第5回千葉人権展/無くそう差別・県民の広場 「上総・安房のつどい」 |
<講演会関係資料NO.3> 第5回ちば人権展/なくそう差別・県民広場「上総・安房の集い」資料より |
柏市史 近代編 士村役場は村行政や村内の主要なできごとを記した「土村日誌」を書き継いでいるが、それには震災について次のように記している。 戒厳令の布告 警察と軍は地震発生直後から秩序雑持の準備を始め、千葉県習志野に本部を置く騎兵聯隊に帝都の治安維持のために出動することが命じられた。出所の定かでない流言蜚語が二日の朝から飛ぴ交い始めた。「朝鮮人が暴動を起こした」という流言の伝播を追った研究によれぱ、噂は権力中枢の周辺地域から始まっているともいわれている。このような事態に対処するため、戒厳令が九月二日に東京市、三日には東京府と神奈川県に公布され、軍が治安維持に責任を持つ体制が築かれていく。 こうした噂は市域にも直ちに伝わってきた。炎上する東京の煙が漂い、多くの人々が水戸街道を通って避難してきた。東京・横浜近辺のどの地城においても、治安維持のために在郷軍人会や青年団、さらには大字や小字毎に組織されていた多くの人々が警戒のために動員された。松戸署管内においては丁度この頃、大字を単位とする保安組合の組織化が進みつつあった。それは「日常起リ易キ各種ノ損害二対シ隣保相団結シ関係官公署団体組合等ト連絡ラ保チ、之ヲ未然二防止シ組合内ノ安全ヲ期スル」ことを目的にし、安全当番を決め、災害防止、救護、犯罪予防、悪習弊風の芟除など、「松戸警察署管内保安組合又ハ土村保安組合ヨリ指示セラレタル事項」を行うとされている(酒井根区有文書二七)。この保安組合規約の施行日が大震災の当日であった。保安組合という名称で活動した形跡は見られないが、在郷軍人会・青年団は、村境に立ち番を立てて不審人物の往来を監視し、余震が続く中、不安な夜を送っている村の中を巡回した。 福田村・田中村の事件 しかし、習志野の兵営に収容された朝鮮人・中国人の生命が保証された訳ではなかった。何十人もの人々が収容所から軍隊の手によって連れ出され、付近の住民によって試し切りに等しい方法で殺されているのである。 自警団を組織して警戒していた福田村を、男女一五人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する。警官がやってきたときには七人がすでに殺害され、一人は利根川に飛ぴ込んで逃れようとしたが、騒ぎを聞き付けた田中村の自警団が船で追い掛け、その一人も殺害したというのである。残された人々から事情を聴取すると、彼らは香川県人の売薬商人であることがはっきりした。言葉の行き違いもあったのだろうが、異常な事態に興奮し、ことあらぱと待ち構えていたとしか考えられない。 各地でこうした事態が発生し、直接手を下した人々は逮捕され、公判に付された。この事件にかかわって田中村の四人、福田村の四人、計八人が逮捕された。田中村は同年一〇月二日に村会議員・各区長・各団体長を招集し、この事件への対処方法を協議する。会議においては、隣村まで追い掛けていったことを問題にする意見も強く、弁護料として出すことはできないが、「役場に於てか又は公共団体の如き団長より命令の元に行動したるならぱ止むを得ざる故」と、小金町の場合を参照して四人に対し三五〇円の見舞い金を戸数割りによって徴収し、支給することとなった(平川?仁家分署五、「???」対象一三年五月一日)。 治安状態が落ち着きを取り戻しつつあった九日付けの、千葉県警備隊司令部の「主義者及不逞鮮人に就いて」というピラは、讐察や軍隊、自警団による当初のこれらの人々に対する弾圧について次のように途べている。朝鮮人が騒乱を計画しているということは「前報の通り依然事実ではない」と否定しつつも、「唯人心の動揺を好機とし主義者及不逞の鮮人が巧に鮮人を煽動使嗾するので、処々に放火掠奪等の兇行も演せられ自警に任する人々と衝突し終に流血の不幸を見たる処もあり」と、朝鮮人に対する一方的な襲撃や社会主義者に対する弾圧を「衝突」と表現して糊塗しようとしていた(三上信次郎家分署一九)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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