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黄昏にささやく二人の教室

 ベゴニアの花が、こちらを見ていた。
 たれさがった薄紅色の花が、ゆらゆらとはかなげに咲いている。
 それは、麻衣が校長室の出窓にあったものを、勝手にもってきたものだった。
 夕刻の教室は、なんとなく寂しい。
 単なる感傷だが、花があると、それも少しは違うのだと、麻衣は言う。
 教卓の上に置かれたベゴニアは、たしかに鮮やかだった。
 僕は、机にひじをついて、憂鬱そうに、窓の外を見た。
 麻衣は、いつものように、窓際の棚にだらしなく腰をかけて、遠くを眺めている。この三階の教室からは、灰色に染まった街や山々が一望できるのだ。
「麻衣、下着が見えてるよ」
「……だれも見てないよ。直人しか」
「そりゃ、そうだけど、僕も男なんだからな」
「じゃ、隠そうかな」
 そういって、麻衣は制服のスカートを直した。
 幼馴染だからって、すこしは気にしてほしいと思ったが、今さら、気にしても仕方ないかもしれない。
「直人、ねぇ、ラジオつけてよ」
「一局しか、入らないよ?」
「いいよ。きっと、あの曲流してるから……」
「――あの曲ばっかりの間違いだろ」
 ここから三キロほど離れた地元FM放送局が、最近では唯一聞こえるラジオ局だった。無人の建物を何者かが占拠して、放送を継続しているらしいが、狂ったように同じ曲と、あの日の天気予報を流しているだけだった。
 あとは、ごくたまに、NHKが入るときもあるが、国歌が聞こえるだけだ。
 近所の家から拝借してきたラジオにスイッチをいれた。電池は十分な量があるから問題ない。ワンセグのテレビ受信機もあったが、テレビ放送は完全に止まって久しい。
 ラジオからは、くるりの「ロックンロール」が聞こえてきた。
 僕も好きな曲だけど、何百回かけるつもりなんだろう。

 厚い雲の隙間から何日かぶりに太陽がほんの少し顔を出し、教室がつかの間の光にあふれた。
 世界が終わると知ったのは、いつの日だったろう。
 どこかのテレビ局で、隕石がどうのこうのと偉い学者が叫んでいた。
 未知のウィルスだの、地殻の超変動だの、いまだによくわからない。
 眠るように誰も彼もが倒れた。
 実に終末とは、あっけないものだった。
 それから、空はいつも汚れた灰色で覆われている。
 だけど、なぜか僕らは、まだ生きている。理由など知らないし、知るすべもない。世界中の学者はもう死んでしまった。
 頼りにする、級友も先生も、この世に存在しない。
 もう、今年はJリーグも、欧州リーグも見られない。
 サッカーワールドカップは、日本が優勝したことにしておこう。
 だが僕は、一体それを、誰に伝えればいいのだろう――

「なに、考えてるの?」
 麻衣は、優しく微笑んでから、僕の隣の席に座った。
「僕らは、なんだろうな、と思ってさ」
「人間が? それとも、わたしたちのこと?」
「……」
「わかんないよ、難しいこと、わかんない。でもね…… ひとりじゃなくて良かった」
「……そう、それなら、僕もだよ」
「本当に?」
 僕は頷いて、また太陽を隠した分厚い雲を見た。

 僕らは、井戸の中の蛙だった。これから飛び出すはずの世界は、勝手に壊れてしまった。
 それでも僕は、麻衣を守りたかった。
 僕のちっぽけな世界を構成しているものは、彼女だけだったから。
 でも、どうすることもできない。この小さな教室の中でさえ守ることもできない。
 僕は無力だ。
 唯一できるのは、二人でいられることへの感謝のみだった。
 時計の針が、午後五時を指した。
 いつもなら、校庭でボールを追いかけてる時間だ。
 やがてラジオから、苦しげで、ぐぐもった若い男の声が聞こえた。最後の曲です、といった。
 ザ・ブルーハーツの「青空」だった。
 僕も麻衣も聞いたことはなかったが、いい曲だった。
 どうやら、自分のエンディング曲に選んだらしい。

 麻衣が僕の手を強く握った。やがて、堰をきったように大粒の涙をこぼしはじめた。
 僕は、涙を流さまいと抵抗したが、無駄だった。
 曲が終わり、静かになった教室を、僕らの押し殺した泣き声があふれた。
 黒板に大きく書かれた、「僕らは無意味だったのか?」という文字と、ベゴニアの花が、歪み重なって見えた。

 ――ベゴニアの花言葉は、永遠の栄え。

 麻衣にはいわないでおこうと思った。
 僕らはたしかに生きていた。
 そして、まだ生きている。
 麻衣の肩を抱いて、窓の外を見た。

 また、雪のような灰が降ってきた。



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