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橋の向こう

 オレは、夜の公園で焦燥感にせかされながら、彼女を待っていた。
 待ち合わせの公園は、ごく小さなもので、河川から程近く、少しだけ水の香りがする。
 時刻は九時を回り、ほとんど人は見かけない。川の近くの駐車場に夜釣りの車が何台か止まっているだけだ。
 昼間は春らしい陽気だったが、夜はなんとなく肌寒い。おれは春は好きじゃない。よくわからない不安をかきたてられる。
 今年から高校三年だからというだけではなく、沢山の問題をかかえているせいで、それは否応も言わせないほど大きくなって、オレを不安にさせる。
 オレが抱える、いろいろな問題の中で最大のものは、受験のことではなく、ほとんど彼女のことであるが、よく考えてみれば、もう一年以上も彼女がオレの不安の一位を独占している気がする。
 すでに散った桜並木を眺めながら、それでも幸せの第一位も彼女なんだろうなと思い、そんなことを考える自分が、なんとなく恥ずかしくなって、オレは石ころを思いきり蹴った。
 川には大きな橋が架かっていて、ナトリウム灯で暗闇に浮かぶその橋を眺めていると、向こう側から、背の高い見慣れた彼女がこちらへ渡ろうとしてくるのが見えた。
 オレはいてもたってもいられなくなって、小走りで橋へと向かった。
 学校で彼女は、今日帰りに重要な話があるといって、オレに意味ありげな、それでいて困惑したような視線を送ってきた。
 なんとなくオレには、話は推測できる。
 彼女とはもう一年以上にもなるし、たくさんベッドで会話もした。
 先週には、彼女の部屋で、妊娠検査薬を発見してしまい、なんとなくドキドキして元にもどして気が付かないふりをした。ずいぶん前に、オレは酔って避妊をしなかった日があるのを思い出した。
 橋の真ん中まで行くと、彼女もオレに気が付いたようだ、軽く手を振る。長く清潔感のある黒髪がゆれる。アクセサリー類は一切していない。
「……どうしたの? ここは目立つよ。だから、公園って言ったのに」
「関係ないって…… それで話って何?」
「たぶん、わかってると思うけど……」
 そう言って彼女は、橋の欄干に手をかけて川に視線を落とした。
 オレは無言で、横に並んで遠くの町並みを見た。ポケットから煙草を出して、くわえて火をつけると、彼女は嫌な顔をする。
「煙草はやめて。せめて、制服で吸うのはやめなよ」
 オレはため息とともに煙を吐いてから言った。
「……たぶん、出来たって話だよな?」
「……うん」
 彼女は泣き笑いのように顔を歪ませた。どうしたらいいのか迷っているのだろう。
「やっぱ、そうか……」
「どうしたらいいかな」
「産むか、産まないかってことだろ。どうなん、産みたい?」
「……そんなの、わかってるでしょ。君は産んで欲しい?」
 オレは、空の深い闇に目を凝らした。
 もちろん二人の子供が出来るなら嬉しいことだ。彼女もそうだろう。かすかにオリオン座のリゲルとペテルギウスが見えた。あの星たちも人間と同じく生まれ死ぬのだろう。生命の受け渡しをする。短いか長いかの違いだけで、この世のなにもかもが、循環と連鎖の上にある。ちょっとだけ心に痛みが走った。オレが父親になるなんて、完全に想像の外だった。いまだに親に大きな迷惑をかけてるオレが、親になる。それはどうなんだろう……。
 考えても答えはないし、答える者もいない。結果はどうであろうと、決めるのは自分しかいない。
 彼女の横顔を見る。いつも冷静で、感情の抑制が得意で、あんまり人に弱気なところを見せたがらないのに、目に涙があふれ、ボロボロと涙がこぼれていた。
 背後を通り過ぎる、自転車のおじさんが好奇の視線で、オレたちを見た。
 オレはなんとなく、こう言った。
「賭けでもしないか?」
「へ?」
 彼女は間の抜けた表情をしてから、オレに何を言ってるのかという顔になって睨んだ。
「あのおじさんが、橋を渡りきって、左右どっちに曲がるかで、賭けをしよう」
 彼女は怒った顔をして、すぐに何をよ、と言った。
「オレたちの未来を」
 小さな賭けが好きなオレと彼女は、いろんな迷うことがあると、こんな遊びをよくする。
「遊ばないでよね!」
「遊んでねぇよ!」
 オレが真剣にそういうと、彼女は黙った。
「オレは、右に賭ける。賭けるものは、オレのすべて」
「……ねえ、そんなことで、決めるの?」
 彼女は涙を拭いてから、もはや呆れたようにオレを見た。やがて、おじさんはゆらゆらと自転車をこいで、橋を渡りきった。
 彼女は痛みをこらえるような顔でそれを見ていた。
 そして……。

 ――右に曲がった。
 オレは煙草を川に投げ捨てた。野球のピッチャーのフォームで、箱もライターも、投げ捨てた。
「決めた。オレ、卒業したら働くわ。大学は中止。親父に土下座する。就職に困ったら、親戚に頼み込んでも頑張るよ」
「……ねえ、もしかして、あのおじさんが、右に曲がるの知ってたでしょ?」
 オレは答えずに少し笑ってから、彼女を静かに抱き寄せた。
「そしたら……二人で暮らそう」
「……うん」
「誰の反対も認めない。誰の文句も聞かない。なにも間違ってはいない。オレは、君と、もう一人を守りたい。そう思う」
「うん……」
「そうだ! ちゃんと常識知らないと、親父んなるやつがまずいからさ、それまで国語の授業、しっかり教えてくれよ。な、先生……」
「……はい」
 十歳差で、教師と生徒という、オレたちには困難が待ち受けてるのはまちがいないだろう。
 春の香りがする夜風が、オレと彼女と、まだ存在だけのもう一つの命を、やさしくなでて通り過ぎて行く。
 未来は、夜の闇のように先は見えないが、橋の向こうは必ず存在してると、オレは強く信じている。
 そうさ、明けない夜も無いだろう。



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