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思い出と空と命

 いつから僕は、こんな感傷的になったのだろうか。
 一年ほどつきあった彼女と、ささいな喧嘩で別れた。
 僕は引き止めなかったし、彼女は泣くこともなかった。
 友人の紹介で付き合うことになった僕らだが、恋愛というより、単なる馴れ合いだったのかもしれない。
 それは、少しだけ高度な、おままごと。
 一年は長いようで短かかった。
 空気に流されがちな僕らの世代は、なにが重要で、なにが大切なのかを感じることが、不得意なのかもしれない。
 平和に埋もれ、まるで枯葉のように脆い。
 くだらないことに意固地になって、くだらないことに心を捧げ、くだらないことにこだわる。そして、くだらないと決め付ける。
 喧嘩も、そんな程度のお話。
 もちろん悲しくないわけじゃない。
 きのう道端で、車にはねられたらしい、のら猫の死骸を見ただけで、泣きそうになった。
 あの日からずっと、嫌なことがあると、ひどく心が重くなる。
 何ヶ月も、憂鬱に悩み、苦しんでいる。
 今日は、春の日差しがまぶしい。以前なら、こんないい日は、どこか遠くへ行きたくなったはずだ。
 彼女を車に乗せて、無目的にドライブもいい。
 どうしようもないことで笑いながら、買い物に付き合ってもいい。
 でも、もう終わったことだ。
 終わったことだった。
 ついさっき、街で彼女を見てしまったのだ。
 となりに男を連れていた。友人とか、兄弟かもしれないが、ひどく感傷的な気分が、そう思わせてくれなかった。怒りに似た気持ちが心に渦を巻いた。だいぶ近くにいたのだが、向こうは気が付かなかった。いやあえて無視したのかもしれない。
 どうにか忘れたかった。
 忘れなければ前に進めない。こんな僕を、女々しいと人は言うのだろう。だけど、きっと男のほうが心の傷に弱いのだ。
 僕は彼女を隠れて追った。忘れたいと思った気持ちも忘れていた。
 ストーカーになった気分だった。彼女のいまを知りたかったのだ。
 いや、嘘をついた。
 彼女に失望したかったのだ。失望して諦めたかった。

 彼女と男は、しばらく街を歩き、ドラッグストアや本屋に立ち寄ったあと、歓楽街をぬけ、静かな路地へと入っていった。ラブホテルの多い場所だ。
 失望の冷たい水が、僕の心の暗い火を、消してくれるかもしれない。
 だが二人はもっと静かな地域へと向かった。
 やがて、お寺の墓地へと入った。彼女が墓参りなんて珍しいことだ。風に乗って声が聞こえた。
「姉さん、相田さんも、立ち直ってほしいと思ってるんじゃないのかな……」
 僕が彼女に立ち直ってほしいと思ってるだって?
 男が、弟だったことになぜか安心しながら、絶望的な気分になった。
 墓石には、僕の名が刻まれていたから。

 僕は春風に乗って空に舞い上がった。
 認めたくなかった。忘れたかったのは、自分が死んだことだった。
 彼女と別れた翌日、僕は車にはねられた。
 それ以来、何ヶ月も、街の空に浮いている。
 自分の人生の思い出と、自分の存在しない世界の動きを見つめながら。
 でも、それはもうおしまい。
 彼女が墓石に手を合わせたとき、僕という火、そのものが消えたような気になった。
 そんな気持ちになったら、僕の実体の無い身体が、手の先から光の破片になって消滅しはじめた。
 僕の想いとは、なんだったのかわからない。
 相田という男は、なにを残せたのかもわからない。
 でも、もういい。
 生まれ変われば、すべてを忘れてしまうだろう。
 そうだ。くだらないことなど、なにもない。

「空が青いな」

 ――その日、市内の病院で、元気な赤ちゃんが産声をあげた。



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