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くり返される空の下

 人生とはいったい何なのか。
 同じことの繰り返しが、心の隙間を増やしていくだけな気がする。
 サナエは下着姿でソファに横たわり、だらしなくガラスの向こうの灰色の空をみつめていた。
 シャワーを浴びて湿り気を帯びた肌を、空調の風がくすぐるように撫でていく。
 午後一時――。
 なぜ、わたしはここにいるのだろう。
 なぜ、わたしは今日もこんなことをするのだろう。
 男を待っている時間は空を見ながら、とりとめのないことを考えてしまう。
 かたりと傍で音がした。
 視線をそちらに向けると、テーブルの上に寝そべるグリーンイグアナと目が合った。
 男が趣味で飼っているものだ。
 サナエは何を考えているかわからない爬虫類の目は好きではない。もちろん他の動物の心だって読めるわけではないが、気性が激しいところのあるサナエは、分かりにくい生き物は大嫌いだった。
 男はこのマンションでイグアナと一緒に住んでいた。
 サナエは毎週、男の休日になると、ここへと通っていた。サナエには夫があるが、一年以上まえから男と不倫状態にあるのだ。
 男は、サナエが独身時代に勤めていた出版社の上司で、サナエより十歳上の三十四歳。離婚歴がある。機嫌が悪くても良くても、いつも笑顔を絶やさない変わった男で、サナエは爬虫類以上によくわからない性格だと思っている。仕事はそこそこできるらしいが女性関係はかなり適当だった。
 そんな男とずるずる関係している自分がずっと不可解で、サナエは待ちながらいつも空を見つめているのだ。

「ただいま」
 玄関から陽気な声がした。つづけてスリッパの音が乱雑に響いて、男がリビングに入ってきた。
「やあ、待ったかい」
「ううん……、でも今日はどうしたの」
 サナエは、あと三十分は待たされるのかと思っていたのだ。いつも時間通りに来ないルーズな男が、今日は三分も過ぎてない。
「どうしたもこうしたもないよ。君が大事な話があるっていったんじゃないか」
「まぁね」
「そういわれたら普通は急ぐだろ」
「ふだんから少しは急いだらいいのに」
「それをいわれるとなぁ」
 この男は言葉に忠実だ。なにも疑わないようにそのまま言葉を受け止める。自分は人の感情を読むのが下手だと男はいつか酔っていったことがある。そのわりに人に対してあまり気を使うこともない。子供じみていて、自分勝手な男だ。
 サナエは静かに身をおこして、男を手招きした。
 男はスーツの上着を脱いでから、黙ってサナエの促がすままにソファに座った。サナエは器用に反転して男の膝にまたがり座って、柔らかに覆いかぶさった。
「なんだい、今日は過激じゃないの」
 男がサナエの腰を抱くと、唇が激しく重ねあわされた。
 しばらく互いの口を貪ってから、サナエはため息のように男の耳元で囁いた。
「もう、私たち、別れましょう」
 男は、サナエのお尻をまさぐる手を止めた。
「……ちょっと待てよ。まさか大事な話ってそれ?」
 サナエは返事の代わりに、男の耳たぶを甘く噛む。
 男は眉をひそめ、サナエを少しだけ引き離して、その目を見つめた。
「なんだよ、こんなに欲情してるのに?」
「そうよ」
「じゃ、これが最後かい」
「そうよ」
 なんとなく毅然としたサナエの答えにムッとしたのか、男は荒々しくそのままサナエを抱えて持ち上げると、ベッドルームへと向かった。
 テーブルの上のグリーンイグアナがその動きに驚いて、テレビ台の方へ逃げ出した。
 ベッドルームへ入ると、男は乱暴にサナエをベッドへ放り出す。
 男は素早く服を脱ぎ、窓際の籐椅子に投げ捨て、慣れた手つきでサナエの下着を剥いだ。
「カーテン閉めてよぉ」
「あっちのビルからは、双眼鏡使わなきゃ見えないよ」
「いや」
「最後なら、俺の言うとおりでいいだろ」
「シャワーは?」
「今朝入ったよ」
「いや」
「君の感じるところ、僕はダンナより知ってるよ。ねえ、みんな忘れてさ、流されちゃいなよ……」
 男の舌がサナエの乳首を包み込み、サナエは小さく声をあげた。

 サナエが気が付くと、窓の外は暗くなり始めていた。
 少し寝ていたようだ。
 壁の時計を見ると、午後五時を過ぎていた。
 いけない、帰らないと。
 夕飯の支度に間に合わないと、母さんが怪しむかもしれない。
 サナエは両親と同居している。夫と一緒に自分の実家に入ったからだ。
 親と同居で、三歳の息子を持つ専業主婦の身では、さすがに時間の限界がある。
 料理教室に通いはじめたということで、逢引をしつづけてきたが、そんな嘘も今日で終わりになるだろう。
 それに料理は相変わらず、上達してない。
 男は、くの字になってサナエを包み込むように寝ていた。
 サナエは、起こさないように腕をどかして、半身を起こしてから、男の優しい寝顔を少しのあいだ眺めていた。
 ほんのちょっぴりだけ、何かが胸の奥から背筋へ締め付けた。
 それを振り払うように、かすかに頭をふってから、ため息をはいた。
 この人は、あたしをひどく不安にさせる。
 あらためて、そう思った。
 男はもう結婚はしないと決めているらしい。離婚歴が二回ある。どっちも相手の浮気が原因ということだ。
 つかみどころのない軽さと雑な優しさが、女を不安にさせるのかもしれない。
 サナエも一度は夫と別れて、この男と暮らしたいと思ったことがある。
 だけど、サナエはそこまで踏み切れなかった。
 夫と息子があること以上に、男に対する自分の感情がまったく安定しなかったからだ。
 不安にさせる男とは長続きしない。
 別れを告げても、心ではなく体でつなぎとめようとする男は不幸だ。
 その男に救いを求める女はもっと不幸だ。
 別れを決めた今は、それがより鮮明に理解できる。
 電動のカーテンを閉めて、明かりをつけた。
 手早く支度をしてから、キッチンの冷蔵庫に吊り下げられたホワイトボードに別れの言葉を書いた。
 サヨナラ。バイバイ。

 マンションを出て、サナエは空を見上げた。
 自分の空虚さは、まったく贅沢なものだと思った。
 家庭というものを考えてみる。
 人を愛することを無条件に信じてるような夫のことは嫌いではない。
 やさしくてお人よしの夫を裏切ってしまったことには心が痛む。
 このまま何も無く年をとっていくことが苦痛だと思っていた自分は何かが狂っていたのかもしれない。
 退屈とは、ただの個人的な主観にすぎないのだ。
 考えてみれば平凡な家庭だって、毎日毎日、無数のイベントが控えているのだ。本当は何もない日なんてあるわけがない。平凡なんて言葉は錯覚。あたりまえの中に埋没していく自分に流されているだけ。
 サナエは、なにか空虚なものが体から抜けていく気がした。
 ずっと続いていた灰色の空も、そろそろ夏へと変わるだろう。
 自分の中に垂れこめていた雲も、やがて晴れていくだろう。
 ふいに、魚をくわえたドラ猫が、路地から出てきて、自分の前を横切った。
 ハイヒールを脱いで、スニーカーに履き替え、サナエは駆け足で猫を追った。
 そしてまた、月並みで平凡だが、自分らしい、自分ががあるべき世界へと戻っていくのだ。



さーて、来週のサナエさんは~
「マズオ風俗にはまる」「父さん初老の恋」「タエコさんホスト遊び」の三本です。
お楽しみにー。



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