているだろうが!」
 激怒した魔王の拳が、利明の腹部を襲った。
 グリズリーをも、一撃で仕留めそうな破壊力が炸裂し、利明はその衝撃で吹き飛んで、窓ガラスを突き破って宙を舞い、アパートの駐車場に落ちた。
 なぜ僕が、という顔をした利明を中心に、アスファルトを血溜まりが広がっていった。
 アパートの住人は皆、学校や仕事なのか、ガラスの割れた音がしても誰も現れなかった。
 時計を見ると、午前九時五十九分である。
「くっくっく……。はっはっは! やってやるぜ、神の畜生め!」
 魔王は血走った目つきで、シャドウボクシングをし始める。
 三秒前。
 シュッシュッシュ。
 二秒前。
 シュッシュッシュ。
 一秒前。
 シュッシュッシュ。

 ――何もおきなかった。

「……」
 そのままの状態で、一分ほどが過ぎる。
 やはり、何もおこらない。
「馬鹿な。なぜ来ない! なぜだ!」
 魔王は、身構えたまま叫んだ。
 その時、血みどろの利明が、玄関を開けて入ってきた。しかし、そこで力尽きたのか、膝から落ちてうつぶせに倒れた。
「む? なんだ。まだ生きてたのか」
 やがて利明の指が、床に血文字を書き始めた。

 ――降りて憑依するための人間が死んじゃったがな。次のチャンスは二千年後だよ。じゃあ、そういうことでバイバイ。神より。

「……」
 魔王は途方にくれて、台所の茶碗を手に取り、緑茶のティーバッグをいれお湯を注いだ。



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