第5回千葉人権展/無くそう差別・県民の広場
「上総・安房のつどい」
<講演会関係資料NO.3>
第5回ちば人権展/なくそう差別・県民広場「上総・安房の集い」資料より
関東大震災朝創人‘中国人等虐仔事件の背景を伝える「柏市史」(近代編)の詰事|影のテネベトをご覧下さい| 

柏市史 近代編
   平成十二年三月三十一日 発行
     編集 柏市史編さん委員会
     発行 柏市教育委員会

 士村役場は村行政や村内の主要なできごとを記した「土村日誌」を書き継いでいるが、それには震災について次のように記している。
  九月一日 大地震、安政二年大震災二次ク大地震アリ、当日午前十一時頃大震動二回夫ヨリ引続キ三日マテ三十回以上ノ震動アリテ人心   戦々恐々タリ、夜間ハ戸外二宿泊スルモノ多カリシ、東京市ハ七八分通リ三日間二渉リテ焼失ス、人員ノ死者約一万五千人ト算セラル、横浜  市モ、本村二於テハ死者及潰倒家屋焼失家屋等ナカリキ
  九月六日 戒厳令、此ノ大火災ヲ利用シ社会主義者及不逞鮮人等ハ東京横浜横須賀等ノ大都市へ火ヲ付ケ暴行を働キ、為メニ東京神奈川   千葉ノ三府県下戒厳令ヲ施カレテ軍隊二於テ警戒スルコト、ナレリ(市史編さん室文書四六)

戒厳令の布告
 第一次大戦後の社会運動の高揚に対し、内務省は社会主義者などを要視察人とし、日頃から特別な監視下に置いていた。大地震によって交通・通信が途絶し、社会機能が麻痺する中でこれらの「主義者」が虐げられている人々を扇動して暴動を起こすことを恐れたのである。都市においても農村においても定住する人々は、地縁的な繋がりの下で生活し、また日露戦争後に形成された青年団や在郷軍人会、警察の下部組織的な役割を持つ保安組合などに組織化されており、そう心配することはなかった。主義者や陰謀家の扇動の対象として恐れられたのは、工事現場に飯場などを形成して移動する労働者や、各地を移動する商人などの人々だった。さらに、大戦後関東地方にも急速に増えた朝鮮人労働者は、飯場などで働き民族的な差別に苦しめられていた。また民衆の中においても、日本の植民地になった朝鮮人や、日清戦争の敗戦以後、列強に蹂躙されている中国人を差別する意識も強くなっていた。

 警察と軍は地震発生直後から秩序雑持の準備を始め、千葉県習志野に本部を置く騎兵聯隊に帝都の治安維持のために出動することが命じられた。出所の定かでない流言蜚語が二日の朝から飛ぴ交い始めた。「朝鮮人が暴動を起こした」という流言の伝播を追った研究によれぱ、噂は権力中枢の周辺地域から始まっているともいわれている。このような事態に対処するため、戒厳令が九月二日に東京市、三日には東京府と神奈川県に公布され、軍が治安維持に責任を持つ体制が築かれていく。

 こうした噂は市域にも直ちに伝わってきた。炎上する東京の煙が漂い、多くの人々が水戸街道を通って避難してきた。東京・横浜近辺のどの地城においても、治安維持のために在郷軍人会や青年団、さらには大字や小字毎に組織されていた多くの人々が警戒のために動員された。松戸署管内においては丁度この頃、大字を単位とする保安組合の組織化が進みつつあった。それは「日常起リ易キ各種ノ損害二対シ隣保相団結シ関係官公署団体組合等ト連絡ラ保チ、之ヲ未然二防止シ組合内ノ安全ヲ期スル」ことを目的にし、安全当番を決め、災害防止、救護、犯罪予防、悪習弊風の芟除など、「松戸警察署管内保安組合又ハ土村保安組合ヨリ指示セラレタル事項」を行うとされている(酒井根区有文書二七)。この保安組合規約の施行日が大震災の当日であった。保安組合という名称で活動した形跡は見られないが、在郷軍人会・青年団は、村境に立ち番を立てて不審人物の往来を監視し、余震が続く中、不安な夜を送っている村の中を巡回した。

 福田村・田中村の事件
 流言に惑わされた民衆から襲撃を受けるようになった朝鮮人.中国人保護のため、戒厳司令部は習志野の兵舎に一時的に収容することを決め、東京・千葉の各地に散在する人々を移送し始める。土村にも北総鉄道建設の労働者として朝鮮人がいた。九月六日、村長は各区長・在郷軍人分会長・同班長・青年団各分団長宛て、「本村在留の朝鮮人の取締まりに関しては地方民の安定を計らしむ為め、目下千葉町に開設中なる収容所へ両三日中に軍隊引率の下に収容可相成旨昨夜松戸警察署よりの電話通牒に接し」との報告を行い、八日には習志野収容所への移送を完了し、同日「警察官署の委託と本村自衛との方面に於て昼夜眠食を忘れて偉大なる効績を挙けられ、為めに一昨夜以来平穏の域に達し?村民の安堵を得せしめたるは各位の指導の宜しきと部下一同の協力の賜に外ならさること、確信」と、「朝鮮人警戒に関する件」という感謝を表する文書を村内関係者宛てに提出した(酒井根区有文書一七三)。

 しかし、習志野の兵営に収容された朝鮮人・中国人の生命が保証された訳ではなかった。何十人もの人々が収容所から軍隊の手によって連れ出され、付近の住民によって試し切りに等しい方法で殺されているのである。
 当地城において悲劇が生じたのは九月六日のことである。その事情は次の通りである。
  福田村二於テモ十五人ノ鮮人入リ来ルヲ認め種々調査シ検見スルニ言語不明ニテ野田分署ヨリ部長来リタル時已二八人ヲ殺害シタルニ依リ  其八人ハ福田村ノ人ニテ殺シタリ、他ノ一人ハ利根川ヲ流レテ茨城県下ノ対岸二渉リタルヲ、田中村ノ人船二乗リ福田村三堀下ヨリ出発シ其   一人ヲ殺シタルモノ

 自警団を組織して警戒していた福田村を、男女一五人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する。警官がやってきたときには七人がすでに殺害され、一人は利根川に飛ぴ込んで逃れようとしたが、騒ぎを聞き付けた田中村の自警団が船で追い掛け、その一人も殺害したというのである。残された人々から事情を聴取すると、彼らは香川県人の売薬商人であることがはっきりした。言葉の行き違いもあったのだろうが、異常な事態に興奮し、ことあらぱと待ち構えていたとしか考えられない。

 各地でこうした事態が発生し、直接手を下した人々は逮捕され、公判に付された。この事件にかかわって田中村の四人、福田村の四人、計八人が逮捕された。田中村は同年一〇月二日に村会議員・各区長・各団体長を招集し、この事件への対処方法を協議する。会議においては、隣村まで追い掛けていったことを問題にする意見も強く、弁護料として出すことはできないが、「役場に於てか又は公共団体の如き団長より命令の元に行動したるならぱ止むを得ざる故」と、小金町の場合を参照して四人に対し三五〇円の見舞い金を戸数割りによって徴収し、支給することとなった(平川?仁家分署五、「???」対象一三年五月一日)。
 九月六日、市域にも戒厳令が施行される。一〇日からは土村役場に習志野騎兵第一三聯隊の機関銃隊が常駐することになり、自警団員の武器や凶器の所持、通行人に対する誰何や検問は禁止され、治安維持の役割は軍隊と警察に限定されることになった。

 治安状態が落ち着きを取り戻しつつあった九日付けの、千葉県警備隊司令部の「主義者及不逞鮮人に就いて」というピラは、讐察や軍隊、自警団による当初のこれらの人々に対する弾圧について次のように途べている。朝鮮人が騒乱を計画しているということは「前報の通り依然事実ではない」と否定しつつも、「唯人心の動揺を好機とし主義者及不逞の鮮人が巧に鮮人を煽動使嗾するので、処々に放火掠奪等の兇行も演せられ自警に任する人々と衝突し終に流血の不幸を見たる処もあり」と、朝鮮人に対する一方的な襲撃や社会主義者に対する弾圧を「衝突」と表現して糊塗しようとしていた(三上信次郎家分署一九)。
 市域の人々は落ち着きを取り戻してくると、東京の避難民に対する衣服類の援助や避難して来た人々の救助に力を注いだ。家屋の倒壊・焼失によって、酒井根地区に避難してきた人の数は、九月二一日に四〇人に達し、うち一一人は土村に本籍を持つ人であるという報告がなされている(酒井根区有文書一七三)。

虐殺された朝鮮人数(関東地方)
神奈川 3,999
東京 1,781
埼玉 488
千葉 329
群馬 34
栃木 8
茨城 5
合計 6,644
千葉県内訳
船橋 37
法殿村(法典村)、塚田村 60
南行徳 3
流山 1
佐原 7
馬橋 3
千葉市 37
成田 27
波川(滑川) 2
我孫子 3
馬橋 3
9月6日頃習志野軍人営廠 13
千葉県下 133
千葉県計 329