投稿欄(07年)
都知事選の結果について考えたこと 07年4月12日(木)
 4月8日(日)投・開票の統一地方選で、私たち憲法改悪反対・平和を求める立場から見て、大変厳しい結果が示されました。

 千葉県議選では、「無所属市民の会」の吉川ひろし候補が柏市区で高位当選を飾りましたが、社民党は3議席から1議席への惨敗で村上克子県連代表も議席を失い、市民ネットも2議席は維持したものの、山本友子代表が落選という結果に終わりました。共産党も前回失った議席の回復はなりませんでした。

 そして何と言っても、東京都知事選で石原慎太郎氏が圧倒的得票で3選されたことです。私は浅野史郎さんを支持し、浅野さんの出馬を求める運動から参加した立場であることをあらかじめおことわりし、吉田万三候補を支持した人々、あるいはどちらも支持できなかった人々の立場も尊重するものですが、「改革派知事」としての実績を引っ提げ、都政変革への情熱をかけて選挙を闘った浅野さんをもってしても、少なくとも得票数の面において、石原知事の足元にも及ばなかったことに、愕然とする思いです。

 そもそも今回の知事選では、石原氏が首都東京の「知事」として果たして適任なのかどうかが問われなければなりませんでした。
 私は、平和と民主主義を敵視し、「日の丸・君が代」を強制し、「三国人発言」「ババア発言」などの平気で人格や誇りを傷つけるような言動を繰り返し行い、都政を私物化する石原知事は、断じて「知事」たるにふさわしい人物ではないと思ってきました。平和や民主主義を大切に思う人々、またそのために活動する人々にとって、これは当然のごとく共通認識であったはずです。そこで、私を含む多くの人々が浅野さんに「石原都政はもう勘弁してほしい、という悲鳴のような声」を届け、浅野さんのハートに火をつけ、そして選挙戦で浅野さんは、そのことを都民に力強く訴えかけました。

 しかし、私たちの「常識」は、多くの都民にとっての「常識」ではありませんでした。得票結果が、それを冷厳に指し示しています。

 さまざまな報道のなかで、浅野陣営の「戦術ミス」・・・政党との連携のまずさ、五輪招致や築地市場移転問題での姿勢の「ブレ」等々・・・が敗因として挙げられています。しかし、問題はあくまで、石原都政の継続を許すかどうかだったはずです。はなはだ不十分とは言え、石原氏の粗暴な言動や都政のさまざまな問題が報じられていた。そうであってもなお、圧倒的多数の都民は「石原」という選択をした。その意味するところは、石原都政のもとでさまざまな困難を強いられている人々がいたとしても、自分には関係ない、強い者についていけばそれでいい、という意思表示だったのでしょうか。だとすれば、そうした人々への「共感共苦」「想像力」の絶望的な欠如を思わずにはいられません。

 石原を絶対に倒したいという私たちと、多くの都民との間の意識の「落差」。これは、私たちがいま取り組んでいる改憲阻止闘争にもそのまま、暗い影を投げかけているように思います。すなわち、粗暴な言動や都政の私物化がいいとは思わないが、それがそのまま反石原の投票行動に結びつかなかったのと同様、憲法改悪や戦争について「聞かれれば反対」。かと言って積極的に反対の態度や行動をとることもないのではないか、ということです。ここに、改憲は何としても阻止したい私たちと、多くの一般大衆の意識の「落差」が浮き彫りになってきます。

 そうだとすれば、私たちはよほど覚悟も新たに、この社会の「空気」と向き合うことを考えなければならないと思います。運動の世界でしばしば聞かれる「左翼業界用語」や、現実離れした「歯の浮くような物言い」を改め、多くの人々に真に届く言葉を探し、“自分自身の言葉として”改憲反対・平和を訴えかけていかなくては、今の情勢を動かすことはできないでしょう。これは、日々運動に携わる私自身への問いかけでもあります。その意味で、今回の都知事選の結果を、苦みをもって噛みしめたいと思います。

 何より浅野さんには、私たちの声を正面から受け止めて闘ってくれたことに感謝します。浅野さんは選挙戦で、「日の丸・君が代」の強制に苦しむ教職員、いわゆる「風俗嬢」のようなセックスワーカーやゲイ・レズビアンなどの性的少数者、「障害」を持つ人々、「有害」表現の規制と闘うマンガ家等々・・・石原都政に徹底的に痛めつけられてきた人々と出会い、「アサノと共に勝って未来を切り拓こう」という希望の光を当ててくれました。そして、さまざまな場で勝手連が立ち上がり、生まれてはじめてポスターを貼った、生まれてはじめて選挙ビラを配った、という形で主体的に選挙に関わろうという市民があちこちに現れました。
 「当選」という果実を得ることは叶いませんでしたが、この足跡だけを見ても大きな意義のあることだったし、今後につながるものとして生きてくる、否、生かさなければならないと、強く強く思いました。  (R)
 
映画「それでもボクはやってない」鑑賞記 07年2月10日(土)
 2月某日、都内の映画館で現在好評公開中の映画「それでもボクはやってない」(周防正行監督)を鑑賞してきました。「Shall We ダンス?」以来11年ぶりの周防作品ということでも話題を集めていますが、この映画の主題は何と言っても、痴漢冤罪事件を通して見たこの国の警察、司法(加えて、それを受け止める一般大衆自身)のあり方への鋭い告発です。

 警察のズサンな捜査、「否認」を貫けば長期拘束、「推定無罪」の原則などどこ吹く風、という司法を取り巻く憲法違反、人権無視の現実に加え、被告人宅への家宅捜索で「痴漢モノ」のエロDVDや「セーラー服モノ」のエロ本が出てきたことをもって「被告人に犯罪の性癖あり」とみなして「有罪」の状況証拠にする偏見・決め付け。これらがすべて密接に絡み合ったところに冤罪が生まれることを訴える、周防監督のまさに直球勝負の作品です。

 上記の問題もさることながら、私が特に感じたことは、よく言われるところの「被害者の人権重視」の流れを変えるきっかけに、この映画が少しでも寄与することになればいいな、という思いを強くしたこと。劇中でも、「被害者」の女子中学生の、細部を詰めていけば記憶のあやふやさが浮き彫りになる証言が「弱冠15歳の少女の勇気ある訴え」「被告人とは利害関係なく、証言は詳細で具体的」などとされ、有罪判決の根拠にされています。この少女は、将来被告人が無実であるという事実を知ることになったとき、痴漢「被害」と冤罪「加害」という二重の「傷」を抱えて生きていかなければならない。何ともやりきれない話ではないかと思います。犯罪被害者やその遺族が検察官と並んで刑事裁判に参加し、被告人への質問や「求刑」までもができるようになる制度が新設されようとしていますが、裁判員制度ともあいまって、こうした不幸を多発させる温床になる、お互いにとっていいことは何もない、と言わなければなりません。

 「被害者の人権重視」と言えば聞こえはいいのですが、それが実際のところは「何で加害者の人権ばかり尊重されるの?」みたいな単純素朴な一般的感覚と結びついて、厳罰化や「推定有罪」、被疑者・被告人の権利縮小の動きに拍車をかけているのが現実だと思います。言い換えれば、「被害者の人権重視」とか「被害者への共感」なるものは、「推定無罪」の大原則への無知・無理解の上に成り立っている流れであると断言できます。当然ながら、権力の囚われの身となった被疑者が自らを防御する最後の砦として機能するものこそが「人権」。これは、「被害者」やそれに「共感」する多数派の世論などによって奪われることが決してあってはならないものです。「被害者の人権」と「被疑者・被告人の人権」は天秤にかけられるような性質のものではないことを、「被害者」も世論も、そして何よりも司法が理解すべきなのです。

 犯罪の「被害」を受けた事実は重いものであるにしても、「被害者」の主張が常に正しく、尊重すべきものとは言えません。「被害者感情」のみを突出させて憲法の精神に反する主張を繰り返し、世論に影響力を及ぼしている事例・・・例えば、少年法制の厳罰化を叫ぶ「光市母子殺人事件」の遺族や、北朝鮮による拉致問題の「解決」のために経済制裁をと訴え続けた「拉致被害者家族」・・・に対しては、世論を敵に回すことを覚悟の上で、「憲法」と「人権」の立場から冷徹なる批判の目を向けていかなければならないと思います。

 この作品自体への評価はさまざまな映画評に譲りますが、エンタテインメントの手法を用いた中に社会的なメッセージを的確に織り込んだという点で、井筒和幸監督の「パッチギ!」に共通するものがあり、なかなか示唆に富むものであると思います。また、90年代前半にアイドルとして活躍した瀬戸朝香さん(主人公の弁護士役)や鈴木蘭々さん(主人公の元彼女役)が、中堅女優としてなかなかいい味を出してきているなと感じました。  (R)

  「それでもボクはやってない」公式サイト
     ⇒http://www.soreboku.jp/index.html

  マガジン9条/伊藤真のけんぽう手習い塾「刑事裁判と被害者」
     ⇒http://www.magazine9.jp/juku/bk_index.html の第19・20回参照