オリジナル小説サイト

潮風が遠くに

 僕は、海岸で遠く流れる雲を見ていた。
 疲れきった僕は、すべてを忘れるために、海を頼ったのだ。
 絶望した心の痛みはすでに半年も僕を苛み、最近は幻覚まで見えるようになった。
 ふと、肩越しに気配を感じて振り向いた。
「美夏?」
 僕はまた幻覚を見ていた。
 半年前に交通事故で死んだはずの恋人がそこにいて、僕を優しく見つめている。
「なに、あたしの顔になにかついてるの」
 生前と変わらない気の強い声音が、僕の鼓膜を甘く震わせ、自然と涙が滲んでくる。
 美夏は、黒く長い髪を潮風に揺らして、僕のとなりに座った。
 夕日に照らされた彼女は美しくて、僕はとても切ない気持ちになる。
 潰れた自動車や、サイレンの音、流れる鮮血、レスキュー隊の声が次々と脳裏にフラッシュバックする。
「泣き虫ね、男は人前で泣いちゃだめだよ」
「ああ」
「何がそんなに悲しいのよ」
「うん」
 僕は、これまで幻覚が話しかけてくることに答えることをなるべく拒んできた。話したら心が壊れそうだった。頭が変になる寸前であることを僕は十分認識していた。
「なにか答えなさいよ」
「――好きだよ、美夏」
「なーに、突然?」
「本当に好きだった……」
「……」
「だけど、もう……、もうお別れしよう」
「そう。決めたのね」
「ああ」
 美夏は悲しそうだった。僕の記憶と想いが作り出した幻影はどこまでも現実に近かった。
「帰ろう」
 僕は立ち上がった。このまま美夏の幻覚を連れて、お墓まで行くつもりだった。そこで完全に自分の気持ちにケジメをつけ、本当の意味でお別れするのだ。
 美夏は寂しそうな、疲れたような表情を一瞬見せたが、すぐに明るく、「うん」と答えた。
 僕は生前の習慣で、さっと手を伸ばした。その手は美夏を貫通し、空気を薙いだだけだった。
 二人で砂浜から国道ぎわの駐車場へと歩いた。
 僕は車のキーをポケットから取り出そうとしたが、そこには何も無かった。
「無いな……、砂浜に落としてきちゃったのかな? ちょっと探してくるよ」
「大丈夫」
「いや、無いと帰れないよ」
「あたしが運転するから平気よ」
「それは無理だよ」
 と僕がいったところで、駐車場に自分の自動車がないことに気がついた。数台の自動車が止められているが、見当らない。
「まいったな、どうなってるんだろう。まさか、これも幻覚なのかな、とうとう完全におかしくなったのか、僕は」
 そういうと美夏が手招きして、スッと行ってしまった。ついていくと、軽自動車の前まで来た。
「え? 違うよ、美夏」
「いいのよ、乗って」
「だから違うよ」
 僕の車はごく普通のセダン車だ。
 そのとき僕は幻覚であるはずの美夏が車のキーを取り出したのを見た。目を疑った。僕はわけがわからなくなった。彼女は何をしているんだ。幻覚が幻覚の車に乗ってどこへ行こうというんだ。
 僕は運転席に乗って手招きする彼女にうながされるまま、助手席に乗った。乗ろうとした。その瞬間、扉をすり抜けてしまった。
 幻覚の車に飛び込むように乗ると、彼女の趣味であるパンダのヌイグルミやパンダグッズが車内にあふれていた。
 これは、いったいどういうことなんだ。
「わかった、そうか、もしかして君は、僕を迎えに来たんだろ?」
「……」
「僕は、食事も満足にとっていないもんな。そりゃ死も近くなるよな。おかしいと思っていたんだ、君は幻覚にしては鮮明すぎるし。なぁ、君は死神とか言われるやつなんだろう? あの世で僕も連れて来いって言われたの? 閻魔さまも気の利いたことをするんだな。まさか恋人を遣わしてくれるなんて」
「違うのよ」
 エンジンがかかった。
 美夏は発進させ、車は道路に出る。
 夕日が車内を照らした。
 海岸線の道はとても見晴らしがいい。
 無言の時が過ぎる。なぜか心臓が高鳴ってきた。もうすぐあの場所に通りがかる。あの時も海からの帰りだった。
「そうか。この世界そのものが幻覚なんだな、もう僕は狂っているのかもしれない」
 僕のその声を聞いた美夏は、痛々しい顔でやさしく微笑んだ。そして、あの日の事故が起こった場所へ通りがかると道路際に車を止めてトランクから花束を出し、通行者に迷惑がかからない林道の隅にそれを供えた。
「ちがうの、あなたがあたしの幻覚なの」
 僕は言葉無く、優しく、優しく美夏の肩を抱いた。
 体が透けていく、砂のように消えていく、潮風に溶けていく。
 美夏は涙をぬぐってしばらくそこに佇んでいたが、やがて太陽の方角を見た。



↑ PAGE TOP