ピンと張った緊張で壊れてしまいそうな玻璃色の空がシャーリーの頭上を覆っていた。吹き抜ける風は北から南に向かい、精一杯枝を広げた木々の間に冷たさを残した。足下は硬くぎゅっと縮こまり、シャーリーの足跡さえも拒むかのようだった。 シャーリーは立ち止まり、目の前の白い小さな雲を見つめた。雲はシャーリーの口や鼻から生まれて、さわさわと漂いすぐに消えてしまった。 −−昨日はまだだったわ。 シャーリーは頭上を見上げた。飛び立とうとする何者をも拒むかのような凍えた枝の隙間から、高台に生えるその木が見えた。すっかり枯れてしまったかのように、ただ、大空に手を伸ばしただけの、木。大きな大きな岩をその根元に従えて、眼下を静かに見下ろすだけの、木。 −−今日かしら。明日かしら。 シャーリーの小さな胸の中は期待で一杯にふくらんで、行く手を拒むかのような冷たい風で急にしぼんでしまった。 −−それとも、もっとずっと先、かしら。 玻璃の向こう側のお日様は白々とした光を投げかけるばかりで、シャーリーにはその暖かさをわけ与えてはくれなかった。 けれど。一昨日より昨日。昨日より今日。確かにお日様は力を増しているように、シャーリーには感じられた。 年に一度、シャーリーのご主人様がやってくる。春の終わる日。長い長い、冬を終わらせるために。その日を探して、待って、シャーリーは今日も道を急ぐ。 「ジャック! そこはご主人様の場所だわ!」 駆け続けてすっかり氷のように硬くなってしまった手足を、最後に一生懸命動かすシャーリーの前には大木と大きな石、そして図体ばかりが山のように大きなクマがいた。クマはあろう事かシャーリーをいとも簡単に押しつぶしてしまうであろう大きなお尻を、石の上にどすんと落ち着けていた。 −−ご主人様が見たら、気を悪くしてしまうかも知れないわ! シャーリーは冬眠から冷めたばかりのジャックへ挨拶する事も忘れて、叫んでいた。 「あぁ、シャーリー。ご主人様の椅子はね、とってもとっても冷たいんだ」 のんびりとジャックはシャーリーへ答えた。答えて軽く手を挙げると視線を遙か遠くへ向けた。背筋を伸ばして、今か今かと待つように。 「知っているなら!」 「いつもいつもご主人様は、こんなに冷たい椅子に座っておいでなんだね」 ジャックはもそもそとお尻を動かした。ようやく木の根本にたどり着いたシャーリーはとんと石に手をかけて、氷のようなシャーリーの手より冷たい事に驚いて慌てて引っ込めた。氷よりも冷たいものがあったことに驚き、しばらく動いてまた落ち着いたジャックをじぃっと見上げた。 「ジャック、とてもとても冷たいんじゃないの?」 冬眠から冷めたばかりのジャックは、シャーリーよりずっとずっと大きくはあったけれど、秋口の冷たくなり始めた風の中で超然と立っていた様とは違い、北風の中で吹き飛ばないように気を付けているように見えた。 食べるものもまだあまり多くない。手足の先以外は動いていてほかほかしてきたシャーリーとは違い、じっとそこに座っている。 −−このままではすっかり芯から氷になってしまうんではないかしら? 「うん、冷たいよ。でも、少しでも暖かかったら、ご主人様早く来てくれるかなと思って」 にこりとジャックは笑った。 シャーリーは思いもよらなかったジャックの気遣いに、他に自分にできることを思いつかず、ジャックの大きな足に寄り添った。椅子を暖めるためにすっかり冷え切ってしまった身体を、手足を、少しでも温められるように。 「早く来てくれて、少しだけ長くいてくれたら、いいなって」 ジャックはそんなシャーリーを見てくすぐったそうに身じろぎすると、遙か空を仰いだ。 ジャックの目線を追ったシャーリーとジャックが、それを見つけたのはほとんど同時だった。 「あ」 「花が」 とんと叩けばこぼれて落ちてしまいそうな枝先の赤い滴の一つが、ふわりとほころびはじめていた。さわりと風が動く。静かに音もなく芳しい香りが僅かに混じり、とくんとシャーリーの小さな胸が音を立てた。 少しだけぬくんだ風。少しだけ右へと方向を変えた風。こぼれるつぼみは予感。その時がやってくる予兆。 ごうという音を伴って、風が巻く。巻いた風に刺激されたように、ぽろりぽろりとつぼみが開く。こぼれるつぼみに誘われるようにさらに風が舞い込む。 漂い出る香り。香りに色づけされてほぐれていく空。僅かに力を増したように見えるお日様。お日様に元気づけられて懸命に地面を割る草。 「ご主人様っ」 ひときわ大きなごうという音に、ジャックは慌てて石を降りた。シャーリーの目の前に風が凝る。凝った中に浮かび上がる、影。 「シャーリー、ジャック!」 大きな手がシャーリーとジャックを一抱えに抱きしめた。すっかりぬくんだ大きな石に座り、今年最初に咲いたの花の下でくるりと世界を見回した。 「今年も無事にこれたよ。さて、冬将軍様に交代を告げに行かなくては」 シャーリーもまねをした。いつもより少し高い場所から望む世界は、まだすっかり凍えたままで氷の中から息を潜めて、氷がゆるむのをじっと待っているように見えた。 −−ご主人様のお仕事は、これから。 とんと、シャーリーはご主人様の手を降りた。大きな手が彼女の小さな頭をわさわさと撫でた。シャーリーの小さな胸はばくんばくんと音を立てて、それだけではち切れそうになった。 「また来年もよろしくね」 「ご主人様……」 「これが僕のお仕事なんだよ」 行かないでと言いそうになって、シャーリーは慌てて口をつぐんだ。それは言ってはいけないことだと、シャーリーにもわかっていた。そっと背後から大きな手が伸びてきて、シャーリーをすくい上げた。ジャックだって寂しいのだと、シャーリーはもさもさ毛だらけの顔をなめた。 そんな二人の様子に安心したのか、とんと立ち上がるとご主人様は大きく空を仰いだ。柔らかくなった空の上で、お日様は投げかけてくれる力をまた少し強くしたようだった。 「行ってくるね」 大きな椅子の上に昇ると、にこりとお日様よりも暖かな笑みを残して、ご主人様は渦巻く風の中にその姿を溶かしていった。 消えたその姿をじっと追い求めるかのようなジャックとシャーリーの足下で、頭上で、ぽんぽんと春の気配が増えていった。 冬の末に現れ、変化をもたらすその先駆け。 春一番と、それは呼ばれた。 |