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 その日、わたしは、変人で有名な田中誠人先輩と買い物することになった。
 直々の先輩から付き合えよと言われたら、断るわけにもいかない。
 いや、そもそも断る気などなかったが――

「おーい、ほら、おせーぞ。そうだ、あと本屋いこーぜ」
「本屋ですか~?」
「そう。何? 不満かな」
「いえ、もう会社の買い物は終わってるんじゃないですかって、思ったんで――」
「あ、いや、すでに僕の私的な買い物モードに入ってる。……なんだよ、だから不満か、真下由希?」
「いえ、そんなことは……」

 たしかに、わたしの名前は真下由希だ。
 だけど、なぜフルネームで呼ぶのだろう。
 ちょっとへんな人だった。ふつうに苗字で呼べばいいと思う。できたら名前かニックネームで呼んでもらえたら、それはいいのだけど……
 田中先輩は、五歳年上で、背はわたしより少し高く、やさしい笑顔と切れ長の涼やかな目をもった人だ。会社の男性陣の間では、変人の異名で通っている。軽い喋りや、名前の呼び方もそうだけど、お昼休みには延々と窓際のソファーでだらしない姿勢で、本を読んでたりするのも変だ。でも、単なる変わり者の、だらけた人かと思いきや、みんながめんどくさがる備品の買い物を、好んでこうやって出たりする。
 変人の異名は伊達じゃない。
「何、買うんですかー」
「なんか、本」
「なんですか、それ。本屋で本はあたりまえじゃないですかぁ」
「ほう、嫌なら帰っていいぞ」
「……勘弁ですよ、先輩の車で来たんですよ、ここから会社まで歩いて帰れっていうんですかぁ」
「ばーか、冗談だよ」
 まったく、つかみ所のない人である。
 市街地を歩き、書店に着くとなんだか嬉しそうだ。
 以前、耳にした情報だと、本屋が好きらしい。だけど図書館は嫌いだと言っていた。雰囲気の問題ということのようだが、わたしには違いがわからない。
「僕は、本にはちゃんとした身銭きらなきゃ駄目だと思うんだよね。安いリサイクル中古書店もいいけど、あんまり安く買うと、ちゃんと読まない気がするんだ。良作も駄作もあるけど、読もうと思ったのは自分の判断だし――」
 そんなことをわたしに言いながら、田中先輩は、写真集の前で立ち止まった。アイドルの水着写真集が見えて、わたしはなんとなく居心地が悪く目をそらしたが、先輩が手に取ったのは、月の写真集だった。
「こういうのいいよね。あと、街角の何気ない市井の人々を撮ったやつもいいけど、どっちがいいと思う?」
「んーそうですね、……月のほうかなぁ」
「じゃ、決めた」
「えー、わたしの意見でいいんですか?」
「なんのためにつきあわせたと思ってるんだよ」
「これのためですか」
「いや……、ちょっと会計すまして来るよ」
 漫画のコーナーを少し見たあと、店から出ると、真上の太陽を見上げて、田中先輩は大あくびをした。
「なぁ、午後の仕事なんか、しらばっくれて、東公園の池でボート漕がないか? いい天気だし」
「……えー、それはマズイですよ。それに会社の人に見られたら、わたしなんかと、変なうわさ立てられますよ」
「わたしなんか、だって?」
 田中先輩は、そう言って、急にわたしの手をとった。手のひらを上に向けさせて、わたしの目を真正面から見る。心臓が悲鳴をあげた。たぶん頬も耳も真っ赤になっていることだろう。
「イェーイ、真下由希。入社一周年アンド、誕生日おめでとう!」
「……」
 わたしは絶句して、手のひらに置かれた、きれいに包装されているさっきの本を見た。
「……先輩?」
「知ってたよ、気がついてた」
 単に誕生日のことをいってるのかと一瞬思った。だけど違った。
 先輩の瞳は真剣なものだった。
 わたしは、先輩が好きだった。半年前からずっと見ていた。
「そんなこと……」
「さすがに鈍感な僕でも、なんとなくわかった――」
 その笑顔がまぶしい気がして、わたしはちょっとうつむいた。
「さて、公園へ行こうよ」
「……だから、さぼるのはマズイですってば」
「堅いなぁ」
「堅いといえば、いちいち、フルネームで呼ぶのやめてくださいよ」
「どうして、真下由希?」
「だから、それは、変ですってば」
「そうかな」
 首をかしげて、先輩は歩き出した。ブツブツなんか呟いている。唐突に振り返った。
「まっしー、とか、どう?」
「なんでもいいですけど、とりあえず、普通に上下どっちかでお願いします」
「なんか恥ずかしいんだよな。うーん、それじゃ…… ゆっきーさん、てのは?」
「……会社じゃ、それはやめてくださいね」
「では、――真下どの」
「いつの時代ですか?」
 ――もう。
 わたしの、大好きな、ちょっと変な人……。



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