夕餉
敬子が三ヶ月になる一人息子を抱きながら家に帰ったのは夕刻だった。
マンションの自宅に近づくと、夕餉の匂いがした。
敬子は訝しげに鍵を開けると、夫の弘行の靴がある。もう仕事から帰宅したのだろうか。
「ただいま」
答えがない。
リビングに入ると、焼き魚の匂いがした。
おいしそうな香りだ。
「あなた?」
キッチンを覗くと、弘行は、無骨な顔と大柄な体には似合わない、ネズミのキャラクターがプリントされたエプロンを付けて、笑顔で料理をしている。
「あ、おかえり。ちょうど良かった、今出来るとこだよ」
敬子は訝しげに弘行を見た。夕食の仕度をしてくれるなんて珍しいことだ。それ以前にこんなに早く帰るのも珍しい。
「えぇー、珍しいじゃない。夕飯の支度なんて、結婚して初めてじゃない?」
「ああ、そういえばそうだな」
ずいぶんと機嫌が良さそうだ。
「どういう風の吹き回し? 何かいいことでもあったの? 雪が降るわよ」
「……うん。ちょっとな」
なんだか今にも口笛でも吹き出しそうな口調だった。
なんとなく不気味である。
敬子は寝息を立てている息子を寝室に運びながら考えた。家事は一切やらなかったのに、どうしたのだろう。子供が生まれたから変わったのだろうか。父親としての意識が目覚めたのだろうか。それとも……。
ベビーベッドに寝かせてから、リビングに戻るとき、見慣れない大きな箱が和室の暗闇にあるのが見えた。
「あなた、和室にある大きな箱はなに?」
「……え。見たの?」
「ううん。ちょっと見えたから」
「あれは、今日のごはんだよ」
「あ、もしかしてあなたの実家から送ってきたの?」
たぶん鮭だ。大きな新巻鮭を以前にもたくさん送ってもらったことがある。もちろん食べきるのは不可能なので、知り合いに、おすそ分けしたりして喜ばれたことがある。弘行の実家は北海道で、鮭が豊富に取れる地域だ。
「まぁ、とりあえず座っててよ。今日は全部、僕が作るから」
「うん、わかった」
敬子はちょっと、変な気持ちになった。なにか不安に襲われた時に似た浮遊感がする。結婚記念日はまだだ。誕生日もまだこない。ホワイトデーでもないし、一体なんなのだろう。
優しい性格だが、無愛想なところがある弘行の変容は、まことに気味が悪い。
そんなことを考えていると、鼻歌が聞こえた。
弘行とは結婚して三年目だ。結婚以来、ずっとセックスレス夫婦だった。子づくりのために、約一年前は励んだこともあったが、今はまたセックスレスに逆戻りしている。冴えない男だったが、結婚相手としては十分だと思ったので結婚した。しかし本当に魅力のない男だと敬子は思っていた。真面目なだけが取り柄で、面白くもなんともない。
敬子は少しだけため息をついた。
しっかり働いてきてくれればそれでいい。家事を中途半端にやらないで欲しいとも思う。
楽だけど、変に家の中をかき回されるのは余計疲れる。
「もうすぐだよ」
弘行は上機嫌だ。
「ホントにどうしたの?」
「え、なんでもないよ。子供が生まれてさ、僕も変わんなきゃと思ったんだよ。だから、今日から頑張ろうとおもってさ……」
「へぇ。それはいい心がけね」
「ところで、鮭って、知ってる」
「え、なに言ってんの」
「鮭ってさ、凄くない? よくテレビでさ、川を遡上してるの見るじゃない。全力で上がってきて、小さな滝をジャンプしたりして、上流の生まれ故郷まで戻ってくるやつ」
「……ええ。たしかに凄いわよねー」
敬子は適当に相槌をうつ。
「それで、メスは産卵して、オスは争いながら精子をかけるわけだよ。命の連鎖って感動ものだよね」
「そうね」
敬子は特に興味はないので、軽く受け流す。鮭は食べるもので、感動するものではないと思っている。
「そしたらさ、子孫を残した鮭たちは、次々と死んでいくんだよ。体力を使い果たしたからか、遺伝子的なものかは知らないけどね。自然の摂理って厳しいんだなって感じるわけだよ」
敬子は首をかしげた。
一体、なにを言い出すのだろう、この男は。
うんちくなど、付き合ってた時代も言う男じゃなかったのに。
弘行は、大きなトレーに鮭の塩焼きや、鮭ごはん、いくらの和え物など、鮭尽くしともいえる料理の品々をテーブルへと運んできた。
「すごいじゃない。鮭尽くしね」
「……うん。それでさ、僕は思うんだ。人間も鮭のように子孫が出来たら、なるべく早く死んだほうがいいと思わない?」
「……なによ、突然、そんな怖いこと言って。そんなの思わないわよ。誰が子供を育てるのよ。鮭は本能が生かせてくれるだろうけど、人間はそうはいかないわ」
「いっそ、社会が生かせばいいじゃないのかな」
「なにそれ、どんな理屈よ」
「とりあえず、うちは、そんな感じで行こうと思ってる」
「……なに言ってんのよ。あなたは死にたいの? 変な冗談言わないでよね」
「僕? 僕は嫌だよ、死にたくないって」
「でしょ。さっき、子供が生まれたから頑張るっていったじゃない。なんで、そんな馬鹿みたいなことをいうのよ」
「そうでしょ、馬鹿みたいでしょ、だって、僕が死ぬのは理屈に合わないからね。それに……まぁいいや。ゴメンゴメン、今日は変だよね、僕。――さあ、冷めちゃうよ、食べてみてよ」
敬子は箸を取った。
理屈に合わないとはどういうことだろう。
何かが変だ。おかしい、何もかもおかしい。
ティッシュを取りに行くふりをして部屋の隅々を見回す。焼き魚のにおいで気が付かなかったが、今朝は無かったはずの消臭剤がいくつも部屋にあることに気がついた。
和室の箱も気になる。あれは、やはり大きすぎると思う。あんな人間が入れそうな箱に何匹入ってるのだろう。
人間……。
弘行は笑っている。
子供と親……。
弘行は笑っている。
血液型は大丈夫のはず……。
弘行は笑っている。
ばれるわけがないのだ……。
弘行は早く食べろよと勧める。
あの子の父親は……。
弘行は早く食べろよと勧める。
敬子は無理に笑顔をつくったが、口もとがひきつった。箸を伸ばそうとしたが、手が激しく震えて取り落とした。
弘行は早く食べろよと勧める。
敬子は……。
了