資料NO. :  14
資料名  :  海をわたった家族(8/24講演)
    
          安順伊(アン・スニ)さん

 「ゆるそう しかし忘れまい=戦争より共生− 
                    
      8/24コリアン交流会と原爆の絵展」講演会
 
                    * 志津コミュニティーセンター(主催:佐倉平和のつどい実行委員会)
制作者  :  T.M.(ちば・いちはら連絡会)記録
制作日  :   2002/09/04

 1936年頃,父は徴用で日本に行くことになりました。国では家族がやっとやっていける農業の規模でした。母と私と妹は母の実家に預けられました。
 朝鮮は日本の植民地で,農作物は供出でとられ,女性の髪飾り(銀のさしもの)も取り上げられた。米を供出してしまうと,食べる米はわずかしか残りませんでした。
 朝鮮の村では,学校へ行っている子供はほとんどいませんでした。子供達は,村にある夜学で勉強していました。その夜学で,日本の文字と言葉が教えられることになりました。「われわれは日本小国民なり」という言葉を暗記しながら歩きました。

 そんなとき,父に徴用の話が来ました。このころ徴用が多かったのです。父は,釜山から船に乗せられ北海道へ直行しました。行き先は,北海道というだけで,炭鉱とは知りませんでした。北海道の尺別というところでした。1年半が過ぎた頃,北海道の父から手紙が届きました。中には家族が日本にわたる書類が入っていました。母と私と妹は,海をわたって父のところへ行くことになりました。母は船酔いにあい,ぐったりとなり大変な思いをしました。言葉が分からず,北海道に行く女性と一緒に行きました。

 きてからまもなく配給制度になってしまいました。我が家は食糧難になり,配給米では,いつも足りませんでした。近くにはたこ部屋もありました。列をくんで歩いているのを見て,「乞食がいるよ。見に来てよ」というと,母は,あれは「たこ部屋の人だよ」といっていました。

 たこ部屋は,朝鮮人が多く,中国人が少し,台湾人も少しいました。歩いている姿は,青白い顔で,靴もぼろぼろでした。ある日,山の方から大声が聞こえて,「あっちへ逃げたぞ,こっちへ逃げたぞ」と,たこ部屋の人が逃げたんです。たこ部屋の中は人間扱いではありませんでした。いたたまれなくなり,トイレの中から逃げた人もいました。私の父は徴用でたこ部屋ではなかったので,家族を呼び寄せられました。上役に認められないと家族を呼び寄せる許可をもらえなかったので,父は一生懸命働きました。父も包帯を巻いて帰ってきたこともありました。
 
 尺別で働いているとき,父は親戚の人と会いました。それで美唄に親戚がいることが分かりました。働いているところは,いつ死ぬか分からないところなので逃げることを考えていました。
 父は,ある時美唄に逃げました。警察がどこへ行ったのか訪ねてきました。半年ぐらい父のいない生活が続きました。
 ある日,母に,教科書をランドセルに全部詰めて駅で待っていなさいといわれました。途中に検問所があり,学校に行くにもそこを通らないといけませんでした。あとから来た母は荷物を何も持っていませんでした。来た列車に飛び乗りました。母は,アボジのいる美唄に行くんだと言いました。買い物に行くふりをしたため,赤ちゃんの着替えだけで,家財道具は何一つ持っていけませんでした。

 美唄の親戚からは大歓迎されました。当時小3で,転校証明ももらえず,手続きをするのに大変苦労をしました。1ヶ月位かかりました。そこで住む家がまたすごい家でした。一軒家でしたが,中は真っ黒でした。障子はボロボロで畳は埃だらけで,「ありがとうございます」と言ったけど,惨めに感じました。けんめいに掃除をして,障子を張り替え,畳には敷物をしきました。一年も経たないうちに,尺別から逃げた人を警察が捜しているという情報をおじさんが持ってきて,あわてて逃げることにしました。
 おじさんの世話で朝鮮部落に行くことになりました。引っ越す荷物は簡単でした。おじさんが下見に行き,朝鮮人がたくさん住んでいて,仕事もあるから行こうとなって上野まで来ました。来てみると仕事はありませんでした。
 仕事を探し,おじが茂原で飛行場建設をしているところがあるということで,茂原に来ました。ちょうど飛行場建設の真っ盛りでした。長屋住まいでちゃんと住めるようにはなっていませんでした。流しを作ったり,かまどを作ったり,分担して作り,そこに住んでいました。空襲にもあい,怖い目に遭いました。爆弾で飛ばされた人もいました。防空壕に逃げました。そのうち広島,長崎に原爆が落とされました。3月10日の東京大空襲の時には,燃えかすまで飛んできました。戦争は怖いと言うことは,忘れられません。

 朝鮮は南北に分断されています。統一の時には,血を流さないで統一してほしい。北海道ではなかったのに,茂原ではいじめに遭いました。4年生から6年生の3年間いじめられました。耐えられたのは,親が無学だったので,親のようになりたくないと言う気持ちで,耐えられました。針のむしろでした。「半島人,朝鮮人,汚い,バカ」といわれました。いじめられても耐えていました。しかし,6年生の時耐えられずやめました。やめた年に終戦になりました。夜学に一生懸命通いました。勉強したい気持ちがあったので,夢中になって通いました。朝鮮の歴史を学び,植民地ということを初めて知りました。朝鮮の旗も初めて知りました。日本人に対して,ちょっと反感がありました。長屋の,朝鮮人の生活はみすぼらしいものでした。どぶろくを作ったり,闇米商売もしました。どぶろく作りが税務署に見つかるともって行かれました。その繰り返しでした。朝鮮連盟の団結力は強く,学校を建ててしまいました。日本政府から弾圧がありました。夫も役員をやっていたので,警察からにらまれていたのです。家宅捜索もされました。3度目の家宅捜索の時には,逮捕状を持ってきました。逮捕状を突きつけられて,夫は「偽の逮捕状が多いので確かめさせてくれ」といって,部屋に入って,裏から逃げたのです。1年間家に帰ってきませんでした。捕まれば強制送還でした。北朝鮮に帰る帰国船が出ることになって,帰る人が出てきました。兄弟の家族がその時帰りました。私たちは,夫が役員だから残りました。役員は先に帰れなかったのです。

 夫は,その後結核にかかり入院しました。当時は助からない病気でした。ちょうど米国でストレプトマイシンが入ってきて,それで直りました。夫の入院時,5人の息子の5本分の牛乳を3本とって5本に薄めて飲ましました。息子が友人に牛乳をそのまま飲むのかと言って「ええ!」と言われました。その時,息子は牛乳をそのまま飲むものだと知りました。ひと山いくらのシャケの頭を買ってきて塩を洗い落とし,適当に切り,七輪の上でかりかりになるまで焼いて食べさせました。娘は,シャケの頭がシャケだと思っていました。
 焼き肉屋をやり,大きくなりました。そして千葉に引っ越してきました。引っ越して1年後だったか,夫が病にかかってしまいました。筋肉が衰えていく病気でした。大学病院で「1年もちませんよ」と言われショックを受けました。1年入院して帰らぬ人となりました。
 

 本を出すとき,エッセイ教室で助けてもらいました。日本の友達が初めて出来ました。大事にしたい。南北分断されている国が一日も早く統一されること,生きているうちに統一を実現してほしい。


                                                      

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掲載:2002/09/12