足がうまく動かなくなっていた。いつもならなんともない草の丈だったけど、うまく走れなかった。草に取られたみたいで、足が前に出なかった。僕は走っているつもりだったから、そのまま前に倒れこんだ。 体中がバクバク言っていた。僕は夢中で空気を吸い込んだ。吸える空気だった。吸い込んでもむせなかったから、僕は体がはじけるまで思い切り空気を吸い込んだ。草のきれっぱしと一緒に土も吸ってしまった。げほげほと僕はむせ返った。涙が出てきた。息することも、涙も、むせるのも、だけど、とまらなかった。 どうにか地面に手をつけるようになったから、ひざと手で体を持ち上げた。尻餅をつくみたいにして、町を振り返った。今僕が出てきたはずの町は、焼却炉の中のような色をしていた。 ごうと風が吹くたび、町は揺れた。風は町を揺らして吹きあがり、天上の空気も巻き込んでどこかへ消えていった。町の向こう、隣のセルも時々揺れる町の隙間に見えた。歪んで揺れていた。 町はじりじりして熱かった。空との境まで来ていたのに、まだ熱かった。汗は拭っても拭っても噴出してきた。無駄だと思ったから、僕はもう拭かなかった。もう一生楽になんかならないかと思えたけど、心臓の音は少しずつ落ち着いて来た。 赤い町は、綺麗だと思った。町に向いている側は熱かったけど、背中は涼しくて…ちょっとだけ寒かった。 ごうとまた風が音を立てた。町一番ののっぽビルが、ぐらっと傾いだ。上のほうからばらばら何かが落ちていった。真っ赤な欠片は徐々に増えていって、のっぽビルは倒れるようにして消えていった。 ごうごうと鳴る風の音に混じって、僕にはぱちぱちという音が聞こえた。木が爆ぜる音だと、ぼんやりと思った。ついさっき、聞いた音だった。 * 僕は、焦っていたのだと思う。それとも、どこかで期待していたかもしれない。僕は狭い階段を段を飛ばして駆け上った。家につく頃には、ちょっと息が切れていた。 僕の家は中心よりはずれに近い裏路地の、狭いビルの中にあった。周りに埋もれてしまう四階建てビルの五階。屋根裏部屋って言われていた。四人がようやく寝れるだけのベッドと、小さなキッチン。足がそろっていないテーブルがあるだけの、狭い部屋だった。 がたがたいう扉を開けると、かあちゃんは小さな窓に張り付くように座っていた。いつもと違うのは、規則的に動く腕が今日は止まったままで、顔を上げて窓の外を見ていたことだった。 「かあちゃんっ」 「ミズカ。お帰り。」 かあちゃんは僕を見ると、また窓に目を戻した。 入り口の僕からは窓の外は見えなかったけれど、気付いているはずだと、僕は思った。 「かあちゃん、火が来るよ!」 「そうね。」 「かあちゃん!!」 僕はかあちゃんに近付くと、腕をつかんだ。力いっぱい引っ張ったけど、かあちゃんは動かなかった。 「何処へ行くつもり?」 「えっ。」 かあちゃんは外を見ることを止めて、僕をまっすぐに見ていた。どうしていつも、かあちゃんは寂しそうに悲しそうに僕を見るんだろう。ねえちゃんが死んでから。ううん。そのずっと前から。 外から大きな音が聞こえた。ビルが崩れる音だと思った。ごうごうと風の音が強く聞こえ出した。焦げ臭いにおいがした。窓に目を戻したかあちゃんは、ちょっとだけ笑っていた。 窓からは、両側の黒い壁を額にして、町の中心部が見えた。パン屋の親父の怒鳴り声も、喧嘩の騒ぎも、何も聞こえなかった。風とがらがらと崩れる音が聞こえていた。大きな音だったけど、静かだと僕は思った。 「父さんは何処かしら。」 かあちゃんはぽつんと言った。いつもなら、ため息と一緒に言うような言葉だった。かあちゃんはため息をつかなかった。今まで見たことがないような優しい顔をしていた。 「サトエは…。」 「かあちゃん…?」 サトエはねえちゃんのことだった。優しい顔のかあちゃんの目には、僕は映っていなかった。 とうとう窓から黒い煙が入ってきて、僕はむせた。苦しかったから、かあちゃんの手を離して階段まで逃げた。振り返った僕に、かあちゃんはいつもの寂しそうな目を向けて来た。 黒い煙の中に火の粉が混じり始めるまで、そんな時間は掛からなかった。ぱちぱちと木の爆ぜる音が聞こえてきた。僕は袖で口を覆った。息をするたびにむせた。 かあちゃんは最後にちょっとだけ笑ったように見えた。町にではなく、僕に向けて。そして、自分の舌を噛み切った。 火は窓から入ってきた。キッチンの床からも煙が立ち始めた。かあちゃんは椅子に座ったまま、仰向けに倒れた。窓に残ったかあちゃんの手が炎の中に入ってしまうまで、僕はそれを見ていた。 * 町はどんどん明るくなっていった。じりじり熱かったのが、痛いくらいになっていた。通りには何人かいたけれど、その誰も今、ここにはいなかった。 僕は独りだった。 逃げて来たつもりだったけど、取り残されたと思った。 ぽんと、やわらかい何かが頭にぶつかった。僕は何かを探った。真っ白なタオルだった。 「使いなさい。」 声が飛んできた。僕の後ろ。そんなに遠くない場所からだった。 僕はちょっとだけ振り返った。セルの境、壁のすぐ前に女がいた。でっかいカメラを町に向けていた。僕は町へ向き直った。耳を澄ましてみたら、ごうという風の中にカシャカシャという音が混じっていた。 僕も女もしばらく何も言わなかった。カシャカシャという音は時々途切れながらも続いていた。僕の目の前で、ちょっとずつ、ちょっとずつ、町は崩れていった。 「こんなにきっちり燃えたら、すぐに空になるわ。」 女はつぶやいたみたいだった。僕は応えたほうがいいのかちょっとだけ迷って、結局何も言わなかった。 この町は境の町だったから、女の後ろ、壁の向こうは空だった。壁は結構高かったけど、崩れている箇所は沢山あった。僕は近くで見た空を思い浮かべていた。真っ黒な穴に、豆電球を数え切れないほど仕込んだようだった。町が空になる。それがどういうことか僕には良くわからなかった。 僕はごろんと寝転がった。ごうごうと唸る風は天上の気候制御ユニットを歪ませた。反対側の境の外、遠い空も歪んでいた。ユニットの向こうの白く光る新しい町もゆらゆらと揺れて見えた。あぁと、僕は気づいた。だから、町は燃えている。 僕は起き上がった。町の火はちょっとだけ弱くなったようだった。 「泣きたければ泣けば良いわ。私は気にしない。」 カシャカシャという音は止んでいた。変わりに、ガシャリという音が聞こえた。 「泣きたくなんかない。」 僕は振り向かなかった。瞬きもしたくなかった。 「そう。私は泣きたかったわ。」 音が止んだ。僕は女へ振り返った。女は泣きたい顔などしてなかった。女はすっかり片付けを終え、大きな鞄を持ち上げたところだった。 「自分がシステムから落ちこぼれたって気づいたときによ。」 女はそういって、僕を見下ろした。同情とか、哀れみとか、そんな感情はどこにもなかった。 「一緒に来る? 屋根と布団くらい貸せるわ。」 言うと女は、くるりと背を向けて歩き始めた。僕はしばらく女の背中を見ていた。いつの間にか、風の音も止んでいた。僕はタオルをつかんで、女の後姿を追った。 * 新しい街が出来ると、古い町が一つ消える。アポトーシスという言葉を僕は思い出した。 |
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