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算鏡【さんかがみ】

 人間だったら、怖いことなんてないじゃん。父ちゃん、母ちゃん、学校の先生がなんだってんだ。しかられたからどうだって言うんだ。びびってんじゃねーや。男だろ! オレは行くよ。一人だってかんけいねえや。行ってしょうめいしてやる。オレは誰よりゆうきがあるって。
 お前らなんかより、オレのほうが。

 *

「また来たのか?」
 心臓が飛び出るかと思った。ノブにかけた手をあわてて離した。玄関側、街に面した窓は全て閉まっていて、屋敷の周りの雑木林も風にざわざわと枝を揺らすばかりで。声の主の気配はどこにもなかった。
 帰ってしまおうかと、頭の片隅で思った。声の主が間違いなく人間で、若くて、校門前に住んでいるような頑固親父ではないことは知っていた。けれど、知っていることと感じることは別だった。
 学校の裏、山の向こう。雑木林が途切れた頂上近くに建つ洋館。山の下の門は古くさび付き、触るだけで音がした。空家だとみんなうわさしていて、大人たちには近づくなといわれていた。小学校も卒業の声が聞こえ始めたオレたちは、それが当然の儀式であるかのように忍び込んだ。びくびく進むオレたちの前に現れたのは、お化けでも幽霊でも偏屈な頑固じじいでも魔女のような婆さんでなく、理科の先生のように白衣を着た意外に若い兄ちゃんと、まだ子猫と言えそうな黒猫だった。
 人が住んでいる。それだけで、オレたちの儀式は終わった。しかられるわけでもなく追い出され、文句を言いつつどこかほっとした顔で去っていく仲間の背中を見ながら、オレは背中が気になってしょうがなかった。立ち去ろうとしている屋敷が。その下で軽く手をふる『太郎さん』と名乗った兄ちゃんが。
 下っ腹が痛くて保健室に行った翌日、誘ってももう誰も頷くことはなかった。だから、一人で来た。
 オレは顔を上げた。深呼吸して再びノブに手をかけた。今度は何の声も聞こえず、そろりそろりとドアを押した。
「太郎さん、入っていい?」
「おー。茶ぐらい出してやるぞー」
 屋敷の奥から声が聞こえた。玄関を入って靴を脱がずに廊下をまっすぐ。突き当たりの部屋のドアがちょっとだけ開いていた。声はそこから聞こえた。
 オレはするりとドアを抜けた。後ろ手で閉めて廊下を進む。初めて入る屋敷は、ちょっとだけ薄暗くて少しだけとろりと寒かった。玄関の両脇は飾りガラスになっていて、廊下の横には階段があった。廊下の左右にはしっかりと閉じたドア。
 薄暗いのは当たり前だった。光が玄関からしか入らないんだから。寒いのも同じ理由だと思った。日が当たればまだ暖かいけど、朝夕の風はもう冷たかったから。埃っぽい気がする空気は、けれど学校の昇降口も似たようなもので、妙に音の響きがいいのは、絨毯も引かれていない床のせいで。頭を冷やして考えれば、そういうのは当たり前なんだ、全部。
 納得しようとして、でも、どきどきする心臓を気にしながら、オレはいつの間にか奥の部屋のドアの前にいた。
「入れよ」
 今度はオレはためらわなかった。引いて、部屋の中を覗き込む。と、目があった。太郎さんは湯気の立つ紅茶のカップを持ったまま、オレのほうを見ていた。この前見たのと同じように口元だけでにやりと笑っていて、オレはなぜか背中が寒くなった。
「また廃墟探検か?」
 からかうように言われたから、オレはあわてて首を振った。
「おじゃま、します」
「よろしい」
 太郎さんは満足そうにうなずいた。太郎さんの前のテーブルには、もうひとつ紅茶のカップが置かれていた。まだ湯気が出ていて、部屋にはオレと太郎さんと黒猫しかいなかった。黒猫は紅茶カップの前のソファにいた。俺を見て起き上がると、そのままとんと床に下りた。
 オレは猫と入れ替わりで、ソファに座った。
「今日はなんだ?」
 オレがソファに座るなり太郎さんは言った。真正面の太郎さんの顔は、逆光でよく見えない。
「けんきゅうせいか」
「あ?」
「見せてくれるって言った」
−−今度は侵入じゃなくて正面から来い。研究成果でも見せてやる。
 来たのはオレ一人だったけど。
「あー。そんなことも言ったか」
 太郎さんはぽりぽりと頭を掻いた。
「うん。言った」
「しょうがねぇな。……何がいいかな」
 何があるんだろう? オレは太郎さんをじっとみた。
 太郎さんは紅茶をすすりながら、ちょっとの間考えていたようだった。
「鏡か。うん。面白いかも。」
 一人で何やら頷くと、また、口の端だけゆがめたように笑った。
「ちょっと待ってろ」
 さらに奥にあるドアへ入っていった。がたんごとんと音がして、紅茶の湯気が消えるくらい経ってからダンボールを抱えて戻ってきた。細長いダンボールだった。オレも慌てて立ち上がって、中身を出すのを手伝った。
 鏡、だとおもった。一面に黒いガラスが貼られていて、裏面は木の板だった。枠も木だった。壁に立てかけるようになってるみたいで、太郎さんはそれを壁際に立てかけた。ダンボールのなかにあっても、枠にはちょっと埃がついていた。埃のない部分は妙に深く光っていて、もしかしてとても古いものなんじゃないかと思った。
「これ、なに?」
「鏡だよ」
 オレはそれに近寄ってみた。と、オレがうつっていた。なんだ、本当だ。単なる鏡だ。ほっとすると同時に、変な感じがした。
 オレは鏡の中のオレをしげしげと眺めた。そして、一歩下がった。鏡の中のオレも、一歩下がった。オレの全身が、鏡にうつった。
「うそ!」
「鏡はうつすだけ。嘘じゃないよー」
 鏡のオレの肩に、太郎さんの手が置かれる。オレの肩にも、大きな手の感触があった。
「かわいいじゃん」
「いんちきだよ、こんなの!」
 鏡の中のオレをにらむ。オレもにらみ返された。
「この鏡は、本当の姿を映すんだよ」
「嘘だ!」
 鏡の中の太郎さんは同じ顔でにやりと笑う。オレはかっとなって太郎さんの手を振り払った。鏡の向こうのオレも同じように振り払った。違うのは、ちょっとだけ赤くなった、顔。
 さっと風が吹いた。オレの短い髪がさわりと動いた。鏡のオレの髪がさらりとなびいた。
 オレはたまらず目をそらした。その勢いでドアへ向かう。
「自分を置いてくんか?」
「しらねーよ!」
 オレは振り返らなかった。

 *

「俺はべつに意地悪をしているわけじゃなくてさ」
 からん。上のほうでグラスが音をたてた。ちょっとだけ寒い夜。太郎さんのおひざはあったかい。薄暗いお部屋の中、上から落ちてくる影は黄色っぽくて、とまらずにずっとゆれていた。
「違うよ。ちょーっと特殊な電波を拾って可視光に変換して表示すんの」
 さわりさわりと影がゆれる。ぴっちり閉まった窓とドア。お部屋の中にほんの少しの風が吹く。小雪さんが来てるんだ。まどろみながらあたしは思った。
 ちょっとだけ目を開ける。お部屋の隅っこ黒いガラスの上に、小さく人影がうつってる。太郎さんと、おひざのうえのあたしと、太郎さんのそばに髪の長い女の人。置いてかれたような子供。
「だからさ、本人がそう思ってるっつーことで」
 からん。テーブルの上にはグラスがひとつ。鏡の中の太郎さんは、グラスを取って口へ運んだ。
「俺が悪いんじゃないってば」
 太郎さんが足を組替えた。うんしょと起きて寝方を変えたけど、しっくりこなくておひざを降りた。
「小雪〜。」
 太郎さんの足を避けて、誰もいない床をかけて、あたしはあたしのベッドへもぐりこんだ。

 *

 何もかもが面倒くさかった。似合わない制服も、ずっと伸びた通学時間も、月に一度通いつづけている病院も。知らない顔ばかりになった新しい学校も、急に男らしく、女らしくなった周りも、みんな面倒くさかった。
「翔はかっこいいよ。けどさ」
「山口、ちょっとは恥じらいってモノを持てや」
「普通はそんなもんでしょ?」
「……それってちょっとおかしくない?」
「翔は子供なんだよ」
 違うと、思った。違うと、信じたかった。軽口を言い合ったかのようにチャイムと共に終了したおしゃべりの後、だんだんと強くなる日差しの中で、オレは唇をかみしめていた。

「また来たのか?」
 ノブに触れた手を慌てて離した。周りを見ても開いている窓はなく、当然声の主の姿はなかった。一度深呼吸をして、オレはノブをつかみなおした。きいとわずかな音を発して、ドアは軽く動いた。

 あの後ヒーローになるはずだったオレは、けれど口を閉ざしたまま、二度と訪れることもなかった。思い出したくもないと思い、程なく本当に忘れていた。
 思い出したのは、懐かしいそれを見たからだった。高校から病院へ向かうバスの車窓から、覚えのある山が見えた。山の頂上付近に建つ古めかしい洋館は、少しずつ変わる景色の中で、時が止まったかのように変わっていなかった。
 記憶と同時に声も思い出し、オレは知らずバスのチャイムを鳴らしていた。

「久しぶり。入って良い?」
 少し開けたドアからちょっと覗いて、オレは聞いた。薄暗い廊下、少し冷えた空気、埃っぽいにおい。記憶と寸分たがわない、それ。
「おー。茶ぐらい出してやるぞー」
 屋敷の奥から聞こえる声も、記憶のとおりだった。ほっとしたような、けれどやはり、どこか落ちつかなさを感じた。
 以前はものすごく長く感じた廊下を、あっという間に歩ききる。
「入れよ」
 記憶のままのタイミング。オレもためらわずにドアを引いた。
「おじゃまします」
「久しぶりだな」
 白衣が少しだけくたびれていた。ひざの黒猫は、きれいな毛並みの成猫になっていた。湯気の流れるティーカップも同じ。そして部屋の隅には。
「今日は……聞くまでもないな」
「それ、飲んでも良いの?」
 太郎さんはやっぱり口の端だけで笑いながら、頷いて見せた。オレはどかりとソファに座った。あの時手を出せなかった紅茶を一口すする。
「聞くまでもないって?」
「忘れ物を取りに来たんだろ」
「そんなんじゃない」
「じゃぁ、何で来たの」
 ぞくりと背中が冷たくなった。口の端をゆがめて、太郎さんは笑んでいた。けれど、めがねの奥のその目は笑っていないと思えた。
 ふっと空気が動いた。オレは慌てて目をそらして、大きく空気を吸った。
「あぁ、ごめん。つい、ね」
 誰かに向けてそう言って、太郎さんはカップを抱えなおした。
「そこ。自分で拾ってきなよ」
 紅茶をすすりながら、視線を部屋の隅へ投げた。
 そこには黒いガラス張りの『鏡』がおかれていた。四年前に出されたままの状態で。
「おれは、忘れ物なんて……」
「夢だと思うんでしょ? 確かめて見れば」
 ごくり。紅茶といっしょに、オレは何かを飲み込んだ。そうだ。あれが夢なら、証明してやれば良い。
 オレはカップを置いて立ちあがった。部屋の隅。何もうつしていない黒いガラスへ向かう。あの時より若干埃が増えて、表面もわずかにくすんでいた。そのくすんだ先に、『オレ』がいた。
 どう転んでもオレには似合わない制服をきちんと着て、梳かすくらいしかしない短い髪をきれいに整えて。オレはよろけるように一歩下がった。鏡の中の彼女も、悲しそうに一歩下がった。彼女の肩に大きな手があった。オレの肩にも大きな手の感触があった。
「山口翔子サン。彼女、ずっと待ってたよ。君が迎えにくるの」
 彼女のそばには何時の間にか髪の長い女の人が立っていた。女の人が髪を撫で付けるたび、彼女はきれいに……女の子らしくなっていった。
「オレ、は……」
『……』
 音はなかった。鏡のなかの女の人の口が動いて。何か言った気がした。
 オレはたまらず目を伏せた。

 人形遊びより、探検ごっこや野球やサッカーが好きだった。
 きれいなスカートより、かっこいいユニフォームがほしかった。
 子供だましのリップより、ボールのほうがうれしかった。
 仲間に入れてもらえなくなって、悔しかった。時折痛む下腹部に、熱っぽく感じる身体に、無性に腹が立った。
 オレはオレなのに。変わっていないのに。変わっていく身体が悔しかった。
 かわいい女の子にあこがれるより、オレはオレでありたかった。

 ぶきっちょな手が髪をいじくる感触に、オレは目を上げた。
 鏡の中には、ぼさぼさ頭のオレがいて、相変わらず似合わないスカートをはいていた。
 袖口からのぞく手も、スカートから伸びる足も、うらやましいを通り越して陰でいろいろ言われるくらいに細く、おおよそ女の子らしさから遠いところにあった。
 けれど。幅のない肩も、大きくならない足も、細いばかりの首も。女の子のものでしかなかった。
 そのオレの頭を、太郎さんは一生懸命いじっていた。どこから持ってきたのか女性用のムースを片手に、ブラシとオレの癖毛と格闘していた。くすりとオレは笑って、太郎さんの手からブラシをもぎ取った。
 オレも結構不器用だけど、それでも、二・三回なでつければ彼女のように整った。
 オレは鏡に笑って見せた。鏡の向こうのオレも、引きつりながら笑い返した。
 スカートを撫で付けて見せた。鏡のオレも、ばさばさスカートを整えた。
 鏡の中のオレは、いっぱしの不器用な女の子だった。

 *

 傾いた日が暑くて、影に移動した。太郎さんがやってきて、ちょこっとだけ窓を開けてくれた。ちょっとだけ青い風は、草の良い香りがした。
 太郎さんは窓を開けたまま、ちょっと外を見ていた。ううん。太郎さんが見ているのは、ガラスだった。ガラスにはいっぱいの緑が透けて見えて、ほんのすこしお部屋の中が反射して見えた。白衣の太郎さんと、ぺっとり太郎さんに寄りかかる女の人。不安な顔した女の子はもうどこにもいなかった。
 風が吹いて、窓が動いて、ガラスの太郎さんはどこかへ行ってしまった。
 ふわり、ちょうちょが窓の外をよぎっていった。あ、きれい。
「何をおっしゃいますか。俺には小雪がいるじゃないか」
 降りれるかな、降りようかな。
 あたしが悩んでいると、もう少しだけ窓が開いた。
「ほら、ナツ、いっといで」
 ちょっとだけ太郎さんを見た。太郎さんはまぶしそうに目を細めて、ほんの少し頷いた。ひょいと窓を飛び降りる。脚の下の草の感触がとても心地よかった。


Requested By "龍依" H16.12.24, 800 count Memory



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