資料NO. : 21 | ||||||
資料名 : − 森元美代治さんの講演会 − 「尊厳回復の願いと私のたたかい」 − ハンセン病を生きて − 人権問題講演会(君津市)より | ||||||
制作者(リポーター) : T.M. | ||||||
制作日 : 2003/2/4 | ||||||
1月17日(金)人権問題講演会という催しものがありました。 これは君津市と君津市教育委員会の主催,自治会連絡協議会の協賛で毎年行われている講演会のようです。今年は,メーンの元ハンセン病患者の森元美代治さんの講演と映画上映が行われました。 森元さんの講演をメモしたものを以下に掲載します。 森元美代治さんの講演メモ 演題 「尊厳回復の願いと私のたたかい―――ハンセン病を生きて」講師 森元美代治氏 国立ハンセン病療養所多摩全生園入園者自治会 前会長 ○ハンセン病について 「全生園」と書いて,「ゼンショウエン」と読みますが「ゼンセイエン」という人がいます。 ハンセン病になると村々から排除されていくという時代がありました。生きていくためには,物乞いもせざるをえませんでした。1906年「らい予防法」(以下,予防法という)が出来ました。それは戦争が開始する直前に作られたもので,家族を含め徹底的な隔離政策がとられていきました。1都11県の「全生(ゼンセイと読む)病院」に隔離されていきました。S16年に国家に全部移管されました。多摩の施設は「多摩全生園(ゼンショウエン)」に変わりました。 1996年に予防法は廃止になりましたが,その時患者の8割ぐらいは廃止に反対でした。「70〜80歳になり,今更人権もへったくれもない。それよりも,医療が改善されることの方がいい」というものでした。私は,なんとしても廃止しなければならないと考えていました。それは予防法こそが差別の根源だからです。予防法に賛成する人は「大蔵省から予算をもらってくるには,ありがたい法律だ。予算がなくなったら,療養所がどうなるか分からない」と言っていました。 これに対して,大谷先生(藤楓協会理事長・国際医療福祉大学学長)は「予防法を廃止して,他の法律を作ればいい」と提案されました。そして「らい予防法を廃止したら,療養所から出て家に戻ってください,となったら,自分は闘う」と語っていました。私は,予防法の廃止は,らい患者の人権の回復になると思いました。 ○ハンセン病国家賠償訴訟について そして,予防法が廃止されたとき一件落着と思っていましが,九州で裁判が起こりました(1998年7月、熊本地裁に元患者13人が提訴)。それは療養所を震撼させることでした。私もびっくりしました。今更と思ったけど,心の底では「やった!」と思いました。療養所の中の声は「とんでもない奴らだ。負けたら療養所からおいだされるぞ」というものでした。私は,この裁判に加わるかどうか7ヶ月位悩みました。療養所の中の人間関係の問題があるのです。当時多摩全生園には680名くらいいましたが,68名しか原告にはなってくれませんでした。「勝てればいい,負けたらどうする」というものでした。 HIVの裁判で安部英氏(前帝京大副学長)に無罪判決が出たときには,頭の中が真っ白になりました。裁判結果を予想(全面勝訴の場合,一部勝訴の場合,敗訴の場合)して議論もしました。判決結果は,1400万〜800万円の賠償額でしたが,原告は「これで人間回復した」と喜びにわきました。小泉首相は,控訴期限ぎりぎりの控訴を断念しました(2001.5.23)。 裁判の意見陳述で,「ハンセン病になり,7年で右目を失い,このまま全生園で一生を終えるものと思っていた。療養所では,『先生はきれいなところ,患者は汚いところ』という差別を受けた。そして,このまま死んでいいのかと考えるようになった。体験したことを多くの国民に伝えていくことが,社会全体のためなんだと生き直したかった」ということを述べました。 ○根強い差別について 差別については,ハンセン病は病気があるからわかりやすいが,被差別部落や在日の場合は内面的でわかりにくい。予防法が廃止になり,自治会長を辞めて外に出て行くとき,私は在日の人を会長にしようとしました。その時,これに反対する人から「彼を苦しめるなよ」と言われました。その時はそれに反論できませんでした。今なら,「だれが差別をしているのだ!」と言っています。 私が本の発行をしたとき,郷里の町長と図書館長から置くのを却下されました。長年その町長を支持してきた兄は,町長の対応にどれほどつらかったことか,そういう意味で何一つ解決されていないと言うことが実態なんです。自分自身も,一切差別をしていないということはない。どこかで差別をしている。多くの人はそれに気がつかない。在日の人を会長にしたときの反対の反応は,多くの日本人の反応なのです。 ”のんびり療養所で三食ヒル寝付きで生きるのも人生,社会復帰して生きるのも人生”。自分は後者の道を歩みたい。失った人生を自分の力で取り戻したい。仕事は自分で見つけること,天命とは自分で求めて見つけることが人生。 故郷で講演会を開かれることになったが,そんなにあまくなかった。身内の反対が強かった。「美代治さんの存在が恥だ」という風に言われた。 人生とは難問が立ちはだかれば立ちはだかるほど,それを乗り越えられる。「ありがたい」とは「難が有る」と書きます。 ○差別・偏見のない社会をつくりたい 今が楽しくて仕方がない。欠点や弱点は問題ではない。信念を持って歩いていった方が充実した人生になる。ハンセン病を体験したことを誇りに思う。インドや中国では,ハンセン病で苦しんでいる人たちがいっぱいいます。 差別・偏見のない社会をつくるために,生きていきたいと思います。 <ハンセン病に関するHPはこちら> <森元美代治さんに関する資料はこちら> | ||||||
☆講師のプロフィール 森元美代治(もりもと・みよじ) 1938年 鹿児島県奄美大島、喜界島生まれ。 1952年 中学3年の時にハンセン病と診断され、国立奄美和光園に隔離入園。 1959年 大学進学を期して、東京都東村山市の多磨全生園に転園。 1962年 慶応大学法学部法律学科に入学。 1966年 同大学卒業。東調布信用金庫に入社。 1970年 ハンセン病再発により、多磨全生園に再入園。 1974年 同園入園者のマカダダ・ミック(日本名・美恵子)さんと結婚。 1996年 「らい予防法」廃止を期に、実名で講演活動を展開。 ☆参考文献
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掲載:2003/04/11