行動の記録(06年8月)
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   被爆61周年戦争をとめよう!
 
8・6ヒロシマ大行動(&関連行動)
 場所:広島県立総合体育館(小アリーナ)
 主催:
戦争をとめよう!8.6ヒロシマ大行動実行委員会

 8月6日,今年で第8回目の『8・6ヒロシマ大行動』が行われ,3000人の人々が結集しました。また,これと前後し,8.6ヒロシマ大行動実行委員会による国際連帯集会,労働者産別交流集会,青年労働者交流集会,学習フィールドワーク(碑巡りと資料館見学コース,軍港呉・大和ミュージアムコース),日韓大学生・若者のワークショップなどの関連行事,および8・6広島−8・9長崎反戦反核闘争全国統一実行委員会による6日当日の祈念式典糾弾・小泉来訪デモ,改憲と核武装阻止!被爆者解放総決起集会などが取り組まれました。
 私は,全部の取り組みに参加するのは日程的にも体力的にもきついので,今年はメーンの8・6ヒロシマ大行動と5日の国際連帯集会に絞りました。二つの集会のあいた時間に,今年は平和記念資料館をじっくり見学することと”9条変えるな!署名”を取り組みました。

○”9条変えるな!署名
 6日の朝は5時頃目をさまし,洗顔などを済ませ宿を出発。途中で朝食をとりながら,ラジオを聴いていると夜明け前から平和公園に人々が集まってきているという。
 早々に平和公園に私も向かう。人々が集まり,原爆展などの様々な取り組みが行われていました。平和を誓う場所にふさわしくないと思う警察官もあちこちに立っていました。祈念式典の場所の周辺にはロープが張られ入場が制限されていました。
 署名取りの場所を探すのも兼ねて公園内をあちこち歩いて見る。結局向こう岸に見える原爆ドーム前の通りが人の流れも多く,いいかなと思い歩いていくと,見かけたことのある人達が既に署名を取り組んでいました。ヨッシーとジュゴンの家のみなさんが,9条変えるな!署名をやっていたのです。心強い仲間がいたので私もそこで一緒にやらせてもらうことにしました。
 その近くを”祈念式典糾弾・小泉来訪デモ”が通ったり,別の一団がビラまきを近くで始めたり,無期懲役で囚われている星野文昭さんの無実を晴らす再審要求署名行動をする”取り戻す会”の人達も隣で署名活動を始めたりとにぎやかでした。

 署名板とビラ(北朝鮮への制裁反対ビラ)を用意し,側を通る人々にお願いしていきました。署名してくれた人には9条変えるな!パンフを勧め,署名用紙も渡して取り組みのお願いをやっていき,用意した10冊のパンフはなくなってしまうとう状況で,カンパも結構集まりました。結局7時半から11時頃までやって80筆の署名をいただくことができました。何人かと討論になったりしたので,80筆という数は集まった方だと思います。
 ちなみに,後で聞いたら近くでやっていたというK県のSさんは通算1000筆に近い署名を集めたという。
 8・6ヒロシマ大行動のデモの時も署名を取り組み,ついに1000筆を突破したという。スゴイ!

平和記念資料館の見学
 5日の国際連帯集会の終了後,引き続き同施設で行われる産別交流集会をパスして,歩いても近い平和記念資料館へと向かいました。5時からの2時間でしたが,学生や年輩の方々,外国から来られた方々で一杯でした。高校生,中学生と思われる子供達がメモを取っている姿もあちこちで見られました。昨年までの駆け足見学と違い,2時間かければゆっくり観ることができましたが,それでもまだ足りないくらいでした。

 広島に投下された原爆は,長さ,約3メートル,重さ約4トンでリトル・ボーイと呼ばれていました。約50キログラムのウラン235が詰められていたとされていますが,このうち1キログラムにも満たないものが瞬間的に核分裂し,高性能爆薬の1万6千トン分に相当するエネルギーを放出しました。
 その内訳は,爆風(衝撃波)が50パーセント,熱線が35パーセント,放射線が15パーセントで,これらが複雑に絡み合って大きな被害を引き起こしました。
 強烈な熱線と爆風は,爆心地から2キロメートル以内にあったほとんどの建物を破壊し,焼き尽くし,放射線による急性障害が一応収まったとされる1945年12月末までに約14万人の尊い命が失われました。 

 平和記念資料館は被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料が展示されており,また,広島の被爆前後の歩みや各時代の状況などについても紹介しています。東館の入り口を入り1階の奥には,被爆前と後の中島地区(平和記念公園)周辺の模型が並んで展示されていて,その近くには原爆ドームの模型があります。

 広島は,江戸時代に城下町として栄え,明治以降は,高等師範学校が開校し学都として,また,陸軍の施設が集中し軍都としても発展していきました。被爆前の模型では,川岸に船が何艘もつながれ城下町の面影を残していました。
 1945年8月6日午前8時15分広島に原子爆弾が投下されました。投下目標のT字型の相生橋から数百メートル離れた島病院の上空600メートルで炸裂し爆心地から2キロメートルにおよぶ市街地の建物が跡形もなく壊され焼き尽くされ,爆風や熱線などによって多くの人々が亡くなりました。被爆後の模型の街は,何カ所か原型をわずかにとどめる広島県産業奨励館(原爆ドーム)などを残し,焼け野原と化していました。

 西館へと進んでいくと,この館では,遺品熱線による被害,爆風による被害,放射線による被害別のコーナに分けて展示して,当日広島に何が起こったのかを伝えています。
 爆発の瞬間,中心は数十万気圧という超高圧となり,空気が大きく膨張し,強烈な爆風が発生しました。その圧力は,爆心地から500メートルの地点で1平方メートルあたり19トンに達するという強大なもので,ほとんどの建物は押しつぶされ,人々も吹き飛ばされました。
 熱線は,爆発の瞬間,爆発点の中心温度は,摂氏百万度を超え巨大な火球が発生しました。火球は1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり,表面温度は5000度に達し,強い放射線が放射され,直下の地表面は3000度から4000度にもなり,あたり一帯を焼き尽くしました。
 放射線による被害は,特に爆心地から1キロメートル以内にいた人は致命的な影響を受け,多くは数日のうちに死亡しました。
 被爆直後から短期間に現れた急性障害は,発熱,吐き気,下痢,出血,脱毛,全身のけだるさなど,様々な症状を引き起こし,多くの人が死亡しました。
 さらに,後障害は2,3年ないし10数年の期間を経て発病するもので,ケロイドや白血病,ガンなどの病気が多くの被爆者を苦しめています。

 当日の11時に撮影したという被爆直後の市内の人々の写真,爆心地から260メートルのところで石段に腰掛けていて,人が腰掛けていた部分だけを黒い影のように残し一瞬にして蒸発してしまったと思われる人影の石,原爆被災者の状況を示すジオラマで,手を前に出し腕から焼けただれた皮膚が垂れ下がっている親子ずれと思われる姿を再現したものなどには何度見てもショックを受けます。見るのもつらいですが,しっかり見ておかなくてはいけないと思いました。

 私にとって,今回で5度目位になる資料館見学ですが,広島に来るたびに寄ってみたい場所の一つです。   (T)  
  (※資料館の展示物に関する記事は,同館に置いてある『案内』を参照して作成しました)

被爆61周年戦争をとめよう!8・6ヒロシマ大行動 の記事はこちら
8・5国際連帯集会 の記事はこちら

  8.6ヒロシマ大行動のホームページへ
  動労千葉HP(集会記事)より
  『街』のHPの写真速報より  8・9ナガサキ 写真速報!はこちら
 
街頭行動 8/6,13(日)   
 場所:千葉市
 主催:とめよう戦争への道!百万人署名運動・ちばいちはら連絡会
 
 この間,8/6(日),13(日)に「9条改憲反対」の署名用紙を手に街頭行動を行いました。

 8/6は8・6ヒロシマに行けない人達で,署名行動を取り組みました。105筆の署名をいただき90枚のビラを配付する事ができました。
 この日は『チャリティー・ライブ・コンサートinちば-こどもの人権 2006-』が千葉市中央公園であり,この会場で取り組みました。コンサートは昨年と同じくらいの規模でした。 (以上,Fさんのお知らせより)

 続く13日は,3人の参加で,46筆の署名をいただくことができ,
北朝鮮制裁反対ビラは200枚近く配付しました。
 「おまえは朝鮮人か(ママ)」と捨てぜりふをはいて去っていく人が1名いましたが,通り過ぎた後に引き返して「チラシを1枚」といって持っていく人がいたり,ビラを見てニコリとして署名をしてくれる人がいたり,信号待ちの間受け取ったビラを読んでいる人が目についたりといった良い反応が結構見受けられました。  (T)
 
 
2006 平和のための戦争展 (8/8(火)〜13(日)   
 場所:木更津市中央公民館大ホール
 主催:平和・人権・教育と文化を考える会
 
 この時期毎年行われている平和のための戦争展」が,今年も8/8(火)〜13(日)木更津市で開催されました。私は,最終日の13日に行ってきました。

 毎年展示されている,地域の15年戦争パネル(約50枚),戦時下の国民生活パネル(約20枚),原爆に関する写真,沖縄戦・基地問題のパネル(約50枚),韓国独立記念館パネル(約20枚),戦争を語る実物資料(約100点),戦争の写真集・本,湾岸戦争下の子どもたち(約30枚)の他,新たな展示物として, @15年戦争下の教育(地域の「学校沿革史」と新聞記事を資料として), A15年戦争とアジア(中国東北部の調査から、731部隊跡、平頂山事件跡など)B沖縄の闘いとして,・阿波根昌鴻さんの闘いの記録,・普天間基地の撤退を求める宜野湾市の取り組み,・名護市辺野古のヘリ基地移設阻止の闘いの記録と訴え,C反戦・非戦の思想として,槇村浩、鶴彬、竹内浩三、長谷川テルの紹介の資料,ケーテ・コルヴィッツの連作「戦争」が加わり,さらにパワーアップしました。

 私はこの戦争展で,私の身近なところにあった軍事施設が,南京大虐殺や重慶大爆撃に直接関わっていたことを知りました。
  「帝都」防衛を重要な任務として,1936年海軍木更津航空隊が開設,41年には第2海軍航空廠が開設されました。
 その海軍木更津航空隊が,1937年8月15日,移動していた長崎県大村基地から中国国民政府の首都南京を爆撃するために出動しました。大村基地と南京の距離は1030キロ。九六式陸上攻撃機(「中攻」という)20機により爆撃が行われました。日本政府は,「支那(ママ)軍の暴戻(ぼうれい)を庸懲(ようちょう)し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとる」(「暴戻」とは「荒々しく道理にもとる」という意味。「庸懲」とは「撃ち懲らしめる」という意味)と声明しました。
 この年7月7日,北京郊外で起きた廬溝橋事件は,たちまち戦火を全中国に拡げていきました。海軍木更津航空隊が九州の鹿屋航空隊とともに,第一連合航空隊(一連空)を編成したのは7月11日,廬溝橋事件の4日後のことでした。
 12月13日には,日本軍は南京を占領,この時あの忌まわしい,捕虜や一般市民に対する大虐殺が行われました。蒋介石の国民政府は,首都を武漢に,そして四川省の奥地重慶にうつして抗日の意思を示しました。

 1939年になると,5月3日重慶爆撃が行われました。中攻40機が重慶を空爆したのです。4日には中攻27機が重慶を攻撃。1940年,日本軍は重慶爆撃を再開。300機の爆撃機,戦闘機による爆撃,新たにつくられた零戦も投入されました。この時焼夷弾が使用されたのです。
 中国軍も必死に応戦しましたが,日本軍は零戦が中国側の戦闘機を攻撃し,中攻などの爆撃機が空襲をおこなうという作戦により,重慶上空の制空権はほぼ日本側に握られるという状況になりました。

 しかし一方,アメリカは日本軍による重慶爆撃の経験を学ぶ中から,対日戦における作戦を用意していきました。
 空爆下の重慶にいた蒋介石の航空顧問・シェンノートは,その体験から都市を攻撃するさいの「焼夷弾の有効性」について提言していきました。
 重慶に対する「無差別爆撃」は,1945年3月の東京大空襲に,さらに広島・長崎への原爆投下につながっていったのです。


 1941年には,海軍航空廠令の制定により,それまでの横須賀海軍航空技術廠木更津出張所を母胎として,木更津航空隊の側の敷地に,第2海軍航空廠の本工場が設置されました。第2海軍航空廠の仕事は,各地におかれた海軍航空隊の造修,補給を任務としており,修理,補給の航空廠としては最大の規模でした。鈴鹿・硫黄島など各地に分工場を持ち,職員は約3万人を要したといいます。
 1944年,「戦力の増強に寄与する」という目的で八重原工場(君津市)が建設されましたが,米軍機による本土空襲が迫り,本工場・八重原両工場の地下への疎開が計画され,佐貫山中(富津市)に大規模なトンネル群が掘られ,地下秘密基地がつくられていきました。
 これらの工場では,日本人の工員,挺身隊員,学徒などが動員され,消耗した,飛行機の整備や修理に明け暮れていきました。国民総動員により動員されていったのです。
 また,両工場や重労働のトンネル掘りなどの土木工事には朝鮮人労働者が仕事をさせられていました。当時日本にいて軍属として「徴用」という名目で強制連行された朝鮮人や朝鮮半島から連行された人達がいました。
 (※以上は,戦争展の展示資料から作成しました)

 
 地域の歴史から,侵略戦争の歴史を学ぶことも大切なことだと感じました。

 1938年から1943年の5年間をかけて中国・重慶において,日本軍は住民抹殺のための無差別爆撃を繰り返していきました。市民たちを爆弾や焼夷弾で虐殺し,また民家や商店を焼き払い,中国民衆の戦争継続の意思を挫く。戦意喪失を狙う。こういう事を意図して行った世界的にも最も初期の段階で敢行された戦略爆撃と呼ばれるものでした。5年におよぶ爆撃の結果,重慶や周辺都市に住む中国の民衆に甚大な爆撃被害をもたらしました。

 爆撃から68年,戦後61年目の本年3月30日,重慶大爆撃の被害者40名が日本に謝罪と賠償を求め,東京地裁に提訴しました。原告の方々は今なお心の傷が癒えないのです。
 裁判の日程も決まりました。第1回は10月25日(水)午後1:30〜3:00,東京地裁103号法廷です(傍聴席約100席)。原告4名が意見陳述,弁護団の訴状陳述が行われます。第2回目の裁判は2007年1月24日となっています。(以上,「重慶大爆撃の被害者と連帯する会・東京」の資料より)
 ぜひ,こちらのご支援もよろしくお願いします。   (T)

  重慶大爆撃の被害者と連帯する会・東京のHPはこちら
  「平和のための戦争展」の様子については,過去のHPの写真を参考にご覧下さい。
  2004年戦争展(平和・人権・教育と文化を考える会HPより)
 
 
 8・15靖国神社包囲デモ(呼びかけ:反戦共同行動委員会) &
  「靖国と改憲」8・15労働者・市民のつどい!

   
(主催戦後50年を問う8・15労働者・市民の集会実行委員会
 
 
  

 8・15 「憲法を活かし、アジアの平和と和解・共生をめざそう
   (主催 平和遺族会全国連絡会)  
 8月15日に小泉首相は靖国神社参拝を強行しました。「カミ」とされた戦死者とA級戦犯に日本の首相が参拝することは,過去の侵略戦争を肯定するばかりか,将来の戦死者を神に祀り上げようとする,再びの戦争を準備する行為です。アジアの民衆から厳しく非難されて当然です。
 憲法9条の改悪と不可分の国民投票法,戦争に反対する一切の運動を取り締まろうとする共謀罪,愛国心を法で強要する教育基本法の改悪が,今秋の臨時国会で強行されようとしています。
 そうした中で,8/15各地で様々な取り組みが行われました。
 早々,記事と写真が届きました。 (T)
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 8/15の靖国神社解体・小泉参拝糾弾デモにいってきました。
 早朝の外堀公園からの糾弾デモには300名が集まり、「小泉の花道にさせるな」「革命起こして戦争とめよう」とボルテージも高く、市谷一週デモに決起。
 解散地点で腰の入らない右翼が近寄ってきたものの、帰れコールで撃滅。
 
 午後からの「改憲・靖国を問う8・15市民の集い」には520名が参加。
 千葉県連絡会や青年労働者の総決起をかちとり、ヒロシマの闘いをひきついて、改憲阻止の闘いへと誓ういい場になりました。
 本当にみんないきいきと闘っています。
 「社会の主人公は労働者」「こんな社会は本当に根本から壊さなければならない」ーこういうフランスみたいな闘いをやろう!-動労千葉・田中委員長からの熱烈アピールです。 W)

   写真集はこちら
  『街』のHPの写真速報より
  日刊動労千葉NO6342(小泉の靖国参拝弾劾)より
  
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 ◎平和遺族会全国連絡会の集会・デモと、「わだつみ会」の水島朝穂さん講演会のレポート

 8月15日(火)敗戦の日。朝から「ついに8・15小泉靖国参拝」の報道で騒然とする中、私は2つの集会に参加してきました。

 午前10時前から、東京・一ツ橋の日本教育会館で行われた「アジアと共に生きる日本を〜2006年8・15集会〜」(平和遺族会全国連絡会主催)。
 まず、同会代表で百万人署名運動の事務局長でもある西川重則さんからの基調報告。「政教分離の原則を政治の場に生かすことこそ、真の追悼ではないか」と述べ、小泉首相の参拝に強い抗議の意思を表明しました。
 各参加者がそれぞれの宗教や信条に基づき、戦争の犠牲者に思いを馳せ、心に刻む「沈黙の時」を経て、憲法と天皇制の問題の研究に取り組む横田耕一さん(九大名誉教授、流経大教授)の講演に移りました。

 横田さんは、憲法の政教分離の意義は何よりも、天皇を宗教とする「天皇教」の阻止にあり、国家と神道の結びつきからの断絶が歴史の流れであると強調。その上で、最近の靖国をめぐる議論の中で、特に麻生外相案(靖国の非宗教法人化・国立施設化)は国家神道の復活であるとして警戒を呼びかけました。
 そして、靖国問題の焦点が「A級戦犯合祀」であるかのような論議の誤りを戒め、「遊就館」に代表される「靖国の思想」そのものが問題であると鋭く指摘されました。

 集会後、靖国通りを通って御茶ノ水までの平和行進です。靖国の鳥居が見える俎板橋交差点ではひときわ声も大きく、「小泉首相の靖国参拝糾弾!」「再び戦没者をつくらせないぞ!」と訴えました。 この平和行進には例年右翼の妨害があり、ある年には右翼団体員が直接デモ参加者に襲いかかることもあったのですが、今年は予想に反して「弱々しい」妨害のみでした。これもまた、小泉靖国参拝という、右翼の思い通りの方向に現実が進んできたことの表れではないでしょうか。

 平和行進解散後、両国の江戸東京博物館で行われた「わだつみ会」の8・15集会に移動。2部構成でしたが、後半の水島朝穂さん(早稲田大学教授)の講演会にのみ参加しました。
 水島さんは、この日の小泉靖国参拝について、「憲法破壊と政治の私物化の悪夢」であり、「犯罪的」と厳しく断罪。これまでの首相に見られたような、憲法と靖国参拝の緊張感を曲がりなりにも意識した、ある種の「誠実さ」すら投げ捨てて、国家主義者ですらない「国家趣味者」のオソマツぶりをさらけ出したものであると喝破しました。
 そして、「権力者に突きつけた命令が憲法」という立憲主義の意義を強調し、「憲法は現実とぶつかってこそ勝ち取られる。市民は怒りを忘れず、批判力を持って闘おう」と、私たちの奮起を促してくれました。

 私個人としても、靖国問題には特別のこだわりがあります。母方の大叔父に当たる人物が、旧海軍特殊潜航艇でオーストラリア艦船への体当たりを試み戦死。「英霊」として靖国に祀られているからです。母方の地元では「お国のために命をささげた郷土の偉人」として讃えられています。そのような中で私は、いろいろな経緯でそれとは違う立場を身につけてきました。靖国問題を考えることは、私が平和運動に関わることになった原点のひとつなのです。
 だからこそ、戦死者を「英霊」と祭り上げて戦争を美化することは耐え難いことですし、ましてや首相が参拝するのは言語道断です。これからも私自身が靖国問題に向き合っていく中で、首相・閣僚・知事らの靖国参拝にどこまでも反対します。それとともに、多くの人々に靖国神社の戦争賛美の本質を知ってほしいと思います。  (R)

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 靖国弾劾行動に参加して(感想)
    (管理人の方で,編集させてもらっています)
 小泉の靖国参拝反対デモに行くかどうか迷っていたが,友人からの誘いがあり,行くことにした。日頃の政治に対するウップンをデモで晴らそうと思ったから。
 デモの出発点近くの駅に降りてみると,ヘリコプターが何機も蠅のようにうるさく飛んでいて,公安刑事がコソコソとメモをしたり写真を撮っていた。ヘリコプターを飛ばしたり公安刑事を雇うお金を税金から出していて,小泉は朝7時45分に靖国参拝強行とのこと。まさに「借金王小泉靖国へ行く」である。

 それに対し,さっそく弾劾集会をやることになった。一人一人の反戦の想いを込めた力強い発言は,胸を打つものであった。韓国の民主労総からも発言があった。
 そして,隊列を整えてデモに出た。小泉の靖国参拝を弾劾し,「年金削って戦争するな」「リストラやって戦争するな」と,分かりやすいリズムに乗ったシュプレヒコールをあげてた。解散地点では,人数が膨れ上がっていた。
 一台の右翼の車が来て,中身のないことを怒鳴ってきたが,「帰れ」コールをあびせると,右翼は,負け惜しみを言ってかえっていった。

 その後の中野ゼロホールの集会では,松元ヒロさんのユーモアで機知に富んだコントがとても楽しく爆笑してしまった。
 その他の方々のユーモアな発言,真剣な発言,元気な発言,思慮深い発言などは,非常にためになる話で,元気が出ました。

 今日一日,就職活動できなかったけど,有意義な一日でした。  (O)
 
街頭行動 8/20(日)   
 場所:千葉市
 主催:とめよう戦争への道!百万人署名運動・ちばいちはら連絡会
 20日は,岡山の野田さんから呼びかけられている“米軍再編どう思う?全国意見投票”を行いました。参加者は,6名。ビラは投票呼びかけビラを300枚用意し,280枚くらい配付することができました。
結果は,投票総数195
     賛成:   15( 8%)
     反対:  139(71%)
     わからない:41(21%)という結果でした。

 全国の集計結果もHPに出ていました。( http://saihen.exblog.jp/
    賛成   反対   わからない
    372   3960  815(計5147)
    (7%)  (77%)  (16%)  
   全国34市町村区の36箇所の街頭で実施

 千葉県議でイラク戦争に反対する市民と議員の会の吉川ひろしさんも駆けつけて下さいました。早速マイクでアピール。
 投票してくれた人は,若い人が多かったですが,働き盛りの人達も結構やってくれていたという印象です。
 自転車で通りかかった小学生の男の子が,ビラをじっくり読んで投票していたのが印象的でした。
 「米軍再編をどう思うか」を考えるきっかけにもなっていたように思います。
 (T)
 

農業委員会闘争 8/11(月)
  場所:成田市内
 主催:三里塚芝山連合空港反対同盟

三里塚・北延伸公聴会粉砕闘争 8/21(月)   
 場所:成田市内
 主催:三里塚芝山連合空港反対同盟
 本日の農業委員会には、全く不当な「耕作権解除申請」は提出されませんでした。初戦の大勝利です。
次は、「8・21公聴会」(AM10:00〜@成田国際文化会館)粉砕を反対同盟と共に!です。 (H)

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 21日、三里塚芝山連合空港反対同盟の呼びかけで、暫定滑走路の北延伸のための公聴会・粉砕闘争が行なわれました。

 来月にも着工という緊迫している情勢の中で、賛成派のオンパレードの公述人で固めて、反対派は唯一「漬け物工場」のH氏のみという公聴会に対し、北原鉱治事務局長は「われわれは公聴会で意見を聞いてくれとか、お願いするということはしない。それが40年間闘ってきている秘訣なんだ」と語り、「公聴会粉砕」こそがわれわれの回答であることを突きつけました。
 全力で結集を!  (W)
 
街頭行動 8/25(金)   
 場所:習志野市津田沼駅頭
 主催:千葉青年交流会
 千葉青年交流会の呼びかけで、25日に津田沼で街宣をやりました。
 9人で2時間で109筆と言う大量の署名をゲットしました。

 安倍政権の誕生?といわれていることに、多くの人が危機感を燃やしているのです。とくに高校生、中学生や高齢者の反応がものすごくいいです。
 また21歳のフリーターが署名に応じてくれて、その後、一緒に署名とりに協力してくれた後に、交流会まで来てくれました。街頭にはすばらしい人が私たちの出番を待っています。 (W)
     写真集はこちら
 
街頭行動 8/27(日)   
 場所:千葉市
 主催:とめよう戦争への道!百万人署名運動・ちばいちはら連絡会
 27日は,「9条改憲反対」の街頭行動を行いました。6人の参加で,100筆の署名をいただき,9条ビラ,北朝鮮制裁反対ビラはそれぞれ100枚位配付しました。
 先週のシール投票の時より反応は良くない。シールを貼るだけという行動に較べて署名するという行動は,抵抗があるようです。それでも確実にやってくれる人はいるということです。
 
 今回,1カ月前に突如やって来て,「来週もやるんですね。来週も来ますからね」と慇懃に言っていた右翼が,1カ月遅れで現れました。
 前回は1台の街宣車でしたが,今回は署名を始めると早速4台でやって来て,周辺を何回か回ってきながら約1時間に渡ってマイクでがなり立てていきました。前回は慇懃な語り口だったのが,いつもの右翼の口調になっていました。交差点の中を他の車の迷惑も顧みずにうろついたり,私たちの方に街宣車を突っ込んでくる格好をしたりして,さかんに脅しをかけてきました。
 「ミサイルが飛んできたら,日本をどうやって守るんだ」「日本を北朝鮮に売り渡す日本共産党を粉砕せよ!」「日の丸・君が代を否定するとんでもない連中だ」「日本共産党は拉致の手先だ」「赤は出て行け!」「憲法改正」などと言ったことをがなり立てていました。
 
 前回は「千葉市原連絡会のみなさん」と「丁寧」にいっていた右翼は,今回は私たちのことを「日本共産党」と言ってきました。百万人署名運動を共産党と言われたら共産党は困るんでしょうが,右翼にとっては“日の丸・君が代反対”“憲法改悪反対”する戦争反対勢力は「共産党」「赤」としてしまう方が手っ取り早いのかもしれません。
 
 また,この日は刑事が張り付いてきました。数えただけでも10名近くいました。署名開始前に道路の向こう側に不審な一団がたむろしていて,署名を始めるのを見図ったかのように右翼がきたので,彼らはてっきり右翼の一味かと見ていました。彼らは私たちの周囲を取り囲むように立ってきました。しかし,近くに迫ってきても私たちに対して手出しはしてこないし,右翼の顔とはちょっと違う感じ(もっとも,東京の集会だと必ずと言っていいほど見かける,参加者にカメラを向け,メモをとる「熱心な追っかけ隊」の一団の場合は,右翼との区別がつきませんが)なので変だなとも考えましたが,たまたま通りかかった解雇攻撃と闘う教育労働者が,「見た顔がいる」,刑事だと言うのです。それでガッテンしました。
 
 私たちは誰一人負けない気持ちで署名を集めていきました。いつもと遜色のない100筆の署名をいただくことができました。先方から署名をやってくれる人が何人もいたり,「頑張ってください」と声をかけてくれる人がいたり多くの方から勇気をいただきました。   (T)
 
 
街頭行動 8/29(火)   
 場所:松戸駅頭
 主催:千葉青年交流会
 29日(火)に、青年労働者で松戸で街宣を行ないました。
 松戸では本当に久しぶりの街宣でしたが、4人で1時間で29筆をゲット。座っている若者にどんどんはなしかけると、関心を寄せてくれて、署名をしてくれました。

 また、この日は新しいトラメガの初使用と、順番にリレートークをおこないました。機材も人もどんどん「更新」して、がんばっていきましょう。
  (W)
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