昔々、ずっと昔、今よりずっと人間が多かったときに、人間は神様を怒らせてしまったんですって。あまりに人間がひどいことをしたから、神様は海を全部燃やしてしまったの。 人間は海から生まれて陸へ上がって、年老いて死ぬの。だから、海を燃やされてしまった人間には子供が生まれなくなって、そして一度滅んでしまったんですって。 え? じゃぁ、私たちはなにかって? 神様はね、なにもなくなってしまった人間の世界を悲しんで、海を燃やしたその灰で、新しい人間を作ったんですって。 ねぇちゃん、待ってて。必ずそれを見つけて戻るから。 山の向こう、もう見えない村を思って、僕は決心を固めた。ざざん。ざざん。幾度も押し寄せる波が、僕の足下をぬらしては引いていく。濡れて馴染んでいく足が、戻れないのだと僕を誘う。 砂浜に乗り上げた一艘のボード。荷物を投げ入れ、力任せにそれを押した。 この海のどこかにそれがある。神様が最初の人間を作った灰が。幾人もの大人達が何度も何度も探したけれど、見つからなかったそれ。けど、大丈夫。絶対僕には見つけられる。ジャックと一緒に忍び込んだ神殿の奥の洞穴の中。地図を見つけたから。 動き出したボートに飛び乗った。水に馴染んだ足が、少し溶けてしまった。でも、平気。まだ大丈夫。 荷物から紙を取り出した。膝の上にそれを広げる。今は、ここ。この海岸。目指すはここ。海の真ん中。潮はいま、沖へ向かって流れてる。大丈夫。きっと僕は見つけられる。 三日月の出る方向へずっとずっと船を進めた先。海流が出会うその場所に、神殿はある。 地図を持って動物を連れて船に乗り込め。それだけで良い。 「フリュー、もう平気?」 ごそごそリュックから音がした。あぁ、ごめん。今だすからちょっと待ってて。 「……ぷは。せまいにゃー。うわ、ほんとに水の上だ!」 ジャックは初めてだったね。これが海だ。おっきなおっきな水たまりだ。 「落ちたら死んじゃうよ?」 あはは。そうだね。だったら縁から下がればいいさ。大丈夫沈まないから。 ジャックの小さな身体を持ち上げて、ボートの中央に戻した。一瞬固まったジャックは、けど、すぐにされるがままになった。 「足、とけちゃったね」 ぺろぺろ。 いいよ、なめなくて。これくらいなら大丈夫だから。ねぇちゃんに比べれば、なんて事無いもの。 「リュヒトと比べちゃ駄目だよ。リュヒトは病気だもの」 ちょっとの水で溶け始めてしまう病気。どうしても休めなかった仕事で、沢山の雨を浴びたねぇちゃんは、身体の半分が溶けてしまった。町のみんながどうしてと言った。雨が降り始めたのが、わからなかったはずはないのにと。 うん。だから、大丈夫。 「良い月だね。このまま流れていくの?」 そう。ジャックも見たろ、地図の通りさ。 地図にあったのは、なにもしないこと。大人達のように、焦っては駄目。ただじっと、流れされていくこと。だって、海の神殿は、海の中をずっと動いているのだから。三日月が沈んで、ちょっと太った月にかわって、それがまん丸になる頃。海の神殿にたどり着く。 まだまだ長いよ。ほらジャック、一息入れよう。 大きな荷物から、おやつを少し取り出した。 フリュー、私の大事な弟。神様にお願いして、作ってもらった大事な弟。学校に行って、勉強して、きっとパスポートをもらうのよ。そうして、あたしの分まで、幸せになって。 「今日は月がまんまるだにゃ」 ひくひく。ジャックの髭が動いた。ううん。ちがうよ。今日は14日だ。ほら、下がちょっと細いだろ? 「ほんとだ。ほんのちょっとにゃ。……神様もおまけしてくれればいいのに」 あはは。だめだよ。それじゃぁずるだ。 あとたった一晩きりじゃないか。 「そうだけどさ。お魚見てるのも、取りを見てるのも飽きたにゃー。……うひゃっ」 ざぶん。大きな波が縁にぶつかって、しぶきが入ってきた。 あはは。情けない顔するなよ。 恨めしそうな顔で、ジャックは僕をねめつけた。 「塩でべたべたにゃー。帰ったら井戸で洗わないと」 うん。そうだね。早く帰らないとね。……ねぇちゃんがきっと心配してる。 「リュヒトはだいじょうぶにゃ。眠ってたらあっというまにゃ。それより、フリュー」 ……うん。 ジャックが僕をのぞき込んでる。手触りの良いその頭を撫でてやりたかったけど、できそうになかった。大きな月は、ほんの少し左側が細いまま、僕の真上にまで来ていた。あと、一日。あと一日で神殿にたどり着く。あと、一日。 海の灰なんて、どこにもない。けれどあれは迷信じゃない。 地図は全部燃やしてしまえ。二度とたどり着くものがないように。 「フリュー、あれだよ。ほら!」 うん? ジャック、見えた? 「ほらほら、起きて。見えるよ。あれだよ!」 良かった。伝説は本当だったんだ。あの神殿にきっとある。海の灰はきっとある。そうだね、ジャック。良かった……。 「フリュー。起きてよ。フリュー、フリュー!!」 ごめん。頑張ったんだけど、無理みたい。海の風はしおっぽくて。ちょっとずつちょっとずつ、僕は溶けてしまって、いて。 「フリューっ!!」 あぁそうか。 どこかで聞こえるさらさらという音。どこかで見てるまあるい月。 一生懸命鳴いている、ジャックの背中。 ねぇちゃんは言ってたじゃないか。神様に作ってもらったんだって。 どこかで感じる僕の視界には、神殿なんてどこにもなく。……僕らの島が迫っていた。 「ばかだね。人間について行くなんて」 「そういうなよ、タレサ。やつら一生懸命で一生懸命で、みてらんないんだ」 「だからって、毎度そうやってないてちゃ、割に合わないだろ?」 「……泣いてなんかないよ」 ふっと羽ばたくと海鳥が舞い上がった。砂浜に乗り上げたボートからとすんと袋を落とすと、ジャックは砂浜に飛び降りた。 (ヒトてバカばっかりだ) ずるずる袋を引きずって、山を目指す。山の向こうの姉弟のある村まで。 (フリューの願いは叶うけど……) 波がざっと押し寄せて、ボートは波に浚われていく。取りきれなかった灰を載せたまま。 (リュヒトはまた願うのかな) 海鳥のタレサがボートにぎりぎり近づいて、翼で灰を散らした。 (寂しいって) ジャックは村を目指した。 |