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魂を咬むもの

 今から三十五年前、私は二十八歳だった。
 そのころ勤めていた大手食肉加工会社の辞令で、タイに出張した。
 商談は予想以上にスムーズに進み、私たち出張メンバー四人は暇をもてあました。
 たしか、面白い話があると言い出したのは、柳本だったと思う。
 地元の占い師から、悪霊の住む館があると、教えられたらしい。
 私たちは皆若く、好奇心が旺盛だった。
 日本にいたなら、悪霊が出る噂の場所など、絶対に行ってみるなんてことにはならなかっただろう。
 ほとんど初めての海外で浮かれていたのもある。もちろん、この私もそうだった。
 話によれば、戦時中にゲリラによって皆殺しにされた村が近くにあるということだ。現在でも完全に放置された村で、誰も住んでないらしい。当時、ほとんどすべての家が焼け落ちたが、村長の邸宅だけがわずかな被害のみで残ったという。その後、この村長の邸宅を住家にしようとするものが現れたが、いずれも数ヶ月内に非業の死を遂げている。
 私たちは数時間かけて村の廃墟へたどりついた。
 そのとき、なぜか私は入ってはいけないと、漠然と感じた。
 実は、少しだけ霊感がある。
 人には言ったことはない。騒がれたり、相談されたりするのが鬱陶しいからだ。
 それに、たいしたものでもない。気持ちの悪い場所を直感的に感じたり、なにものかの気配が気になったり、そんな程度だ。
 一瞬だけ吐き気がして、胸をさすった。
 そのとき、中止を主張すればよかったと後悔している。
 建物はずいぶん古かった、中へ入ると真昼間だというのに暗く、じっとりと空気は澱んでいた。
 しばらく探検気分で、内部を見回ったが、特になにも起きる気配はなかった。
 同期の吉平が、こっちが怪しいと呼んだので、来賓用だと思われる広間に入った時だ。床が突然崩壊して、私たちは、地下へと落ちた。
 舞い上がったほこりに咳き込みながら、ケガをしてないか確かめあった。皆無事だった。吉平が、あれは何だと言った。彼が指差した先には地下室の壁が壊れて、横穴が開いていた。
 私たちはもうやめておくべきだった。
 調子のいい柳本は、怯え始めた紅一点の鈴木さんを、大丈夫だよと落ち着かせ、横穴を確かめに、ライトをつけて見に行った。ほんの十秒ほどで柳本は戻ったが、その手には小型の箱が握られていた。
 取っ手だと思われる紫色の水晶がついているが、蓋らしき継ぎ目がどこにもない。
 なにか嫌な感じがした。ライトで照らしてみると、箱の上部には、なにか人の苦悶の表情のような文様が描かれている。
 鈍感な柳本も、さすがに気味悪さをかんじたようだ。かれは、占い師に聞いたという“魔除け”の言葉を、つい口にしてしまった。

(コーォングー ノイ クラッ コーォ ファン ラーイ ノイ クラッ)

 音もなく箱は開いた。
 何かが飛び出したように私には見えた。
 柳本が突然震えだし、悪魔だ、悪魔だと私たちを見て叫んだ。
 私たちは意味がわからずに、おい大丈夫かと呼びかける。
 いきなり柳本は、壁際にあった金属の杭を手に取り、自らの腹部に突き立てた。
 何度も、何度も、何度も。
 人間の血とは熱いのだと感じたのは初めてだった。
 私たちは悲鳴を上げて逃げ出した。
 悲鳴なんて女のものだと思っていた。まさか自分の口から出るとは思わなかった。
 地上への階段にわれ先に走った。
 吉平が、鈴木さんを突き飛ばして、先に駆け上がった。鈴木さんは転倒して階段から転げ落ちた。
 私も助ける余裕を持っていなかった。
 吉平のあとを夢中で駆けた。
 館の外へ飛び出すと、夕暮れが迫っていた。ぜいぜいと息をつき、吉平と背後を見た。
 足を引きずるようにして、血だらけの鈴木さんが、館から出てきた。
 しゃくりあげるように泣きながら歩く鈴木さんに、吉平は我にかえって土下座する勢いで謝りながら近づいた。
 私は鈴木さんの目を見て、無我夢中で走り出した。
 その目には瞳がなく緑色の球体がぎょろりとこちらを見ていた。
 吉平の絶叫が聞こえた。鈴木さんが、意味不明の言葉を叫ぶのが私の耳に入った。
 走った。死にものぐるいで走った。
 私は、たどりついた農家の井戸で体を洗い、血だらけのシャツは捨てた。
 ホテルに帰ると、泥のようになって眠った。
 私はその後、数日にわたってタイ警察に拘束された。
 当時、日本でも、タイで邦人三人が行方不明とのニュースが流れたはずだ。
 私は幸運であった。
 なんとか疑惑も逃れ、帰国することができた。
 今は東南アジアでも捜査は厳しくなっているが、当時はベトナム戦争の陰もあり、社会は混乱しきっており、かなり適当な捜査となったのだと考えている。
 私はしばらくして退職した。
 疑念や好奇の目に耐えられなくなったのだ。
 やがて、妻子を連れて、他県へと引越しした。
 たぶんそのころだったと思う。
 黒い影に悩まされるようになったのは。
 年齢を重ねるにつれ、最初は小さく微かなものだった影は大きくなっていった。
 あの日、悪魔と呼ばれたあれは、私にも憑いていたのかもしれない。
 侵食された柳本の血を浴びたせいなのかもわからない。
 私は精神を病み、妻と別れた。
 同僚を見捨てた罪悪感と、毎晩耳元でささやく黒い影によって私の精神は荒廃していった。
 自殺も考えた。何度もだ。だが決行したとき、どういうわけか、カッターで発作的に切りつけた腕が快感に打ち震えたのだ。
 怖かった。
 激しい痛みが、すぐに快感へと変わっていくのだ。
 黒い影のささやきが、心を蝕んでいく。
 死よりも、人間でいられなくなるほうが怖かった。

 削りとっていいですよね。
 咬んでいいですよね。
 むしっていいですよね。

 黒い影の言葉が絶望を生み出し、心が、魂が、日に日に削り取られていくことは地獄だった。快楽だった。
 あの日、柳本は箱から現れた黒い影に、一瞬にして心を食い尽くされたのだろう。
 死を超える絶望と恐怖を間近にして、自らの中にいる黒い影を刺そうとしたのかもしれない。
 私はこの年齢になり、末期がんを患っている。
 死は怖い。だが、影に侵食され狂っていくことがもっと恐ろしい。
 私には、コレを書き記した理由がある。
 この痛みを分かち合いたいのだ。
 闇に蝕まれる至上の快楽を。
 激しい痛みを。
 知らずに、この記録を読み、呪いの言葉を黙読した、あなたと。

 削りとっていいですよね。
 咬んでいいですよね。
 むしっていいですよね。



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