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最新掲載日:2002・03・01

 投稿者根本徳三さんご自身による紹介です。
東京大空襲があった57年めの3月10日が間もなくです。一夜にして10万余人の死者をだした、広島・長崎と同様の大殺戮があったあの日、奇しくも生まれた私の後輩がおります。その母親から、偶然の機会があって当時の話を聞くことができました。語ることのできない10万余人の身の上に思いをよせて、以下聞き書きです。
 件名:長男誕生と空襲    
                   − 腰越 シズエ (当時の住所 本所区横川橋) −
 日付:  2002年2月28日
 差出人: 根本徳三さん(東京都)
 わたくしの長男は昭和20年3月9日生まれです。あの東京大空襲は長男が生まれて数時間後のことでした。わたくしは生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえて炎の中を逃げました。火の粉がふりそそいでいました。今でも母子手帳が残っています。黄ばんだそまつな紙に「分娩日時 昭和二十年三月九日」「體重八五十匁」などの文字が読みとれます。あれから五十余年が過ぎました。遠のく記憶を思い起しながらあの頃のことを語ってみます。
 出産予定日は12日でしたが8日の朝、陣痛がおき近所の賛育会病院に入院しました。出産は翌日の9日で、時間は午後8時頃だったと思います。分娩室から自分のベッドに戻ってしばらくしてから看護婦さんが「赤チャン来ましたよ」「男の子ですよ」と連れてきてくれました。それから1〜2時間経ったでしょうか、病院内がなんとなく騒がしくなってきました。やがて看護婦さんが来て「危険ですから避難して」と言うのです。わたくしは用意してあった亀の子に赤ん坊をつつみ、脱脂綿をいれた手提げ袋を手にさげて、同室の人5〜6人と一緒に病室を出ました。一時頃だったと思います。外はすでに火の海でした。道の両側の家が燃えています。強い風、吹雪のようにふりそそぐ火の粉。ちょうど通りかかった消防団の方が「錦糸公園へ行こう」と誘導してくれました。赤ん坊を抱きかかえ、身をかがめて、身体に降り注ぐ火の粉をはらいはらい錦糸公園まで、長い道のりでした。
 空が明るくなりはじめた頃、夫と会うことができました。夫は当時精工舎に勤めていました。交代制で夜勤もあったのですがその日は自宅でした。焼夷弾が落ち周囲が燃え始めたので病院へ行ってみたがその時の病院はすでに火に包まれていたそうです。 
 あの炎の中で親子三人がともに無事だったとは、幸運の一言につきます。幸運はまだ続きました。昼頃になってわたくしの姉に会いました。姉は昨年11月に出産したばかりで乳が豊かでした。わたくしは出なかったのです。その時初めて赤ん坊に乳を飲ませることができました。口いっぱいに乳房をくわえ、力いっぱいに乳を吸いました。その様子は今でも忘れられません。
 その夜は学校のような所で仮眠して翌11日に実家のある荒川区の熊の前に身を寄せました。バスや路面電車はどうなっていたのでしょう。わたくしは、夫がこぐ自転車につけたリヤカーに乗せられてのことでした。途中の道筋で多くの死体を見ました。着衣したきれいな死体、裸の焼けただれた死体、小さいのは子供でしょう、男女の区別もできない死体もありました。隅田川にも沢山浮いていました。浅草松屋はまだ窓から火が吹き出していました。わたくしたちが避難するとき、分娩室から戻ったばかりの人が動くことができずベッドに残ったままでした。あの方は赤ちゃんをふくめてどうなったことでしょう。また最後まで残って避難誘導していた看護婦さんや先生方はどうなったことでしょう。あの夜の惨状を知るにつれ、多くの人の身の上に思いを重ねないわけにはまいりません。今でも隣のベッドの方のことを時々思い出します。

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