視界の蛇
ずいぶん昔からの話だ。
僕には、誰にも見えない蛇が見える。
いつも視界の隅で、一匹の蛇が僕を睨みつけているのだ。
それは、触れることができず、僕が近づけば遠ざかる。遠ざかれば近づく。
幼い頃、両親にも話したが、まったく相手にしてもらえなかった。
やがて、話せば話すほど、嘘つきか、頭がおかしいことになってしまうことに気付いて、僕はそのうち訴えることを止めた。
いつしか誰にも見えない視界の蛇は、僕だけの幻覚だろうと考えていた。実際には存在しないのだ。想像なのだ。そう思わなければ、やってられなかった。
僕は成長するにつれ、精神医学や脳医学について独自に勉強したが、蛇が見える原因はわからなかった。
よく当たると評判の霊媒師にも相談をしたが、それは守護霊だ、などと無責任なことをいわれた。
馬鹿も休み休み言えよと思った。
たとえば守護霊なら、僕を長年に渡って悩ます訳がないじゃないか。たとえば、なにかの啓示でもあるのならば、ずっと居座ることはないだろうと思うし、普通に見守ってくれと言いたい。
人生には、良いときと悪いときがある。
良いときには、たしかに蛇は守護霊とも思えたが、悪いときには悪霊のような気がしてくる。
彼女に振られた時などは、蛇が笑っているように見えて、僕は何もない場所に物を投げつけては、怒り狂ったものだった。
やがて社会人になるころには、蛇にもかなり慣れていたが、それでも悩みには変わりはない。
あるとき、有名な徳の高いお坊さんが隣県にいるということを聞いて、僕はそのお寺に有給休暇を使って訪れた。
「……なるほど。それは本当に大変でしたね。うむ。おそらくその蛇は煩悩に違いない。いや、煩悩でしょう。しばらく座禅でもしていきなさい」
僕は藁にもすがる気持ちで、座禅に没頭した。
煩悩。
たしかに一理あった。
だが、心の強い欲望がつくり出す幻ならば、いったい僕はどうすればいいのだろう?
数日後、僕は答えの無いままに、お寺を出た。
お坊さんは、最後にこんな言葉を僕にくれた。
「煩悩と戦いなさい。心を無にして、蛇を追い出す。心を虚にして、蛇を近づけない。人生は長い修行なのです。そう、私にも見えた時期がある……」
遠くを見つめて感慨にふけるお坊さんは、高みの境地に達しているのか、ガラス玉のような目をしていた。詳細を聞こうとしたが、なぜか力のない笑みをみせて、お堂へと行ってしまった。
それでも僕は勇気づけられた。
やはり他にも見える人はいたのだ。やはり、煩悩を追い出すしかないのだ。
それからというもの暇があれば、座禅と瞑想を繰り返した。
戦え、戦うのだ。
蛇を倒せ。煩悩を倒せ。
長い時をへて、幾多のイメージが凝縮し、蛇が倒れて消え去る夢を見た。
翌日の朝、蛇は消えていた。
ついに煩悩を叩き潰すことに成功したのだった。
僕は勝ったのだ。
泣きながら喜んだ。しかし違和感もあった。煩悩がなくなったというなら、もしかして僕は、聖人のように悟りを開いたのだろうか?
煩悩に悩むから人間、という話もよく聞くことだ。
このくらいで悟りがひらけるのなら、誰でも聖人になれてしまう。
僕は、凝縮した蛇を倒すイメージを、もう一度思い描いてみた。
煩悩なんていうものは、つかみ所がなかったし、もちろん心を無にはできなかったので、しばらく蛇の天敵をイメージした。安直だが、あれを素直に想像していた。
会社へ出勤するとき電車に乗ると、ふいに視界の隅を走り回る動物がいることに気がついた。
何匹ものマングースが楽しそうに遊びながら、僕を見ていた。
どうやら、誰にも見えていないようだった。
いったい彼らの天敵はなんだろうと、僕は茫然と考えた。
了