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お帰りなさい

 わたしは、この真新しい歩道橋の上から、町並みを見つめるのが日課だ。
 毎日、ここへ来ているので、いつも寄りかかる手すりの部分だけ色が薄くなってきた気がする。
 何をしているのかといえば、絶え間なく流れる自動車の列や、道行く人たちを眺めるだけ。
 たまに歩道橋を通る幼稚園児を見ると、心がなごむ。
 春の陽気に、わたしはあくびをひとつした。
 実に静かな日であった。
 少しはなれた商店街の八百屋では、いつものおばさんが、威勢のいい声をあげている。
 本屋から出てくる高校生、小さな憩いの広場で遊ぶ子供たち。
 いつもの光景、いつもの営み――
 青い空をみつめていると、何か大事なことを忘れている気がする。
 思い出したいけど、思い出したくない。
 ――わたしはどうすればいいのだろう。
 意味もなく、そう口にする。いや、意味はあるのだろうが、なぜそう思うのかはわからない。
 ふと自分の手のひらを見る。
 年相応、二十六歳の主婦の家事荒れした手だ。
 わたしはいつからここに来るようになったのだろう。それも思い出せない。誰かを待っているのだろうか。それも思い出せない。
 太陽が西へ傾きはじめたころ、一陣の風が吹きぬけた。
 中空を眺めると、何かが視界を横切った。
 よく見ると、限りなく透明な小さな人が浮いているのが見えた。
 幻覚か。いや、そうじゃない。
 また、あんたかと、うんざりして、わたしは首をふった。
 それは、身長は二十センチほどしかない、女性の姿をした風の精霊だった。
 通る人は気が付かないので、どうやら、わたしにしか見えないらしい。
 やがて、いつものように、精霊は鈴のような声でわたしに話しかけてくるだろう。
 これはわたしの幻覚なんだろうと思えば、気が狂わないですむ。
 しかし、あれと話すと、通りがかる人に、わたしは空に向かってひとり言をいう狂人と思われているかもしれないが――
(……ねぇ、ねぇ、あなた。まだ、ここにいるの?)
「よけいなお世話よ……」
(そう……)
「もう、ほっといて」
(そろそろ、帰ればいいと思うの)
「いいのよ、待ってるひとなんて……」
 そういうと、なぜか心の奥が、チクリと痛んだ。
(……これは仕事だから怒らないで。あなたみたいな人に、こうやって、ささやくのがわたしの役目なの)
「それ、何度聞いたかわからないセリフね……」
(まぁまぁ、そういわないで。でもね、このお役目も今日が最後になるかもしれないの)
「え、どういうこと?」
(今日はあなたにチャンスがあるって、神さまが言ってたのよ)
「チャンス? 神さま? まさか、そんなのホントにいるの」
(さぁ、わたしも声しか聞こえないから……。でもそういうことなの。あとは、あなたしだいだって……)
「意味がわかんないなぁ……」
(ごめんね。詳しいことはいえないの。がんばって)
 精霊はそういうと、微かに笑みをみせて、風に乗って彼方へと消えていった。
 なんだか疲れてしまった。
 こんなものが見えるわたしは、いったい何なのだろう。
 しばらくすると、近くの小学校が終わったらしく、下校の小学生が歩道橋を通り過ぎた。
 低学年の女の子が、微笑みながら走る姿を見ていると、なぜか涙ぐんでしまう。
 茫然と、そのまま夕日を待った。いつものことだ。
 だが、いつものことではないことが起きた。
 夕日を背にうけて、一人のおじいさんが階段を上がってきた。
 やがてわたしを見ると、優しくほほえんで、ゆっくりと目の前までやってきた。
 地味だがきちんとしたスーツを着ていて、その白髪頭もしっかり整っている。品の良さそうなおじいさんだ。
「こんにちは……」
 そう話しかけられて、わたしは心臓が飛び跳ねた。ここでの日課の最中に、人に話しかけられたのは初めてだったから。
「あ、こんにちは……」
「私を覚えてますか、小夜子さん」
「――いえ、すいません、でも……」
 なんとなく初めてではない気がする。
 どこかで会った気もする。
「どこかでお会いしましたか。それになぜ、わたしの名前を?」
「……そうですか。いや、そうですよね。いや、それはともかく、私が名乗るのはルール違反らしいので、思い出していただきたいのです……」
 おじいさんは、そこまで言うと、唇を微かに震わせた。まるで泣きそうな顔だった。
「ルールってなんですか?」
「……すいません。それはいえません。でも、ヒントは出していいと、神さまはおっしゃった」
「神さま……」
「……はい。私にとっても最初で最後の機会でして。ちょっと、これを見ててくれませんか」
 おじいさんは、ハンカチを取り出すと、それを左の手のひらにかぶせた、ポケットから小さなさし棒を取り出して、ハンカチを指し示し、何度も円を描く仕草をした。
「さあ、見ててください…… はい!」
 ハンカチをサッと取ると、一個のリンゴが手のひらにあった。
 わたしは急なことに驚いて、目を丸くした。気が付くと、自然に手を叩き合わせていた。
「なにか、気がつきましたか?」
 真っ赤なリンゴを見ているうちに、わたしは、心が張り裂けそうな痛みを感じて驚愕した。
 ……おじいさん?
 いえ、おじいさんではない?
 誰、あなたは誰?
 リンゴを、おじいさんはわたしに放ってよこした。
 わたしは受け止めようとした。だが、リンゴはわたしの体を貫通して、地面に落ちた。
 神経が引き裂かれるような、強い悲しみと無念さが、わたしの中をかけめぐり、立ってられなくなって、うずくまった。
 耳を塞ごうとしたわたしの目の前に、おじいさんが、手を差し伸べてきた。
 わたしは、おじいさんの手に刻まれた古傷の跡をみて、すべてを思い出した。
「わかったかい、小夜子さん」
「あ……。け、健一さん……」
 おじいさんは、いつのまにか二十代の青年へ若返っていた。
 そう、おじいさんではない。
 彼は、わたしの夫だった男性だ。
「僕もやっと、君の待つところへ来れた。ずっと君を想っていた。神さまが最後に一度だけ機会をくれたんだ」
 ……どうやら、わたしは、とてもとても長い時間を、この現世とあの世の狭間にいたようだ。
 この歩道橋ができる以前、交通事故が多発していたこの道で、わたしは買い物帰りに、車にはねられて死んだ。
 それ以来、わたしは何かに縛り付けられていたのだ。
「これを見て……」
 健一さんが、リンゴを拾い上げた。するとリンゴはリンゴでなくなり、それはまるで風船のように膨らみはじめた。
 そうだ、彼と初めて出会ったとき、お祭りがやってたんだ。そういえば、ふたりでリンゴ飴食べたっけ……。
 真っ赤な巨大風船をつかんだ健一さんが、わたしにおいでと微笑んだ。
「でも……」
 でも、なにかまだ、気がかりがある。まだ大事なことが。
「君と僕の娘、陽子は立派に成長して、良い男性とめぐり合い、かわいい孫も出来た。あとで、たくさん話をしようか――」
 わたしの目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。やがて満面の笑みで、健一さんの手を握った。
 巨大な風船によって、わたしたちは空中へと浮き上がる。
 いつのまにか、たくさんの風の精霊が周囲を舞い始めた。
 まるでわたし達を祝福しているかのように。
 わたしたちは、どこへ行くのだろうか。
 天国なのかな。
 いえ、どこでもいいわ。
 まずは……。
「ただいま、あなた」
「お帰りなさい」



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