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(ひかり)



「お前、カンニングしてただろう?」
 その一言に、鞄に筆箱をしまい込む私の手が止まった。緊張のため後ろを振り返ることも出来ずにその場に凍りつく私の耳に、山崎が教室から出て行く足音が響いてきた。我に返ると、その台詞を誰かに聞かれてやしないかとちらちら周りの様子を窺ったが、みんな帰り支度をしたり友達と談笑するので、今の私達のやりとりに気付いていない様子だった。残りの荷物を急いで詰め込み人を掻き分けると、私はスライド式のドアを開けて玄関へと走り抜けた。受付近くの下駄箱でアイツは靴を履き替えているところだった。
「ちょっと、山崎君。変な言いがかりつけないでくれる? 周りに誤解されちゃうじゃない」
 先程の一言に加えて、全力で走ってきたのもあり、息が途切れ途切れになりながら私は彼に抗議した。山崎はそんな私を見やると、そっけない態度でこう返してきた。
「それじゃ安藤、消しゴムに仕込んでいたアレは何だったんだ? 別に本番じゃないからいいけど、何でそこまでする必要があるの、お前」
そう言ってズックに乱暴に両足を突っ込むと、夜の街へと消えていった。

 カンニングをした。山崎が言っていたことは事実だ。 消しゴムの側面に今日の模擬テストの範囲をいくつか書いておき、それをカバーで隠すという何とも稚拙な仕掛けだが、今時こんな手口で答えを用意するやつもいないだろうと踏んで実行に移したのがまずかった。ただカンニングしたというだけなら、私もあの場でそんなに緊張する必要もなかったかもしれない。しかし、ここまで具体的にタネを指摘されたのでは、言い訳も全く思いつかない。
 教師に指摘されるなら未だしも、普段自分よりレベルの低いクラスに通っている山崎に見破られた。それだけじゃなく、馬鹿にまでされた、ということが非常に悔しかった。悪いことをしたのは自分なのだが、それでも、アイツを恨まずにはいられない私が、あまりに情けなくて涙が滲んできた。歪んだ視界には、青白く病的に光る月が鈍く輝いていた。

 彼を追いかけることを諦め、家の玄関を開けると、珍しく両親が出迎えてくれた。
「お帰り亜矢、テストどうだった? 今のレベルがキープできてると良いな」
「そうね、入試まであと少しだから、A中学に入るには今通ってる位のクラスじゃないと厳しいわよね。よく頑張ってるわよ、亜矢ちゃん」
 私は、目をぎゅっと強く閉じて涙を鼻の方に押しやると、勤めて冷静に返事をした。
「当たり前でしょ、何のためにここまで努力してると思ってるの、パパ、ママ。私は絶対受かってやるんだから」
「おお、頼もしいものだな。それ位強気ならきっとどこでも合格するぞ」
 酒が入っているのか、やたら陽気な父親を見ながら、その場を逃げ出したい気持ちを必死に堪えた。


 一週間後、クラス決めを兼ねた模擬テストの結果が張り出された。私はトップから数えて5番目の位置、特進クラスに配属となった。一方の山崎はというと、下から2番目のクラスに相変わらず。アイツと顔を合わせないように早めに21番教室に入ると、前方から声が掛けられた。
「一週間ぶりだな、安藤」

 何でコイツは私に対してそんなに関わってこようとするんだろう。それまでどんなやり取りをしたか全く覚えていないのだが、気がついたら二人きりで夜の公園のブランコに腰掛けていた。
「何だってお前、A中なんて目指しているんだ? 本番でもないのにあんな小細工までして?」
 ふと意識がこちらの方に戻ってきて、私は返答に詰まった。山崎はしばらく黙っていたが、駅近くの自販機で買ったコーラを一口含むと、そのまま視線をどこへ留める訳でもなくふぅと息を尽いた。 あの場で自分の実力を保っていなかったら、足きりをくらっていたかもしれない。すぐそこまで出かかった答えを、自分が持っていたココアと同時に一気に飲み込むと、逆に大きな態度を装って尋ねた。
「しつこいんだね、山崎君。そうして私に突っかかって何か得でもある訳? 目標があるならそれに向って努力するのは当たり前でしょ。私が特進クラスだからってやっかんでるんなら、ハッキリ言うけど、あなたに問題があるんじゃない」
 山崎は真っ赤になって何か言い換えそうとしたが、私の顔を見つめてそのまま俯き黙り込んでしまった。
 少し言い過ぎたか。何だかバツが悪くなって、その場から帰ろうと二、三歩歩き出したとき―――。

「……好きだったんだよ、お前のことが」

 風の音かと一瞬戸惑った。この公園にいる他の誰かかとも思ったが、今現在この場にいるのは私達と、水飲み場にたむろしている野良猫だけだった。
「去年くらいから、お前のこと気になっていたんだ。A中に行くためにあの塾に通うって聞いて、俺も一緒にって考えてあそこ通っていたけど、俺の頭じゃどうにもなんなくて……。俺、お前のことちょっと尊敬していたのに、この間あんなことしてるところ偶然見つけちまって。そしたらもう、頭ん中ぐちゃぐちゃになっちまって……」
 冗談じゃない、頭が混乱しているのはこっちの方だ。お互いどうしたらいいか判らず、ただ冷たい秋風に吹かれていた。やがて山崎が、手にしていた残りのコーラを一気に口に流し込んだ。少しむせたようで、潤んだ目でこちらを睨みつけ、
「お前、この半年ずっと顔色悪そうだったから心配していたんだぞ。そんなになってまで、あんなずるい手使ってまでA中に受かりたいのかよ。んなずっと暗い感じでいるんなら、受験なんてやめちまえ!」
 言いたいこと全て吐き出したように、彼は握っていたコーラのペットボトルをゴミ箱に投げつけると、古臭いドラマのワンシーンのように走り去っていった。残された私は、うまく入らず地面に転がっているペットボトルをしばらく見つめていたが、拾い上げて力の限りそれをゴミ箱の底に叩きつけた。青白く輝く月は、その冷たくやけに明るい光で私を照らし続けていた。


 あれから、私があの塾で山崎を見ることは無かった。辞めたのかもしれないし、ただ単にクラスが違うからという単純な理由だけかもしれなかったが、真実を確かめる勇気が私には無かった。
 そうこうしているうちに、本当の試験の日が来てしまった。苦手箇所が未だ随分と残っていたが、数年間の過去問でこの学校の傾向は殆ど掴んでいる。去年に問題を変えたばかりだから、今年はそう大きな変更点はないだろう。そうヤマを張って参考書を開こうとした、その時だった。
「……安藤」
 そこには山崎がいた。馬鹿でかいスポーツバッグを肩に背負い、前の座席に座ろうとしていた。彼は小さく首を竦めるような仕草で挨拶をすると、そのまま何も言わずに席に着き、バッグから問題集とノートを取り出した。そのどれにも付箋が山のように貼り付けてあり、ノートはまるで紙を何枚も中に挿んであるかのように、背表紙の大きさに比べてそれ自体が大きく膨れていた。本来なら、そんなこと全く気にする暇など無いはずだったのに、私はそんな彼の様子から目を離すことが全く出来なかった。

「試験時間はきっかり一時間です。私が終了と言いましたら、例え解答の途中でも筆記用具を置いて下さい。それでは、始め!」
 迂闊だった。去年はおろか、これまでのどの年にも無かった傾向の問題が大部分で出題されていた。しかも、それらの多くが私が苦手としている論述形式の問いだった。問題用紙を裏返したときに、周りが一瞬ざわついたような気配を感じたが、すぐにその理由に気付き溜息を尽いた。一問目、パス。二問目、後半以降は後回し。三問目、正直何のことを訊ねているのか理解できない。
シャープペンを握る手が止まり、時間だけがただ刻一刻と虚しく過ぎていく。それでも何とか空欄を埋めていくと、静まりかえった室内に軽やかに筆の進む音が前方から耳に入ってきた。そっと視線を上げると、ただ黙々と右腕を動かしている山崎の姿があった。彼だけが、この重苦しい空気の中問題を着実に解いているように、私の目には映った。 私は半ば意地になって答案用紙にかじりついた。自分でも的外れであろうと思う答えを次から次へと書き記していく。だが、終了時間が近づくにつれ、大きなプレッシャーが私の胸を支配していった。
『このままじゃ、確実に落第(おち)る』
 今更どう足掻いても無駄であるこの事態に、私は途方に暮れた。と、ある一つの可能性が、私の頭を掠めた。 ……待て、何を考えているんだ亜矢。そんなことできる訳がない。……でも、もしかしたら。いや……

「試験終了です。皆さんお疲れ様でした」
 試験時間が終わり、監督官が答案用紙を回収していく。枚数と順番を確認して封筒に入れると、一礼して部屋から出て行く。私は急いで鞄に荷物を突っ込むと、人を掻き分けてその人の後を追った。隣の建物に入ったところで先程の監督官を捕まえると、私は冷静にこう告げた。

「すみません、私の前に座っていた男の子がカンニングしていたみたいなんですけど」


 結局、A中のあの試験は採点方法を変えることになったらしい。急遽面接の配点が高くなったこともあり、私は辛うじてあそこに合格することができた。これで親の期待に応えるという子供の義務も果たしたことになり、軽やかな気分で学校に通う、筈だった。

 山崎は……彼は、当然のことながらあの中学に落ちた。あの後、この区域の普通の中学に通っている。私の一言があったことで、進学先の中学校から相当目をつけられているらしい。そんな教師らとそりが合わないらしく、最近はどうも評判の良くない奴らとつるんでいるようだと風の噂で聞いた。 私は今、どうしているかというと、自宅のベッドでもうずっと横になっている。胸に大きなしこりが出来たような苦しさを覚え、その後間もなく体調を崩し、この半年間もうろくに外出すらしていない。何かの病気かと、両親は私をあらゆる病院に連れて行った。明日は、そう、一時間電車でいったところの大学病院に予約を取ってある。 私自身は、この自分の変化を変えようという意思は無い。いや、今の状態じゃ変えようもないと言った方が正しいか。薬の影響かどうにも頭がボーっとしているが、一つ思い当たる節がある。……恐いのだ、山崎と再会してしまうのが。私と彼の学校とでは、通学路は異なるのだが、それでも、外に出て彼に全く会わないという確証などない。山崎について、私が今どう思っているのか、私自身にもよく分からなくなった。 ベッド近くの窓には、今夜もあの頃と同じ丸い青白い月が輝いている。その輝きはまるで昼間の太陽を思わせるかのように煌々と輝いて、薄汚れた窓枠の影をくっきりと映し出していた。私はそれの眩しさに、布団をいつもより目深に被った。


Written By "大江発啓 様", SUTEBACHIYA, 1234 count Memory.


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