オリジナル小説サイト

膝枕

 悪い夢を見た。
 芳阿はそう言って押し黙った。
 美紀は何も聞かない。
 ベッドの中、芳阿は美紀のとなりで天井を見つめている。
 美紀は大きく息を吐いてから、そっと目覚まし時計のLEDランプをつける。
 午前五時だった。
 言わないなら知りたくない。必要ないから言わないのだろう。
 美紀はそう思っている。無理に聞く意味もないし、大事なことがあれば自分から話してくれるに違いない。
 つまんない性格だな。
 美紀は自分が空虚なことを自覚している。いや、正しくは空虚なものを抱えているというべきか。外見からはそうは見えない。静かに半身を起こした美紀の肌は透き通るように白い。やわらかな茶色の髪は生まれつき。大きな瞳は優しげな光をたたえ、少しだけ厚めの唇も温かな印象がある。職場では笑顔のやさしい美人だとも言われることもあるが、目の奥に潜む光は強く、それはひどく冷たく、時には攻撃的に見えることもあるらしい。
 芳阿はそんな美紀の強い瞳をきれいだと言うが、やさしげな印象に隠れた冷たいものを見たとき、他人はより強く違和感を持つのだろう。
 言葉少なく目ばかりでものを言う、何ごとにも素っ気ない美紀だったが、だからといって、決して冷酷というわけではない。
 楽天的な芳阿が冗談をいえばつきあうし、意味のわからないことをいいだせば、たしなめたりもする。ときには甘いことも言える。ただ、ドライであまり他人に依存しないというだけだった。
 ふと視線を感じて美紀が横を向くと、芳阿がやさしく微笑んでいる。
「なに?」
 と美紀がいうと、芳阿は手を伸ばして白い美紀の乳房に触れた。
 こらっ、と美紀が手をはね退けると芳阿は、悪戯好きの少年のように笑った。
「また、つまらんこと考えてるだろ」
「べつに」
「なんで、そんな応答するのさ。こっちはいい夢に戻ってきたのに」
「いい夢って何よ」
「今がいい夢。寝てるときは悪い夢」
「寝てていい夢を見ているときも、それは悪い夢?」
「そう、これが、いい夢」
 芳阿は美紀の肩を、さらりとガラス細工をあつかうように撫でた。
「くすぐったいよ」
「くすぐってるんだけど」
「ばか」
 芳阿は美紀の全身を長い時間をかけて、まるで何かをたしかめるかのように触れていく。やがて美紀の左ひざを子犬でも撫でるかのようにしてから、美紀をみつめた。
「それじゃ、芳阿は夢ばかり見てるわけだ。それで、いつ現実をみてるの」
「人生とは夢まぼろしだと、偉人もいっているけど」
「偉人ってだれよ。ほんと適当ね」
「適当万歳、ミッキーも適当にして寝ような」
 芳阿はそのまま毛布をかぶってしまうと、ものの一分もせずに寝息をたてはじめた。
 美紀は、誰がミッキーやねん、と小声でつぶやいた。
 芳阿には見透かされている。
 美紀の傷には直接ふれず、ただやさしく癒されるのを待っている。
 いつかそのことを話してからは、再び聞くこともない。 
 二人ならいつか癒せると心から信じているのだ。
 少しもどかしい。
 美紀はベッドの上で膝を抱えるように座り、カーテンの隙間からもれる微かな朝焼けの光をみつめていた。
 今日は、クリスマスイブだった。


 美紀がはじめて芳阿と出合ったのはニ年前になる。そのころデパートの食品売り場でパート勤めしていた美紀は、新しく入ってきたアルバイトのなかに彼を見つけた。
 芳阿はその時二十三歳だった。折からの不況で安定した職に就けず、アルバイトを転々としていた。
 美紀は彼に仕事を教える立場になったが、明るくはいはいと答えるばかりの軽そうな感じの芳阿をあまり良くは思っていなかった。
 五歳年上の美紀に対して、最初は敬語を使っていた芳阿だったが、すぐに友達のような言葉遣いになった。生意気なやつだと美紀は思ったが、嫌な気はしなかった。やさしげな見た目のわりに、無口で冷たい印象のある美紀は職場で孤立しがちだったから、むしろ暖かな空気を感じた。それに事務的で無機質な話しかしてないのに、やたらと馴れ馴れしい芳阿にちょっと興味をもった。
「おれね、ガキのころ、体が弱くてほとんど外に出られなかったんだ」
 そう、芳阿がいったのは、はじめて昼食を二人でした時だった。たまたま仕事が暇な日で、美紀が弁当を忘れてきたから、近くのコンビニへと行ったら鉢合わせしたのだ。
 春の日差しが降り注ぐ公園のベンチで二人きりで食事をした。
「そう見えないけど」
 と美紀がそういったのも無理はない。芳阿は、背はそんなに高くはないが、すらりとした印象で、適度に筋肉がついて少し浅黒い肌が非常に健康そうだった。
「ま、ちょっと爽やか体育会系だからな」
「……」
「ちょっと、黙んないでよ、冗談だよ」
 カツサンドを頬張り、下手糞な食べ方でぽろぽろ散らかしながらそういう芳阿に、美紀は少しだけ微笑む。
「ほら、美紀さんだって、本来の自分みたいなもの抱えてるでしょ、おれって明るいけど、本当は暗いんだぜ」
「え、ホント?」
「ほんと、ほんと。風呂に入ってるとき、頭まで全部浸かって、口だけ出してエチゼンクラゲーとか、一人でやってるし」
 美紀は奇妙な動きをしながらクラゲのマネをする芳阿を見て、むせてふきだした。ちょっと咳き込んでから、くすくす笑う美紀を見て、芳阿は悪びれず軽く手を合わせて謝った。
「あ、ごめんごめん。おれ、クラゲの物真似だけは天才的なんだ」
「おもしろいね、芳阿くんは」
「あ、いままで通り、ヨッシーでいいよ」
「呼んでないって」
 美紀は声をだして笑った。
「あれ。はじめて見たよ、美紀さんの笑顔」
 美紀はきょとんとしてから、芳阿の一点の曇りがない微笑を見て、自分が久しぶりに楽しい気分になっていることに気がついた。だけれどもそれが悔しいような気分になって切り返しの軽口が思わず飛び出す。
「それじゃ、あたしもいままで通り、ミッキーでいいよ」
「――呼んでねーから。それと、ヨッシーとミッキーじゃ、変なイロモノコンビみたいだよ」
 そのときコンビと言った芳阿の言葉は、すぐに本当になった。
 いつのまにか二人は急接近していった。
 お昼休みも休憩時間も、暇があれば二人は話した。
 美紀が大きな果実農家の娘で、なかなか裕福に育ったこと。男勝りで、男の子なんか泣かしてしまう少女時代だったこと。おもしろくなかった中学時代。おもしろかった高校、大学時代。
 芳阿も子供時代のこと、学生のころのエピソードをたくさん話した。話題は他愛もないことばかりだったが、互いの好意の糸が自然と絡み合うのに時間はかからなかった。


 あるとき、仕事中に美紀が左膝をさするのに気がつき、芳阿は心配して声をかけた。
「だんだん寒くなってくるとね、昔の古傷が痛み出してくるのだよ」
 美紀はふざけてそういったが、芳阿は納得しかねる表情で傷のことを聞いた。
 なんとなく不自然な明るさがその声にあったからだ。
 美紀は大丈夫といって、そこは答えなかったが、しばらくして行われた職場の親睦会で結局、芳阿にそのことを語ることになった。
 美紀には離婚歴がある。
 それは遠くも近くもない、三年前の話だ。
 大学時代に知り合った同郷の男性と結婚した。だが結婚生活はたった一年しか続かなかった。普段は借りてきた猫みたいにおとなしい性格で真面目の塊のような夫だったが、酒が入ると豹変する男でもあった。それは典型的な酒乱だった。恋人であった頃は酒が入っても気が大きくなる程度だったのが、結婚してからは酒を飲んで帰宅すると執拗に美紀を罵倒し暴力をふるった。そして、お決まりのレイプまがいのようなセックスを強要した。
 しばらく耐え続けた美紀は、なんとかしようと相手の親にも相談したがまったく取り合ってもらえなかった。あんなおとなしくて真面目な子がそんなことをするわけがないという。
 平常時の夫にも幾度となく思いのたけをぶつけようとしたが、彼は逃げるか、そのことには無関心を装うだけだった。記憶がないふりをしているが、まったくないわけがない。美紀のあざをみて目をそむける男が、自分の酒癖を自覚していないはずがないのだ。
 やがて限界をむかえた美紀は、離婚を決意した。
 夫を説得するのは難しいと思っていた美紀だが、それは思いもよらぬ形ですぐに成った。
 それも最悪の形である。
 その冬のクリスマスイブのこと、どこかでしこたま飲み歩いてきた夫は、帰宅するなり美紀を突き飛ばし、倒れこんだところを何度も蹴った。美紀が睨んで抵抗すると、より激しく蹴った。そして手加減のない蹴りが美紀の膝を砕いた。
 美紀は正月を病院で迎えた。
 その後、家庭裁判所の調停で離婚は成った。
「おまえの冷たい目が嫌いなんだよ」
 そんな夫の最後の捨て台詞は、美紀を長らく苦しめた。


 美紀は普段は飲まない酒を呑んで、かなり酔っていた。帰り道が途中まで同じである芳阿に支えられ、調子の定まらないような声で、つらい思い出を切れ切れに、なにか吐き捨てるように語り続けていた。
「それで、田舎を出たの。ここに来たのもそれがすべて」
「……大変だったんだね」
「なに、あんたになにがわかるの、男なんて、野郎なんて死ね、死んじまえばいいのに」
「はいはい、もうわかったから、早く帰ろう。寝た方がいいよ」
「寝る? 芳阿くんもいやらしい事たまには言うんだ」
「ったく。そうじゃなくて。まったく、今タクシー呼ぶから」
「そうだ。芳阿くんのところで、すこし休ませてよ、すぐそこでしょ」
「いや、ちょっと、帰った方がいいって、まじで。それにちらかってるからさ」
「なによ、彼女でもいんの?」
「いないよ」
「じゃ、大丈夫じゃん。あたしもいないもん」
「いないもんじゃねーよ。なにをいばってるんだよ。それに余計に大丈夫じゃねーし」
「うー、きもちわるい。ダッシュ、ダッシュ……」
 芳阿は同僚の熟女連中に、送っていってね、まかせたからねといわれた手前もあり、いたって真面目に、介抱してあげる程度の考えで美紀を自分のワンルームマンションに連れ込んでしまった。常識なら問答無用でタクシーをすぐに呼べばよかったのだが、そこまで気がまわるほど機敏な性格ではない。
 健康な男子の芳阿に下心がまったくないというと嘘になるが、あんな辛そうな告白をされた以上、変なことになる可能性は丸ごとすっぱり切り捨てるしかないのであった。それに、ほろ酔いくらいならともかく、ちょっと酔いすぎである。そんな女性に手を出せるほど芳阿は人でなしではない。
 酔いつぶれる寸前の美紀を自分のベッドへと横たえて、しばらくブツブツと何かをいっているのを横目に、芳阿はエアコンと加湿器を入れて、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出してソファにドスンと乱暴に座った。一気に缶コーヒーを流し込んで、頭をおおげさに掻いてから大きくため息をついた。
 目を美紀に向けるともう寝息をたてている。タイトなスカートから伸びるストッキングを履いた足が、ベッドからはみ出しているのが見える。
 芳阿はしょうがねえなとつぶやくと、立ち上がって、美紀の足をこわれものにでもふれるかのように静かに持ちあげてベッドへと乗せた。
 ふと美紀の整った顔立ちを見た。
 芳阿はまるでめずらしい絵画でも眺めるかのように、しばらく見つめていた。
 掛け布団をかけようとすると、いきなり美紀の手が芳阿の手を掴んだ。
 芳阿はどきりとした。
 けれどもなにかの意思で掴んだ感じではなかった。
 美紀の閉じた目尻に透明なものが、垣間見えたのだ。
 芳阿は美紀に手を掴ませたままフローリングに座った。
「なんだよ」芳阿は呟いた。
 芳阿は感受性の高い男だった。アルコールで連想が早まっているためか、砕けた膝のイメージと美紀の心の痛みがオーバーラップしてきて、胸の奥が軋んで水をふくんだ雑巾のようになってしまったのだ。
 ほんの少しだけもたげた煩悩も消し飛んでしまった。
 芳阿は美紀の手の温かみを感じながらベッドへともたれかかった。
 急に疲れが襲ってきて、そのまま眠りの世界へといざなわれていった。
 翌朝、芳阿が目を覚ますと、美紀はすでにいなかった。
 時計を見ると電車の始発がそろそろだった。
 冷蔵庫にくっ付いているホワイトボードに書置きがあった。
 ありがとうの文字が可愛らしい字で書かれていた。


 ほどなくして、芳阿はデパートのアルバイトをやめた。
 芳阿は美紀にたいして好意を越えた感情を抱いていたが、あれから深入りしたらどうにもならなくなるような不安を抱いていた。
 みずからの不安定で浮き草みたいな立場も、彼女を考えるたびに軽くに思えてしかたがなかった。頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。芳阿はそういう気持ちをすぐにコンパクトにまとめることができるほど器用ではなかった。
 暗く生きてもしょうがない、どう生きたっていずれ死ぬ。ならば、いっそ緩く明るく生きよう、というのが、芳阿の生き方の指針である。嫌なことはふわりと避けて、めんどうなことはさらっと流す。そういうものが正しいと思っていた。実際、それはほとんどの場面で正しかった。だけどもちろんすべての場面において万能ではないことも知っていた。それが目の前にあった。たぶん、恋とは透明で頑固な汚れのようなものなのだ。そうとう粘着力のあるもので出来ているはずだった。
 美紀の方はといえば、芳阿にさらに輪をかけたような不器用さを持っていた。
 美紀も芳阿に惹かれていたが、あれからなんとなくよそよそしい態度を続けてしまったし、芳阿が職場をやめていくことになっても気持ちが空の彼方に剥離したような状態だった。時が経ち、他人への心理的な壁は薄くなっていると思っていたのに、心をさらけ出してしまったことが、むしろその壁をより厚くしてしまった。自分の考えよりはるかに自分が弱かったことに狼狽していた。


 一ヶ月が過ぎ、十二月に入った。
 芳阿は考えた末に就職することにした。
 叔父から仕事を手伝えと誘われていたのだ。不況の続くこの時勢に、わざわざ自分を必要としてくれるのはとてもありがたかった。以前も誘われたのに断り続けていたのは、めんどうなこと、嫌なことをさけようとする、自分のだらしなさにあることは本当はわかっていた。まだ自由でいたい。自分を方向付けたくないという甘えがあった。
 だけど芳阿は、けじめをつけることにしたのだ。
 もう彼女を受け止めるための器は、気持ちの中で形成されていた。
 もしそれが割れようとも、砕けようとも、決定的な告白をすることだけは決めていた。
 芳阿は会いたいことをメールで簡潔に告げた。
 何日かが過ぎてからきた美紀からの返信は、日時と時間だけのごく簡潔なものだった。
 芳阿は、はじめて美紀の家を訪ねていった。場所はだいたい知っていたが、市内でも古い町並みの残る地域に建つ、いかにもな安アパートに住んでいるとは想像外だった。
 美紀はむしろ芳阿よりお金の面では裕福だし、もともとは大きな果樹農家の娘だったから、余計にそう感じた。
 年季のはいったチャイムを鳴らすと、ジャージの上下を着た美紀が出てきた。芳阿はきちんとした服装の美紀しか見たことがなかったから、少し目を丸くした。顔もノーメイクに限りなく近い薄化粧で、いつもとはなんとなく感じが違う。
 芳阿が言葉につまっていると、
「なにをぼーっと突っ立ってんの? 早く入って、ここのご近所のおばちゃんたちは口さがないんだから」
 そういわれて、芳阿は肩透かしのような気分で、おじゃましますと、家へとはいった。
 なんとなく物珍しそうに芳阿が、部屋を見回していると、美紀は意外だったでしょと一言いった。
 部屋は、二十代の女性らしく、ポップで可愛らしい色に彩られている。
 芳阿は答えずに、「今日は休み?」と聞き返した。
「うん、たまには何日か有給をとってみた。クリスマスイブになんか、有給とったら、リーダーの原田さんに、若い人はいいねぇって嫌味いわれちゃった」
 芳阿はイブの日に来ていいといった真意を読み取ろうと、美紀の目を見た。コーヒーでもいれるね、座っててとすぐに言葉を継いだ美紀からは何も読み取れなかった。
 芳阿はコタツの座布団に座って落ち着かない気持ちで部屋を眺めた。
 男のいる匂いは感じない。
 もっとシックな部屋を想像していたが、クマやイヌの人形などがいくつも転がっていて、けっこうかわいいもの好きらしい。そういえば携帯にもクマのストラップがついていた。
 小さな洋タンスの上の電子フォトフレームは、どこか外国の観光スポットを映している。
 古いガラス戸の近くには何故かいくつもダンボールが積まれている。
「あ、それ邪魔でしょ」
 美紀がコーヒーを入れてやってきた。
「なにこれ」
「うん、こんど引越しするの。あ、インスタントでごめんね。メーカーはめんどうで最近使ってなくて」
「どこ引っ越すの?」
「まだ決めてないの」
「なにそれ」
「とりあえず、引越しすることだけ、きのう決めたの」
「で、もう片付けてんの。美紀さんは、あいかわらずせっかちだな」
「悪かったわね。芳阿くんが、のんびり過ぎなだけだよ」
「へいへい、のんびりですよ。でももう就職を決めたのだ」
「――え? うそ、どこ」
「叔父のやってるインテリアの会社。正月返上で、年始から来いっていわれてる」
「よかったね。でも、インテリアなんかに興味あったっけ?」
「それほどでもない。けど、部屋のセンスはいいといわれたことがある」
「あー、そういえば、なかなかすっきりした部屋だったもんね」
「冗談だよ。本当はなんかね、最近自分が情けなく思ってさ、なんかしなくちゃ始まらないっしょ」
「ふーん、若者はいいね、青春だね」
「うるさいなぁ。もう青春は終わってるし。それに美紀さんと五歳しか変わらんでしょ」
「五歳もね。もはや三十路をまえにして、あたしは世界が破滅することを願っています」
「ははっ。美紀さんは、なんか本当にあかるくなったね」
「……そう?」
「最初にあった頃は、いつも怒ってるような空気漂わせてたし、ほとんど生活指導の女教師みたいだったよ」
「それはひどい」
「ひどいついでにもうひとつ。……仕事やめるときに、簡単な挨拶しかしなくてごめん」
「いいよ……べつに。あたしたち付き合ってるわけじゃな――」
 美紀がそういったとき、芳阿は真顔でその言葉をさえぎった。
「美紀さん」
「……なに」
 芳阿はなんだか痛みをこらえるような面持ちで、なん呼吸もおいてから、言葉を振り絞るようにしていった。
「もし、よければ、その、僕と付き合ってください。今日は、それだけを言いにきました。答えはいつでもいいです、もう帰ります」
 そういって芳阿は立ち上がった。用意していた言葉がいえたものの、一挙に上気してしまい、所在ない気持ちが勝手に足を動かした。
 靴を履こうとする芳阿に、
「ねえ、今日はヒマなんでしょ」と美紀が淡々と声をかけた。
 芳阿は動きを止めて、振り向いた。
 美紀は無表情だった。
「……まあ」
「奇遇だね、あたしもイブなのにヒマなんだ。クリスマスなんて大嫌いだから、あたしはやらないけどね。でも退屈じゃない? 芳阿くん、もう少しいればいいのに」
 芳阿は美紀をみつめた。
 感情が読み取れなかったが、芳阿は美紀に恐る恐る近付いていった。
 至近距離でも美紀は表情を変えない。
 芳阿は少し厚めだが形のいい美紀の唇をみた。芳阿はいとおしい気持ちがつきあげてきて、そうしなければいけない気持ちになって、キスをした。
 芳阿が美紀の肩にふれると、その体から微かな震えが伝わってきた。
 芳阿は怖いのかなと思って、放そうとした。けれども美紀がふんわり体をあずけてきたので、長いキスが続いた。
「いいよ」
 美紀は唇が離れると、泣き笑いのような表情になって、ささやくようにそういった。
 芳阿も何がいいのかとは聞かない。ただ、男としての言い訳だけをつぶやいた。
「そういうつもりで来たわけじゃないよ」
「じゃ、どういうつもりなの」
 芳阿はそんなことをいう美紀を見て、小憎らしさと愛おしさが入り混じったなんともいえない感情がわきだしてきて、つよく抱きしめた。
 美紀が「鍵」と、ひとこといった。
 芳阿は舞い上がっている自分を反省したと同時に少し落ち着いてから、玄関をかけに大急ぎでいった。戻ると窓際のカーテンが閉められていた。
 芳阿はそれほど恋愛や性経験が豊富というわけではなかった。
 高校の頃、同級生と何度か経験があるし、恋愛対象でもない相手とそうなってしまったこともあった。
 芳阿はあのころよりはるかに冷静で格好のよい、こういう場面をむかえられると思っていたが、まったく成長してない自分にちょっとだけ恥しい思いにかられた。自分の指先がほんの少しだけ震えがきているのがわかる。やさしく脱がせた美紀の肌は薄暗くなった部屋に浮かび上がるように白かった。目が慣れてくると、二の腕の静脈が妙になまめかしく、わき腹に大きな黒子があるのがわかった。左膝にうっすらと手術の痕が青白く残っているのも知った。
「好きだよ」
「あたしも」
 美紀は芳阿に触れられるとき、自分が拒絶するかもしれない恐れを抱いていたが、それはそうでもなかった。芳阿は限りなくやさしかった。乱暴さはまったくない、いたわりが感じられた。きっと気にしてるのだろう。膝に触れられたときだけ、本当の痛みか、心の中のものか、よくわからない鈍いものが一瞬だけ美紀の中を通り過ぎた。けれどもそれが通り過ぎると、極めて濃度の高い快楽が背筋をさざなみのように駆け上がってきた。
 二人は日が暮れるまでじっとベッドで抱き合っていた。しばらくして近くのスーパーへ行った。クリスマスはしないという美紀の希望で、ちょっとお洒落な店で夕食をとなんとなく考えていた芳阿は断念した。ケーキも買わず、簡単な食材を買い込み、美紀がささっと夕餉をつくった。主婦経験があるだけに手際はよく、芳阿は面白いような面白くないような気持ちになった。
 その晩、芳阿は帰ることがとても嫌で結局泊まった。翌日のクリスマスは、よく晴れた日で、二人は街を、クリスマスの空気をなんとなく避けながらあちこち終日出歩いた。
「来年は、クリスマスしようか」
 芳阿は帰り際、美紀に唇を寄せてから、そう言った。
 美紀はこくりとうなづいてから、
「だぶん」と付け加えた。
 それから二人は、互いの部屋を行き来した。
 一月も終わる頃、美紀は芳阿のワンルームマンションへ引越しした。


 イブは二人とも仕事だった。
 夕刻、美紀が帰宅すると、芳阿はすでに帰っていて「おかえりなさいませ」などと芝居がかった口調で迎えるものだから、美紀は「なにいってんの」と笑った。
 部屋に入ると薄暗くしてあって、ガラステーブルの上に、とても小さなツリーがかわいいイルミネーション付きで飾ってあった。
 美紀はそれを無言で見ていた。
 芳阿は、おそるおそる美紀に大丈夫かと聞いた。
 すると急に満面の笑みになり、持っていた手提げ袋から、ワインを取り出して芳阿に見せた。
 風呂を済まし、夕食が終わって、少しだけ二人で飲んだ。
 しばらくして、つけっぱなしだったテレビを芳阿が消した。そして、美紀に綿棒を差し出す。定期的にやっている耳掃除だった。芳阿は気分がいいとき、または悪いときに美紀によく頼む癖がある。
 美紀の膝枕で、芳阿はなんとなく落ち着かなげに身を何度もよじった。
 終わったよ、と美紀がいっても芳阿はそのまま動こうとしなかった。
「ねぇ、重いよぉ」
「そのままで」
 芳阿はしばらくして、ポケットからなにかを取り出した。そして美紀の手をとって、指にふれ、さっと指輪をはめさせた。
 言葉につまった美紀が芳阿を見やると、真剣な顔で宣言した。
 この膝は、おれのものだから。
 芳阿はぶっきらぼうにそう言った。
 言葉にならない想いが、美紀の中をかき乱し、自然と瞳から溢れて、静かに頬を伝わっていく。テーブルの小さなツリーのイルミネーションが、視界いっぱいにきらめき、空白の世界が潤っていくような気がした。



↑ PAGE TOP