逃げていた。何故なら此処はまだ敵の領域内だから。
 所々に設置してきた時限式爆弾が、間隔を置いて順調に作動している。それほど大層な作りではないし、火薬も殆ど使ってはいなくて、音が派手なだけだ。人を引き付けるには充分。
 木立の隙間を駆け抜ける。此処では跳べない。このメモリ残量では足りない。もう少し境界線に近づくまで。
 潅木の茂みに隠れて呼吸を整える。
 次の瞬間、心臓が跳ね上がった。
「其処に居るのは誰?」
 茂った枝から垣間見える人影。
 風にロングコートの裾が揺らめく。
 どうして此処に。此処で。
 思いつく単語はたった1つ。テトラ。彼の人の名前。この領域内のマスター。私たちの敵。



 任務遂行の帰路だった。
 敵の領域内に侵入、捕虜の解放の成功。バギーで逃走して、選んだ経路が思いのほか狭窄で乗り捨てざるを得なくなった。それから徒歩。
 私が囮になって敵を引き連れて、その間に救助メンバーと囚われていた仲間たちが逃げる計画だった。
 バギーの方へかかった追っ手の方が確実に多かったと思う。
 皆は無事に逃げ遂せただろうか。

 そして、彼と対峙している。

 予期せぬ邂逅。
 侵入者の報は受け取っているだろうし、警報の発令中だ。
 けれど総大将自ら出てくるとは考えなかった。
 読まれていたとしても、偶然だとしても、最悪の事態に変わりはないのだけれど。



 彼は歩を進めた。立ち竦む私の前、立ち塞がる様にして、殆ど真上から見下ろされる。
「君は?」
 私の顔はバレていない筈。映像に出るときは常に覆面姿だからだ。髪も隠している。声は知られていると思う。声紋を分析すれば一発だ。
 彼は怪訝そうに少し首を傾げる。
「怯えてるね。――追われてるの?」
 答えられない私は――

 ふわりと。
 長いコートが翻って舞い降りた。

「少し隠れておいで」

 衣服を通してくぐもった声が伝わる。
 周囲を包む仄かな暖かさ。人肌の温もり。
 この人も生きているのだと、奇妙な実感があった。
 画像かホログラムでしか見たことがなかったからかもしれない。いつもデジタルな回線の向こうに居る存在だったから、生身とは認識していなかった。
 それは兎も角、彼の真意が解らない。
 どうして私を匿うの。
「この辺りはあまり治安が良くない」
 知ってる。
 だから逃走経路に選んだのだ。
 お行儀の宜しくない雑踏に紛れれば、楽に足跡を消せる。
 でも――どうしてそんなところにこんな人が居るのだろう。
 今は保安部隊が走り回ってるとは言え、いくらマスターで強くても、そうそう一人歩きは許されないんじゃないだろうか。
「何処から来たのかは問わないけれど」
 潜めた声音が降ってくる。
「もう少し周囲に気を配った方が良い」
 ――この人は。
 身を固くしたのは多分、伝わってしまった。
 私は捕捉されたのか。
 にしては束縛の力が緩い――と言うより、ほぼ無いに等しい。軽く肩に腕を回されているだけだ。逃げようと思えば――おそらく逃げられる。

 動けなかった。

 視界は一面の闇。
 コートの内側に居るだけなのだから、目線を動かせば勿論あちこちから光は入る。
 けれども繋ぎ止められてしまったかのように。



 ――草を踏み、近づく足音。
「…あーあ。見つかっちゃった」
 彼は笑いを含んで呟いた。
「テトラ様、こちらでしたか。……何をなさっておいでで?」
「散歩」
「そうですか」
 相手は側近の誰かだろうか。その受け答えの何処か慣れている様子に、彼が変わった行動を取るのは特に珍しくはないのだと理解する。
「念の為に申し上げておきますが、警報はまだ発令中です」
「知っているよ」
 笑った気配。




「行きなさい」
 肩を押されて、私はコートの中から解放される。何の支えもなくなって、直に風を受けて微かな不安を感じる。
「また、会おう」
 ピン、と指で宙を弾く仕草。
 呪縛が解ける。
 緊張に強張った足を無理やり動かして、彼から離れる。できるだけ遠くへ。
 逃がされたのだから。



「何者です?」
「侵入者だよ」

 駆ける。
 足裏がふわりと宙を蹴る。――有効使用メモリ消費、残量ゼロ。
 ざわめきたつ背後。大勢の人の集まる気配。
 その中にあって、埋もれることなくひときわ目立つ存在。見えてるんじゃない。感じてる。
 彼はあの場所から一歩も動いていない。なのに声が明瞭に届く。私の心に道標のように残した闇を通じて。
 振り返っては駄目だ。見なくても彼の表情が解る。

 また。会おう。

 ――約束。
 また会った、そのときに、私を殺すという。



 背後で、複数のメモリ消費を感知する。
 攻撃を仕掛けられる前に、パーティーションの境い目を越える。
 彼の計算どおりに。



 安全な領域に到達しても、翳りは晴れない。
 闇色の空に羽が降る。音を立てずに。密やかに途切れずに。軽やかな見た目のそれとは逆に、重く積もり、粘り気を伴い、緩やかに侵蝕する。
 不安と、寂寥と、恐怖。
 それから、ひとかけらの期待。



 今ではない別の時、別の場所で。
『また、会おう』
 私は彼に殺されるだろう。



Written By "橘靖之", "『箱庭のそら』 "17002 count Memory.


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