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戯言

闇空降羽

 はらり。はらり。羽が降ってきた。
 あぁそうか。今日は降羽予報が出ていたっけ。
 カバンの底の折りたたみ傘。小さな傘。羽傘。
 羽は次々降ってくる。
 激しい降りだ。すぐに、回収車がでるだろう。
 回収してもなお降り続ける。
 街を覆い尽くして降り続ける。

 羽は本物の羽じゃない。
 羽の形をした、塵や不純物の集まりだ。
 上空でばらまかれた核が、地上に落ちてくる間に成長した形。
 汚くなりすぎた大気。太陽の光さえ遮る塵を、固めて落として資源として回収する。
 硫酸化合物、硝酸化合物、人には毒。生物にも毒。
 だから、羽が降り始めたら、人は外へは出ない。
 外で遭ってしまったら、傘をさす。
 傘をさして、羽を避け、回収車が通り過ぎるのを屋内で待つ。

 すかっと手が底に届いた。
 あぁそうか。昨日も降って取り出して、玄関に立てかけたまま。
 困ったな。見回した先にアーケード。小さな商店街の精一杯の優しさの証。
 羽宿りするには、困らないだろう。
 アーケードの入り口は、小さな小さな本屋だった。ほんのり明かりの灯った、こぢんまりした本屋だった。
 年老いた店主が、車に舞い上げられた羽をはたきで丁寧に払い落とした。
 丁寧に、丁寧に。遠い発展途上国の、黄色い空が表紙の雑誌から。
 ……邪魔にならないように、少し避けた。

 降羽が始まったのはもう20年も前だという。
 外国へ行ったことがない私は、羽の降らない国を知らない。羽の降らない空を知らない。
 黄色い空を私は知らない。

「羽宿りですかな」
「ご免なさい。お邪魔ですよね」
「いやいや。こんな天気では客は来ないよ」
 優しそうなおじいさんだった。
 羽をはたく手を止めて、私の横から暗い空を伺う。そうしている間にも羽はどんどん降り続け、もう積もるほどだ。
 木に、屋根に、地面に、おじいさんに。
「未だに冷たくないのが不思議でならないね」
 おじいさんはすぐに首を引っ込めた。思わずきょとんとしてしまった私を見て、あごをしゃくった。
 中に入れと言っているのだろう。止むまで軒下に居るくらいないならと。
 白い羽が降り続ける闇色の空を見上げた。羽はまだまだ止みそうにない。
 溜息一つ置き去りにして、おじいさんに続いてドアをくぐる。ふと思いつき、あの雑誌を手に取った。
 中は暖房が効いていて暑いくらいだった。うすいとはいえ、ジャケットでは少々暑い。
 おじいさんは最奥のレジを過ぎ、その脇の居間にあがろうとしていた。
 畳敷きの居間には今時珍しくこたつがのっていて、みかんなんてものまで置かれていた。客の居ないときには、こたつでのんびりしているのだろうか。
 私は進められるままに奥まで進んで、畳に腰を掛けた。こたつにまで入る気にはなれなかった。
「雪を知らないか」
「雪?」
 おじいさんはこたつに足を入れて、ぼそと話した。私に聞くと言うより、独り言のようだった。
 雪は知らないわけではなかった。けれど、実物を見たことはなかった。それは南極や北極に降るもので、日本で雪が降るほど寒くなることは希だったから。
「雪だ。白くてふわふわして、触ると溶けた。冷たくて、綺麗だった」
「見たことがあるの?」
「毎年降っていた。羽が降るまでは」
 懐かしそうにおじいさんは続けた。私は頂いてしまったお茶をすすりながら、ガラス戸の外を気にしていた。
「真っ白い庭を眺める居間にはこたつがあって、こたつの上にはみかん。みかんは冬のものが一番うまい。徐々に日が長くなって、雪が溶け始めると、桜。桜が終われば春も本番だ。夏は日陰でも汗ばむ暑さで、強い光が野菜を強くうまくした。秋は実り。収穫しきる頃には木枯らしが吹き、雪がまた降ってくる……」
 なんだか長くなりそうだった。おじいさんの話はTVで見聞きする話と一緒で、誰でも知っていることだった。
 −−日本には綺麗な四季があった。
 −−春は目覚めの季節。花が咲き、葉が芽吹き、長雨を経て夏に至る。
 −−太陽の熱、全てを焼き尽くすかのような暑さにも負けずに、色を濃くする植物。稲や小麦は栄養を蓄え、やがて実りの秋へつながる。
 −−収穫と、黄金と、衰退の秋は喜びの季節でもあり。
 −−閉塞と、安静と、眠りの季節がやってくる。
 夏はジャケットを脱ぎ、冬はジャケットを羽織る。冷暖房を持っている家もあるけれど、なくても大して不自由しない。
 私が知っている日本はそれが普通で、先進国の多くは似たようなものだと聞く。
 実りも秋に縛られることはない。今は、一年中どんなものでも栽培可能で、花だって何時だって見ることが出来る。
 ……その前に、料理自体する人がほとんどいない。あんなまずいもの、好んで食べようと思う人なんて、ほとんどいない。
 ペレットの種類は豊富だし、何より手間がかからない。味も歯ごたえも好きなものが選べる。栄養もカロリーも完璧に調整されているから、食事のせいで病気になることもない。
「興味はないか」
「え、あ……」
 おじいさんは寂しそうに微笑んだ。何も言い返せなくて、本の代金を置いて立ち上がった。
 まだ羽は降り続いている。回収車がカタコトと音をたてて通り過ぎた。

 回収された羽は、工場で精製されると聞いた。
 精製された炭素、硫黄、シリカ、酸素、水素、窒素……様々な物質は、加工されて戻ってくる。
 私たちの生活に、遠い黄色い空の下に。
 発展途上の国々にも、いずれ降羽装置が置かれるという。
 国際連合は地球上のあらゆる地域に降羽装置を設置することと目指していて、そのために何年も先まで予定を組み立てているのだという。
 それが、『平等』なのだと。

 アーケードを端まで歩いて、空を見上げた。まだ羽は止みそうになく、再びためいきが漏れた。
 もう少し羽宿りをしたいところだったが、明日の予定を思い出してしまった。
 明日は就職面接があった。決まっている会社だったけど、初めての場所は緊張する。
 ゆっくり休んだ方がいいだろう。
 雑誌を羽避けに使って、走り出した。

 決まった会社で、のんびりと仕事をする。
 たしか結婚は28。30で双子を出産。
 出産を機に退職。私の仕事は新卒の子に任せることになる。
 そこから先はうろ覚えだけど、たしか、私の寿命は72。
 それまで、のんびりと生きる。

 熱的は死なんて、私にはわからない。
 ただそう、決まっているだけ。



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