□ RETURN

URA*Soramimi Syojo
003.真っ黒な地図

 ――地球時間本日未明、第4次隊が土星の衛星タイタンへ到着しました。先発隊の築いた基地へと入る様子をご覧下さい。
 ――このように地下マントルの映像を直接可視画像として捉えることができるようになったのは……。
 ――海底下3000mに設置された小笠原熱水発電所の周囲にて、深海魚養殖の実験が行われています。
 ――もと王妃ディオラグラスさんの交際相手として、月面開発局局長の名が上がっている件について、王宮はノーコメントを通すモノと思われ……。

 ふいと風間が視線を逸らせば壁一面のTVはブラックアウトした。コーヒーを片手に電子ペーパーを一振りすれば、新しい記事が現れた。1面、国際面、経済面へと記事を斜めに読むと、溜息と共にテーブルに置いた。ペーパーの代わりに皿を引き寄せると、トーストを掴んでかじる。二口三口と淡々と租借するうちに、ふとテーブルの隅に置かれたままの古ぼけた機械へと視線が行き着いた。かじりついて空いた手をのばす。カチリと、ものものしい音をたてながら、ノイズ混じりの音が流れ出した。
 ――次のは源町のペンネーム・リルケットさんのリクエスト、『ソラへ向けたI Love You』
 ローテンポの穏やかな曲が流れ出す。風間はほんの僅か頬を弛めて、最後の一欠片を放り込む。僅かな食器を片手にシンクへ向かった。
 宇宙の話も、深海の話題も、地下深くの未知の領域も、余り興味は持てなかった。それよりずっと、地方ローカル局の電波を取っている方が何倍も落ち着けた。だいたい、世間の人々の足元は、いつも浮ついていると思っていた。いつもいつも遙か彼方、視界の最遠ばかりを見ている。もしくは、手の届かない次元の話を。
「もっと足元を見るべきだ。そうだろ、サンデー?」
『本日ご使用予定の靴は既に磨き終わっています』
「……あぁ、ありがとう」
 足元を見るべきは自分かも知れないと、手を拭き、柔らかく耳に馴染む曲を打ち切って、風間は何度目下の溜息をついた。
 探すまでもなく二歩でスーツの前に立ち、散歩で小さな玄関に辿り着いた。そろえられた靴に足を差し込めば、ヒモを直す前に扉が開け放たれた。どんなに磨かれ手入れされても、くたびれかかとの減った靴のヒモは、元気もなくしっかりとついて落ちる気配ももはやないクセのままに落ち着いた。
「見るほどの足元もないか」
『行ってらっしゃい。風間』
 厄介者でも追い出したかのように締まったドアを振り向く出もなく、風間は一歩、踏み出した。

 風間の職場は、歩いて5分、駅まで10分の商店街の最果てというなかなかにすばらしくて涙が流れ続ける立地にあった。処理しきれない生ゴミに群がる蠅の目の前は焼き肉屋の裏口で、その脇の階段を上がった3Fが事務所だった。広さと安さと立地を秤にかけたギリギリの妥協点で、その結果、最も必要な要素が抜けた。つまり、『入りやすさ』 電子的な手段が発達しているとはいえ、最終的には顔を合わせるべきだと風間は考えていた。そして、会うからには場所が必要で、その入り口がわからない……これで、いまままで両手で余るほどもキャンセルされた経緯はあったが、収入と支出と事務の加代ちゃんの意見と住み着いているかのような自称占い師の照世さんの言葉で、結局引っ越しは叶わなかった。
 築50年を超えるだろうぎしぎし音をたてるさび付いた階段を、一段一段数えながら上がっていく。踊り場で足を止めて振り返れば、この辺りのビルはみな同様な様子が見て取れた。褪せた看板。切れたまま垂れ下がった店先のビニール。サビの浮いたシャッター。  宇宙だ海底だ持ち運び便利なさびない最新素材なぞこんな末まで反映されることはなく、地球平和だ温暖化だと叫びながら、隣人を訴えエアコンを最強に設定する。
 視線を戻して駆け足で階段を上がっていく。2階には余りお近づきになりたくない事務所があり、今日もその前を走り抜けようとして、出来なかった。
「では、お邪魔致しマシたぁ」
 狭い階段に逃げる場所はなく、出てきた事務所の華役加代ちゃんが風間の前を塞いだ。加代ちゃんの横、つまり、2階の扉の中には民族主義など何処吹く風とばかりに髪を白くさえ見えるほども脱色した若い男が立っていて、加代ちゃんへは火を出しすぎたろうそくよりも溶けそうな笑みを、風間へは生ゴミよりも嫌悪の視線を向けてきた。
「あー、所長。おはようございますぅ」
 気付いているだろうに笑顔を1mmたりとも崩すことなく、100%の営業スマイルを風間に向けてきた。
 け、と呟く男の声を背景に、加代ちゃんは風間の手を引いて階段を上がり始めた。釣られるままに会釈をしつつ、扉の前を通り過ぎた。ぱたんと軽い音が聞こえ、ぎぃと油を差し忘れた3階の扉が開いた。
 足元がきしむ金属から硬質なゴムに変わると、仏頂面の加代ちゃんの小言が既に始まっていた。
「ご近所付き合いは重要だって、いつも言っているじゃないですか! なんですか、あの顔は! あんなチャラチャラしている男だって、情報持ってるんですよ、使わなくてどうするんですか! わかってるんですか、うちの売り上げの状況を!」
「けど、君の態度は……」
「あの程度の男にはアレで十分なんですってば! どうせ女っ気の1つもないんだから、投資200円かそこらで手なずけられるモノなら安いでしょ!? あいつらだってそこまで馬鹿じゃないもの。この程度なら私の身が危なくなるなんてぜーったいにないし」
「いや、だから……」
「だからじゃないです! 甘いんです! いいですか? 犯罪ってのは宇宙にはないんですよ? 海底では窒息しちゃうんですよ? 国家犯罪は政府の仕事です。殺人犯は警察の仕事です。ウチの仕事はもっと地域に密着したモノで、好きだろうと嫌いだろうと、そんなことはどうでもいいんです。歩いて、ご近所を全て知り尽くして、それでこそ……」
 ちゃんちゃららんら、ちゃららら〜♪ すっかり壁際に追いやられた風間を救ったのは、軽い軽い呼び出し音だった。聞く度に風間は脱力したが、緊張を解くには一番と加代ちゃんの強硬な意見で、変更は許されていない。
「……茶でも飲みなよ、あの子はあの子で考えてるんだから」
 いつの間に居たのか、いや、単に壁と同化するように存在していただけで、風間が気付かなかっただけだろうが照世さんがすっと茶碗を差し出してきた。柔らかい香りはサンデーには何度教えても決して出すことが出来ないもので、茶柱が一本浮いていた。
「良いことがあるといいねぇ」
 ふふふと、含むように笑うと、ぱっと加代ちゃんが振り返った。
「所長! 依頼です!」
「あ、あぁ」
 お茶もそこそこに、受話器を受け取る。線を介した隣人は、甲高い声で今にも泣き出しそうに……僅かにしゃくり上げつつ、必至で風間に説明した。
「ミヤちゃんがいなくなちゃったの。あのね、しーくんが窓を開けたらね……」
 目線で指示する前に、全てわかっていますと言うかのように加代ちゃんは地図を差し出してきた。
 白い空間にとびとびの星をかき込んだだけの宇宙地図ではなく、細かい線の入り組んだ海底地図でもあるはずがない。事細かに書き込まれた風間と加代ちゃんと照世さんの宝物。ご近所MAPだった。
「大丈夫だからね、オジチャンがちゃんと見つけてあげる。はい。ママに言っておいてね、風間探偵事務所が承りましたって」

 宇宙にいくら出て行ったとしても、地中を掘ってたとえ地獄に辿り着いたとしても、地上の、日常の、ささやかなトラブルはなくならない。
 風間たちの仕事は、真っ黒な地図の上で、今日も始まるのだった。



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