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風走る

 早朝、五時ぴったりに、賢介は河川敷へとやってきた。
 天気は良くないが、湿り気のない秋風が、肌に心地よい新鮮な刺激を与えた。
 いつもの木々、いつもの水の流れ、いつもの町並み。
 まだ薄明かりの空に、たくさんの白い雲が風にながれているのを、賢介は冷たい目で見つめた。
 しばらく歩いてから、軽く準備運動をすませると、堤防ぎわのサイクリングコースを走り出した。
 早朝のランニングは、二年前に高校に入ったころからの習慣だった。
「今日は智子に勝てるかな……」
 賢介は、ひとり言をつぶやいて、悠々と速度をあげて走っていく。
 入学式の帰り、賢介は智子と出会った。
 賢介が見つめる校庭で、智子が走っていた。その美しい走りに見とれていると、やがて彼女は見られていることに気が付いた。賢介と視線が合った。
 それが出会いであり、彼女から陸上部へと誘われたきっかけだった。
 女子と男子は別ではあるが、賢介と智子は、よく二人で練習をした。
 賢介は、中学卒業と一緒に、もう陸上はやめようと思っていたが、彼女の熱意に長距離への転向を決めた。
 彼女に強く惹かれたのも一つの理由であった。
 気が合った熱心な練習は、二人をともに向上させた。
 やがて、二人が付き合うようになったのも、自然なことだったのかもしれない。

 賢介は、全力で風をきって走る。
 このとき、この一瞬だけ、頭の中のあらゆる灰色のもやもやを消し去ることができる。
 クリアな想いが体の隅々に行き渡ったとき、記録が伸びていく。
 賢介は、いつも智子の背中を追っていた。
 朝のランニングも、智子に付き合う形で始めたものだった。
 賢介も男子であるから、タイムはすぐに彼女を追い越すのはわかっていた。
 すぐに、彼女と並んで走れるようになった。
 無言の二人だけの空間が、そのときから、賢介には、何にも変えがたい大事なものへとなっていった。
 だが、ある日。いつまでも追い越すこともなく走る賢介に、智子は怒った。
 智子は、賢介が練習量のわりに伸びなくなってしまったのを、自分のせいだといった。
 賢介には意味がわからなかった。
 初めての喧嘩だった。
 それから、智子とは会っていない――

 やがて終点に着くと、賢介はため息をついた。
 静かに川の流れを見つめていると、背後から声をかけられ、はっと、目を見開いた。
 振り向くと自転車に乗っている、見慣れた幼馴染の姿があった。
「なんだ…… 有紀か」
「こら、なんだは無いでしょ」
「……今日はどうした?」
「賢介さ…… もうここで走るのやめなよ。辛いだけだよ」
「なんで? なにが辛いんだよ」
「他にも走る場所はあるよ」
「ここは、僕の居場所だ」
「いつまでも、そんなふうにしてるつもりなの?」
「……」
 有紀は寂しそうな顔をして、賢介の目から視線をそらした。
 幼馴染である有紀には、賢介の気持ちはよくわかる。だけど、それが全てじゃないこともわかってほしくて、有紀は定期的に賢介の走りを見ていた。
 遠くのお寺が、朝の鐘を鳴らすのが聞こえた。
 触れないつもりだった有紀だが、つい口に出していってしまった。
「だって、智子さんはもう来ないんだよ――」
 その言葉は、賢介の心には届いていない。
 賢介は、再び川の流れに視線を戻した。
 あの日、賢介と喧嘩したあと、智子は家へ戻る途中で、居眠り運転の自動車にはねられた。
 彼女とは、もう、二度と会えることはない。
 二度とここへは来ない。
 本当は賢介もわかっていた。わかりきっていた。
 だけど、まだ認めることができない。 
「……まだ勝ってないんだ」
「え?」
「僕は勝っていない」
「……」
 賢介は優しくほほえんで、有紀を見た。
 有紀には、賢介の瞳に自分が映っていないことはわかっていた。
「たまには、私も見てよ」
「……見てるよ」
「見てないわ」
「……」
「それじゃ、勝ってよ。何か知らないけど、勝って。勝てるんでしょ!」
 賢介は驚いた顔で有紀を見た。
 二人の間を、枯葉が風に吹かれて通り過ぎる。
 やがて、賢介は静かに頷いた。
「ああ。だから、走る」
 有紀の耳にその言葉が届くと同時に、賢介は踵を返して走り出した。
 風をきって。
 風を追い越すために。



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