サムライ7 島田カンベエ、 ドリフターズ 信長・豊久・与一 ファンサイト

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いとまごい 改

 時は、30年に及ぶ大戦が終わった頃。

 大戦以前、世の中はこの世の最高権威である帝と貴族たちからなる朝廷によって治められていた。

 しかし突然の帝の崩御により、帝位を巡って貴族たちは分裂し、戦となった。

 戦はやがて各地に飛び火して大戦となり、世の中はひどく乱れた。

 その中で存在を増したのが武士である。

 武士とは武芸に長け、戦働きを本分とする者たちのことをいう。

 大戦以前、帝を守るために武装した貴族たちを除いて、武士は粗野で野蛮といわれ、貴族の荘園警護などに使われる身分の低い者たちだった。それが、戦で大いに働き、さらには大戦を終結させたのである。

 戦に勝利した権力者たちは武士勢力を支配下に取り込むべく官位を与え、中には昇殿を許される者も現れて、武士の勢力はいや増すことになった。

 武士は大抵、棟梁家を中心として家族が集まり一門を構えるが、武士の中でも超振動という技を使う「侍」は、一門に属さずに有名貴族や武家に雇われて働く者たちも少なくはなく、身辺警護や勢力維持に重宝された。

 

 

 島田カンベエはそんな雇われ働きをする侍である。

 武州といわれる東方の地で勢力を誇る武家の棟梁家に生まれたが、生まれてすぐに母が亡くなり、掴まり立ちする頃に戦で父親を失って親類の元で育てられた。幼年の頃から剣の才能を表し、十四の歳には超振動を使いこなして十五になると跡目争いを嫌って家出し、戦場働きをするようになった。

 成人して戦艦墜としの武名をあげ、壮年となると戦略・戦術にも通じて軍師としても名をあげた。しかしどんなに望まれても一つ処に腰を落ち着けることなく、先頃も西国一の有力武家に雇われ、一門に加わるよう望まれながら、契約を解消して虹雅峡に戻ろうとしている。

 虹雅峡は砂漠の中にある階層都市だ。

 大戦以前は地方の小さな町に過ぎなかったが、大戦が勃発すると道路が整備され、陸上輸送の要所となった。軍の施設も建設されて街は大きく豊かになったが、その代わりに戦に巻き込まれ、周辺が砂漠化するほどの攻撃を受けた。

 だが自然の渓谷を利用した階層部分、民間人の多くが住んでいたエリアは奇跡のように損壊を免れ、周辺の町から住人たちが逃げ込み、とりわけ多くの商人達が移住してきたことから、大戦が終結するとすぐに商いが再会し、街は復興していったのだった。

 やがて商人たちは組合を作り、組合の中で選出された者が街の差配となって、虹雅峡は商人の街となった。

 そんな虹雅峡にカンベエは居を構えていた。帰ってくるのは年に数度。数日から数十日程度滞在して戦場に戻って行く。次の雇い主が決まる間は長く滞在することがあるが、それも2ヵ月以上となったことはない。それでも故郷を捨てたカンベエにとっては帰ることができる場所だったのだが、近ごろは商人の街となった虹雅峡に息苦しさを感じないこともない。

 大戦終結から5年。

 復興目覚ましい虹雅峡は帰る度に風景を変えている。

 しかし今、カンベエが砂埃舞う中で見る虹雅峡は、まるで砂漠遺跡のようだった。周囲に散らばっている戦の残骸がそれを助長している。墜落した駆逐艦、機能停止した雷電、紅蜘蛛などの機械の侍、原型を留めていない斬艦刀・・・。それらは風雨に晒されて、錆び付き、朽ち果て、奇妙なオブジェとなっている。

 カンベエが虹雅峡にやってきた頃は、虹雅峡は草原の中にあり、周囲にも森もあった。渓谷に流れる川が都市の水を支え、渓谷内の洞窟には地下湖もある自然が豊かなところだった。周囲が砂漠化しても、虹雅峡の水源が枯れることがなかったために街は発展を続けているが、今の景色はその頃とあまりに違う。

 カンベエが通り抜けたオブジェも身を二つにされた巨大な手を持つ機械の侍・紅蜘蛛だが、表面に僅かに残った紅い塗装でそれと分かるだけで、虹雅峡に入るときの道標となっている。ここから虹雅峡は丁度一里。

 虹雅峡に続く道路では出入りする車がひっきりなしに往来していて、大型の輸送車が巻き起こした風は少し離れたところにいるカンベエのフードを煽った。

 こぼれた灰色の髪は緩く波打ち、胸にかかるほどに長い。

 長い髪を結いもせず、背に垂らしているのは奇異だが、不思議とカンベエには似合っていた。

 カンベエは髪の毛を後ろにかきあげ、フードを被り直し、虹雅峡に向かって歩いた。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 シチロージは白磁の皮膚に光に輝く淡い金糸の髪と薄い蒼色の瞳を持つ秀麗な顔立ちの青年だった。父親は一代で財を築き、虹雅峡の中でも名に負う商人のアヤマロ。

 となれば人が追従し、媚び諂う理由は十分。シチロージの周りには常に人がいて、気を引こうと競い合っていた。

 シチロージも煽てられるままに遊び、欲望のおもむくままにありとあらゆる快楽を極め、そして齢26にしてすでに人生に厭いている。

 美しい瞳は倦怠のために輝きを失ってガラス玉のようであり、表情には常に憂いが含まれ、白皙の顔は不健康に青白い。しかしそれが退廃的な妖しさを漂わせて、より女達を引き寄せているのは皮肉といえた。

 今日もまた意味のない祝杯をあげ、下品な会話や歌に渇いた笑い声をあげている。側に侍る女たちはみな美しい顔や体を持っていたが慎みや貞淑をどこかに忘れて生まれてきたような、享楽だけを求める女たちだった。10代だといっているが、豊かな胸に肉が乗った太腿と尻は成熟しきって女のものだ。その体をくねらせ、濡れた瞳と唇で媚びる様子は脂がのった年増女のそれであり、不摂生で放縦な生活により、やがて美しい顔と体が失われるだろう危うさを漂わせている。

 その女たちに取り巻きどもと共にひとしきり戯れ後、寝落ちした女たち間に埋もれたシチロージは、寝息と歯ぎしりを聞きながら、このような生活を続けていれば、やがて女達から不名誉な病気を移されるか、酒と薬で身を持ち崩し、見苦しい姿をさらすことになるだろうと考えた。

 自分の胸から腹部にかけてそっと手を滑らせると、指先に感じる肉は弾力がなくただ柔らかい。その感触に、シチロージは腹の肉が邪魔で人の手を借りなければ立って小用を足すことができない父親の姿を自分に置き換えてぞっとした。

 大戦が終わって5年の月日が流れ、武家が今までにない高位の官位と領地を得て勢力を増す一方で、絶大な権力を持ち、絶対の存在と思われていた朝廷の威光には陰りが見えつつある。

 今までの価値観が崩壊、または変転する変遷推移の時というのは人を狂気に走らせ、刹那に生きることをさせる。とりわけ足が地についていない若者は、その狂気にあてられたように無軌道になりがちである。

 だが、シチロージがそうした若者達と同じように時代の狂気に捕らわれて刹那の快楽を求めるようになったというと少し違う。

 これでも以前は、侍として戦場に立つことを望んで修練に励んでいた。シチロージの得意は槍で、職人に朱色の仕掛け槍を特別に作らせたほどである。

 だが、侍として生きたいというシチロージの望みは父アヤマロによって適わなかった。

 シチロージの父であるアヤマロは、有力武家の嫡子に生まれながら虚弱で、侍の力は言うに及ばず、武芸一切が苦手。一度として戦場にたったことはない男だった。だが、代わりに商才に恵まれ、家は弟に譲って、蓄電筒の商いで成功し巨大な財産を築いた。

 そのアヤマロが、自分が稼ぎ出した金が死んだのちに他人の手に渡ったり、ましてや自分が捨てた家にすべて持っていかれることを惜しんで金で買った町人娘に産ませた子がシチロージだった。

 ―――自分の血を引いた子供に財産を継がせるならまだ我慢ができる

 シチロージはそう望まれて産まれ、不自由というものを知らず、貴族にも劣らぬ教育を受けて育った。

 稚児趣味の男色家であるアヤマロが苦行の末に得た子であるから、アヤマロもシチロージに対してそれなりの愛情は持っていたのだろう。陰間茶屋通いがシチロージにばれぬように気を使い、シチロージも世間一般の子供と同じように父親を慕っていた。

 それが、あるときを境にしてアヤマロのシチロージに対する感情は、微妙な歪みを見せ始めたのだった。

 シチロージは幼年の頃から武芸を学ばされていた。健康のためであるから手習い程度のものである。ところが、そのうち武芸が面白くなって打ち込むようになり、めきめきと腕を上げていった。

 そして14歳のとき。すでに余るほど与えられていた金を使ってあつらえた朱色の仕掛け槍を父親に見せようと目の前で庭の巨岩に槍を振るったところ、巨岩がいとも簡単に砕けたのだった。

 それは侍のみが使いうる、超振動だった。

 シチロージは父親お気に入りの庭を台無しにしたことを叱られるよりも、侍の力が顕現したことに驚き、そして嬉しかった。

 武家に生まれながらその力を示すことが出来なかったアヤマロは、一門からは出来損ないと疎まれている。商人として成功した後も、いや、むしろ成功したためになおさら武家の家に生まれながら卑しい商人風情に身を堕としたと軽蔑されており、そして商売敵からは武家の出というその出自を怪しまれていた。

 その辺の事情や噂はシチロージも知っている。だからこそ超振動を発動できたことが嬉しかった。

 『父上には武家の血が流れているっ!』

 それを自分が証明した! 当然、父は喜んでくれるはず。

 そう思って父親を振り返ったシチロージが見たのは、信じられないモノを見るような父親の目だった。

 あのときの父親の顔をシチロージは今でもよく覚えている。

 結局、アヤマロは庭石を破壊したことを咎めることもなく、シチロージに一言も言葉をかけずに背を向けた。

 当時、シチロージは庭を台無しにされたために父親が怒っていると思っていた。だから父親が雷を落としてきたら、庭を台無しにしたことを謝ろうと思っていた。だが、いつまで経っても父親から雷が落ちることはなく、シチロージも謝る機会を得なかった。

 だが、あるとき、父親に呼ばれ商人の息子には侍の力は不要といわれ、武芸を禁止された。武芸のせいで商いの勉強に身が入っていないと怒られたのだ。

 武芸の稽古の夢中になれば、当然、商いの勉強の時間は減る。その通りであったから、シチロージは勉学に励んだ。父親が怒っているのは勉学を疎かにしていたためと思ったからだ。そして鍛錬もこっそり続けていた。

 シチロージは自分の侍の力自体が憎まれ、疎まれているとは思っていなかったのだ。

 だが、その頃からだ。

 父親から役者を紹介されたり、色里での遊びを教えられたり、金持ち達が集う特別な会合に連れていかれるようになったのは。

 シチロージは早熟で、12のときから女中相手にすでに経験があった。シチロージより5つほど年上の女中は、シチロージの童貞を切ったことで自分のものとでも思っていたのか、その後も何度もシチロージの褥に忍んできていた。シチロージも射精の気持ち良さはあったから、女中を咎めることもしなかった。

 そのため、そろそろ遊びも知らなくてはといって癒しの里に連れていかれたときも、特に慌てることも照れることもなく、女中とするのとどう違うのだろうと思ったくらいだった。

 最下層にある癒しの里と呼ばれる色里でけばけばしい装飾の店に揚がると、シチロージには2人の女郎が用意された。美貌と教養を兼ね備えた太夫ではなく、金を払えばすぐに寝ることができる女達である。女達は恥じらうことなく全裸になるとシチロージにのりかかってきた。そしてシチロージは口を吸われ、性器を口に含まれて翻弄された。女の口の中に放逐した後はよく覚えていない。気が付けば囃し立てられるまま、すでに一人前の形をしている男根を女陰に突き立て腰を振っていた。女達は尻穴でもシチロージを受け入れてみせ狂ったように嬌声をあげた。

 癒しの里でのそれはシチロージの知っていた色事とは異なり、今までの色事が単なるじゃれ合い、であったと思わせるほど、強烈な快楽だった。

 その衝撃の余韻が消えないうちに秘密の会合に連れて行かれた。秘密の会合は表向きは狂歌の会を装っていたがその実、好色家の集まりで、商人だけでなく、武家や貴族などもいた。父親の稚児趣味を知ったのもそこだった。

 そこで行われるのは、世間一般には特殊な趣向といわれることばかり。あるときなどは法要を行うといって寺を訪れるとそこには供物といって少年や少女、見事な肉体を持つ男たちが全裸で縛られて、本堂に転がされたり、上から吊られていた。出席者たちは代わる代わる供物を犯し、最初こそ抗いをみせていた供物たちもやがて自ら腰を振り、奉仕する様を見ているうちにシチロージもまた異常な高揚感を覚えて気づいたら年増女を後ろから責め立てていた。

 女歌舞伎の太夫を紹介され、人払いした楽屋で舞台衣装のままで尻だけを突き出した太夫に誘われるまま、使い込まれた女陰に男根を突き立てたこともある。

 成熟する前の感性への強い刺激は麻薬に等しい。

 異常な体験ばかりを続けているうちにシチロージの感覚は麻痺し、誘われるまま、薦められるまま、何の疑問も持たずに快楽を求めるようになっていった。

 

 だがシチロージの生活は、一人の侍との再会によって一変した。

 望んで快楽に溺れていたわけではない―――。いや、思えば、何か薬でも使われていたのかもしれない。ともかく、一度誘いを断ると、それからは目が醒めたように、シチロージは再び、侍になるべく鍛錬を始めたのだった。

 爛れた生活もシチロージの侍の力を衰えさせることはなかった。

 鍛錬すればするほど溜まった膿が出ていき、体だけでなく心も清められていくような気がして、シチロージは体を痛めかねないほどに鍛錬を重ねた。

 鍛錬すれば腕も上がり、腕が上がればそれだけ面白くなっていく。シチロージは侍となり、戦場に立つことを夢見るようになった。

 だがそれは家を捨てるということだ。

 そこに考えが至り、シチロージははっとした。

 そしてシチロージが超振動を使って見せた父親の顔、目の色、そしてシチロージに色事を教えた父親の意図も腑に落ちた。

 『父上はわざわざ町人の娘を買って産ませた子に、まさか侍の力があるなど思ってもいなかったんだ。そうまでして生ませたあたしを侍にさせないために遊びを教えたに違いない』

 シチロージを色欲に溺れさせたのは、侍の力を削ぐためだったに違いない。侍といえど、力の維持には鍛錬や節制が必要であり、自堕落な生活を送っていれば力は衰える。まして体が出来上がる時期に体を鍛えるのを怠れば超振動を使いこなすことができないだけでなく、その力を失わしめることになるだろう。実際、シチロージは武芸の稽古をしていた時間を色里で過ごすようになっていた。

 しかし、色欲に溺れた生活もシチロージの侍の力を失わしめるまでに至らなかった。アヤマロの目論見はうまくいかなかったのだ。しかし、色欲に溺れていた時間を思えば、父親に対して怒りが湧く。

 だが色欲を教えたのは父であっても、それに溺れたのは自分だとわかっていたから、シチロージは父に腹を立てても、憎いとはまでは思わなかった。

 ―――父上だって、武家の出。できれば武士として生きたかったのではないだろうか・・・

 そして心を砕いて話をすれば、侍として生きることも理解が得られるだろうと考えていた。

 しかしシチロージは父親の侍に対する想いを見誤っていた。

 アヤマロには、武家に生まれながら武士になれなかったことへの強い劣等感と、武士に対する憎しみに近い妬みを持つ一方で、武士の中でもとりわけ高い戦闘力を持つ侍に憧れるという、相反する想いがあった。

 物心つく頃から周囲の蔑視と嘲りを受け、何とか武士の力を見出そうとする父親から意識を失うほどのシゴキを受け、ようやく息子が武士になれないと分かると全く見向きもされなくなった。母親はそこまではなかったが、やはり息子に対してよそよそしく、武士の子を産むことができなかったことを恥じていた。女中や中間連中にも軽んじられる、そんな家で孤独に育ち、劣等感と憎しみを積み重ねながら、ときどき戦から戻ってくる一門の者たちの、美しく雄々しい姿に見惚れる。人々に華々しく迎えられ、手を振って讃えられる、自信と誇りに満ち溢れた姿に憧れる。

 そんな幼少から青年に至るまでの月日はアヤマロの人格をすっかり歪ませていて、その歪み方はシチロージが考える以上に根深く、歪曲していたのである。

 今まで絡め手でシチロージが侍になることを邪魔していたアヤマロだったが、シチロージが真剣になるとアヤマロは頭から反対した。侍として生きたいというシチロージにアヤマロは耳を貸そうとせず、「侍になることは許さない」の一点張り。おまけに息子の手前、陰間茶屋でしていた稚児遊びがあからさまになり、その上、屋敷に稚児を囲うようになった。

 ―――あたしを避けるために違いない。ならあたしにも考えがあるっ!

 シチロージはアヤマロの許しを得ずに家を出て戦場に行こうと考えた。しかしすでにアヤマロの手が回っていたのだろう。どの貴族や武家もシチロージを雇わなかった。

 侍の待遇ではなく、一兵卒としてなら雇うという武家なら、いくつかあった。しかしシチロージには自分は超振動を使うことができる侍だという自負があり、さらに大商人の跡取り息子としてのおごりもあって、一兵卒として戦場に行くことは躊躇われた。

 そしてそうこうしているうちに、決定的な事態となってしまった。

 30年も続いた戦があっけなく終結してしまったのである。

 時はシチロージに背を向けたのだった。

 シチロージはあまりのことに放心し、次に地団駄を踏んで悔しがったが、後の祭り。

 戦は終わったとはいえ、地方では小競り合いは終息していない。勢力維持のために貴族や武家は競って侍を求めていると、気を取り直して今度は待遇に拘らず貴族や武家の間を巡ったが、やはりそれも断られた。以前は一兵卒ならといっていたところにも戦が終わったためにいらぬと言われてしまった。

 どうしようもなくなって父親に詰め寄ったこともある。その頃にはもうアヤマロは屋敷にいる間は常に稚児を侍らすようになっており、話をするには稚児と戯れているところを捕まえるしかなかった。

 父親ににしなだれかかる稚児にイラつきながら、貴族や武家に手を回して邪魔をしたことを責めた。そして家を出ると言い切った。

 だがシチロージの剣幕にも顔色ひとつ変えず、アヤマロの応えは今までと同じだった。

 「何度いえばわかるのじゃ、シチロージ。跡取りのそちを侍に侍にはできぬ。それに、家を出るといって、貴族と武家の間をいろいろ回っているようだが、そちを雇うところがあったのか?」

 シチロージは返答に困った。父親の云う通りシチロージを雇うところはなく、家を出ても浪人するしかなかった。その日も飯にも困るような暮らしをして、雇先を探す。

 そこを何とかなると笑い飛ばすには、シチロージは商いの勉強によって世の中の仕組みを知りすぎていたし、金の力も知っていた。

 結局、父親に戦経験のない侍などが雇われるわけがなかろうと揶揄され、稚児たちにも笑われた。あれほど腹の立ったことはない。

 意地でも侍になってやると思ったものの、

 ―――戦経験のない侍を一人雇うより、戦経験の豊富な武士を二人雇った方が安い上に役に立つ

 そういわれてしまっては、シチロージにはもう手段がない。

 そんなことを繰り返して、シチロージは疲れてしまった。

 今日も今日とて仲間達と馬鹿騒ぎをして、女達と享楽に耽っている。

 このいかがわしい場所への、女達への、仲間達への、父親への、何より自分に対して怒りが浮かびシチロージの瞳に光が宿ったが、それも一瞬。すぐに光は消えてしまった。

 淀んだ水に浸かっているような疲れに身を浸しているうちに、ようやく眠気が訪れる。

 ―――必ず侍になってみせるといったのに・・・

 曖昧になる意識の中で形作られていく人影を前にしてシチロージは悲しくなった。

 背に垂れた長い髪は緩やかにウェーブして思う以上に柔らかい。それが風に揺れている。堂々たる体躯に三尺近い刀身の太刀を下げた不動の姿はまるで武神のようだった。端正な顔立ちの中でそこだけは肉欲的な唇には不敵な微笑みが浮かんでいる。長いまつ毛が目元に影を落として瞳の色を濃くしているが、本当は色の薄い、凪いだ湖面のように静かなのを知っている。死人のような目といわれていると云っていたが、シチロージには何よりも美しく、じっと見詰められると胸が締め付けられるように切なくなった。

 手を伸ばし何度も名前を呼んだが、その人は微笑むばかりで応えはない。

 そうしているうちにシチロージの意識は泥の中に引きずり込まれるように眠りに落ちて行った。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 「カンベエ様、そろそろお仕度をなさいませんと・・・」

 カンベエは処理し終えた書類を書類箱に入れ、残った書類を恨めしそうに見詰めて溜息をついた。

 朝から書類と睨めあっていてもう少しで終えるところだったのである。すっかり作業にのめり込んでいたため時間を忘れていたが、老女の言う通りそろそろ支度をしなくては約束の時間に遅れる。

 地獄耳の相手はカンベエが虹雅峡に帰ってきたその日の内に使いの者を寄越してきた。無視もできずに訪問を約束させられてしまったが、積極的に会いたい相手でもない。

 渓谷を利用した半筒状の階層都市である虹雅峡は、上層階は富裕層、中層階は中流階級の者達と商店が集まり、下層階はその日暮らしの貧しい者達や無法者が集まっている。下階層のさらに下、最下層は癒しの里という色里になっていて、夜になると癒しの里の明かりが、蛍のように浮かび上がる。

 カンベエの住居は中層階と下層階の境界といえる階層の住居区画の一角にあった。階層間を行き来する昇降列車は中間層から上層階を行き来しており、カンベエの家から上層階に行くには、徒歩で登るか、徒歩で1階層を上がり、昇降列車を使うかしなくてはならず、どちらにしても時間がかかるのだ。

 自分が悪いかのように申し訳なさそうにしていた老女にカンベエは苦笑して、時間を教えてくれた礼をいうと残っていた書類も箱に収めて立ち上がった。

 年に数回しか帰らぬこの家にカンベエは管理人として老夫婦を住まわせていた。

 カンベエの住居というより老夫婦の住居といってよい状態だが、老夫婦は雇われの管理人という立場を超えることはなく控え目で、カンベエが帰ったときはいつも居心地のよい空間を作って迎え、行き届いた世話をしてくれる。カンベエがこの虹雅峡の住まいを維持している理由はいくつかあるが老夫婦と、老夫婦が作ってくれる心地の良い時間のためというのが一番大きい。

 外出着やコートはすでに丁寧にブラシがかけられている。カンベエは手早く用意をすると家を出た。

 

 

 虹雅峡は階層ごとに街並や雰囲気が全く異なる。

 カンベエの住まいのある階層では、朝夕に物売りは来るし、露店商も多い。曲がり角には屋台が立ち、人々の姿が常にあり、生活の音が溢れている。だが、ここ上層階では大きな屋敷が立ち並び、人々の往来はほとんどない。ときどき車が通り過ぎるくらいでひっそりとしており、生活の音などは聞こえなかった。家主の趣味に合わせて屋敷が建てられているせいで街並みには統一性がなく、どこかちくはぐな感じがする。閑静であってもカンベエが上層階を好きではないのはそのようなところだ。

 目抜き通りをしばらく歩いてカンベエは白亜の屋敷の前で足を止めた。屋敷の装飾にはふんだんに金が使われていて、それが日の光に輝いて壮麗といえるのだろうが、カンベエにはやかましく感じられた。

 呼び鈴を鳴らそうとしたが鳴らす前にドアが開かれ、機械の使用人によって屋敷に通される。主人がせっかちだと機械の使用人もせっかちになるものだろうかと考えながらついていくと、案内されたのは温室だった。

 設えられた席に座って思わずほっとする。

 屋敷の主人は調度品の多さを誇る人物で、屋敷の中は調度品がところ狭しと置かれていて、光が遮られて薄暗く、圧迫感を覚えるのである。

 この屋敷を訪れるのは9年ぶりだが増築と改築を行ったようで、調度品はますます増えているようだった。調度品のひとつひとつは価値のあるもののはずだが、無節操な扱いにより気品が損なわれているとカンベエは思う。

 その点、温室は何点かの彫像が置かれている程度で広く、天窓から入る光のおかげで明るい。だが背の高い南国の木や植物が多く密林のようになって外からでは中がわからないようになっているのはやたら外目を気にする主人の心もありようのようだった。

 屋敷の主人アヤマロと知り合ったのはカンベエが虹雅峡に来てからだから20年くらいになるだろうか。

 アヤマロは有力武家に生まれながら商人として富を築いた男だった。アヤマロの店では様々な商品を扱っているが、主な商いは蓄電筒で、それが巨大な利益を産んでいる。蓄電筒は式杜人という技術に長けた者達が製造しており、その式杜人とアヤマロの生家に繋がりがあることからアヤマロの店では式杜人から独占的に蓄電筒を買い上げて売っていた。蓄電筒は機械の侍を始めとしたあらゆる機械の動力源であるから、アヤマロは大戦中には軍に蓄電筒を売り、そして大戦終結後は復興に湧く街に蓄電筒を売って莫大な利益を上げ、今も商いは大きくなるばかりだ。

 アヤマロは蓄電筒の商いの関係から貴族や武家に侍探しを頼まれることがあるらしく、虹雅峡にやってくる侍に目を光らせている。カンベエも刀工を訪ねて虹雅峡にやってきアヤマロも目にとまったのだった。

 アヤマロに雇い主の紹介や周旋をしてもらったことはないが、カンベエが虹雅峡に住まいを構えたこともあって、ときどき情報を交換するなどして何とはなしに付き合いが続いている。

 戦場で名をあげたカンベエには有名貴族や武家から声がかかることも少なくないが、雇われ侍は一門の者たちから嫉妬や恨みを買ったり、使い捨てにされることもないでもない。実際にカンベエも過去にお家騒動に巻き込まれかけたことがあり、雇い主を決めるにあたって貴族や武家の事情に通している男の情報は、下手な情報屋より確実で信頼がおけるのだった。

 また、以前に一度、アヤマロから別荘を借りたこともある。

 案内されてすぐに出された茶が温かくなった頃、ようやく丸い体を揺らして屋敷の主人アヤマロがやってきた。

 「これは久しゅう、カンベエ殿。相変わらずの武者ぶり。達者で何よりじゃ。支店の方で偶然に会った以来であるから、2年ぶりになろうか」

 年は30後半のカンベエと一回りとは違わないから還暦前のはずだが、たるんだ頬に肉が落ちたために開ききらず細くなった目と下がった目尻のせいで実際の年以上に老けて見える。七福神の布袋のような太鼓腹をゆったりとした服で隠しているが、歩くたびにタプンという音が聞こえそうなほど腹が揺れる。その体に公家を真似て白粉を厚塗りした真っ白な顔が乗っている姿は怪異であった。

 しかし今の姿からは想像できないが、若い時分はかなりの美青年だったらしく、その姿は応接の間に飾られている姿絵で見ることができる。だが、知らされなければ絵姿がアヤマロと気づく者は皆無だろう。

 「アヤマロ殿も変わりなく」

 両手を広げて大げさに歓迎を表すアヤマロの身体に隠れるようにして、年の頃は十四、十五であろう少年がいた。

 他人の嗜好をあれこれというつもりはないが、カンベエは内心溜息をついた。どうしても嫌悪感を感じてしまうのだ。

 アヤマロは十代前半の少年が好きで常に数人抱えている。

 この少年だけを連れてきたところを見ると、現在の一番の気に入りなのだろう。ほっそりとした肢体に少女のような小さな顔が乗っており、その顔は主人を真似たのか白粉を薄く塗って頬紅を入れ、唇には紅をさしている。背の半ばまで届く黒髪は真っ直ぐで艶があり、人形のように美しい少年だった。しかし可憐な唇をうっすらと開いて紅い舌をのぞかせ、濡れた輝く瞳でじっと見詰めてくる、その媚びた表情はいかにも色子のそれであった。

 「へぇ・・・」

 アヤマロの元に来て日が浅く躾がなっていないのか、それともアヤマロが許しているのか、少年は主人の許しも得ずに客人であるカンベエの前に歩み出た。

 「これ、ウキョウ!」

 ウキョウと呼ばれた少年は、寵愛を独占しているずうずうしさでアヤマロを無視し、濡れた瞳でつま先から頭までを舐めるようにカンベエを見るとにっこりと笑った。

 細い肢体をくねらせてしなを作り、流し目をくれる。

 しかしカンベエがまったく自分に興味を示さない様子に細い眉を歪めた。

 よほど自信があったらしい。カンベエの反応を侮辱と受け取ったらしく、ウキョウは唇を噛んで睨みつけてきた。

 「ウキョウ、下がっておれ」

 アヤマロが機嫌を取るように肩を抱いてもウキョウは動かず、目に悔し涙を浮かべてカンベエを睨みつけている。

 「ウキョウ!」

 とうとう声を荒げたアヤマロに、ウキョウはいかにも傷つけられたといった様子でアヤマロに縋ってから走り去っていった。

 全く困ったものよ、と言いながらアヤマロは溜息をついて、恨みがましくカンベエを見た。

 「カンベエ殿、あまり人を惑わせてもろうては困る。あれは癇癪を起こすと厄介なのじゃ」

 冤罪である。

 カンベエは眉をしかめた。

 おまけに厄介というアヤマロの紅を指した分厚い唇は、少年をどのように宥めるか、その算段を想像して半月を描いていて、嫌悪に眉間の皺が深くなる。アヤマロとウキョウの秘事など想像したいはずもなく、カンベエは用件を促した。

 「ところで、アヤマロ殿。大事な用があると聞いた。用向きをうかがおう」

 「何。格別に用があるわけではない。そうでもいわぬとカンベエ殿はこの屋敷に足を向けてくれぬからの。久しぶりにカンベエ殿と世間話などがしたかったのじゃ。西国の話など、聞かせてくださらぬか」

 アヤマロは顔全体で笑って、席につくよう、カンベエを促した。

 釈然としないがとりあえず腰を下ろすと、向いに座ったアヤマロは嫌らしい笑いを浮かべてカンベエを見詰めた。

 「黒田の当主に、ずいぶんと入れ込まれていたと聞いたが? 郊外に隠居所を建てるから共に暮らして欲しいといわれたそうではないか。黒田家といえば西方一の領地を持つ家。その家の当主にかくも惚れこまれるとは、さすがはカンベエ殿じゃのぅ」

 「・・・・・・」

 アヤマロは目を細めて「ほっ、ほっ、ほっ」と公家のように笑った。その目の奥には意地悪い光が宿っている。カンベエがアヤマロの趣味を軽蔑していることへの意趣返しなのだ。溺愛の稚児の敵を取っているつもりなのかもしれない。

 ―――この男のこのようなところが嫌われるのだ

 アヤマロはほかの商人達から敬遠されている。武家の出ゆえということもあるが、一番の理由はその人柄だろうとカンベエは思っている。

 それはともかく、カンベエはアヤマロの地獄耳に改めて舌を巻いた。

 カンベエは数年前から西方で広大な領地を持つ黒田家に雇われていた。西方は大戦以前から武家同士が覇権を争っていた土地で、大戦が終結しても覇権争いが続いていたのである。朝廷からの調停が入り、拒めば朝敵として征伐軍を派遣すると脅されて、ようやく先頃、戦が終結した。

 戦の終結とともに黒田家では当主の代替わりが行われ、それを機にカンベエは契約を解消したのだった。

 跡目を譲った当主は単なる雇い主というだけでなく情人でもあった。アヤマロの言うように、情人には隠居するにあたって一緒に暮らすことを強く求められた。しかし侍として生を全うすることが一番の望みであるカンベエにとって、申し出は受け入れがたく、そのため契約も解消したのである。

 だが情人はそのために寝込んでしまった。

 代替わりを終えて安心したことで戦の疲れが一気に出たというのが表向きの理由だが、実際は情人との別れで激しく気落ちしたことが原因だった。

 仮にも西方の有力武家の当主が、情人に袖にされて寝込むなど体面にも関わるため表沙汰にはなっていないはずだが、一体どこから聞きつけてきたのか・・・。

 「もっともカンベエ殿は侍働きだけでなく、投機でかなりの財産を作られている様子。誰かの世話になる必要もないか。だのにいつまでもあんな階層に居を構えて・・・。カンベエ殿なら上層階に住居を持てるだろうに。さすれば、もっと行き来が楽になろう」

 「年に数回帰るだけの家を上層階に持つほどの財産など儂にはない」

 カンベエは憮然として言った。カンベエが稼いだ金を蓄財し、運用しているのは雇われ侍の嗜みというものである。一門の侍のように、怪我をしたとて面倒をみてもらえることもなく、武具とて己で調達しなくてはならないのが雇われ侍である。アヤマロが金を稼ぐことと根本的に違うのだが、カンベエはそれ以上言わず、アヤマロが投機についてあれこれと講釈めいたことをいうのを黙って聞いていた。

 アヤマロには言葉使いなど、やはり武家の出身らしい、商人らしからぬところがあるのだが、こと商売や金に関しては見事なくらい商人そのもので、価値観がまるで違う。だからカンベエはアヤマロと金の話をしようと思わない。するだけ無駄だと思っている。

 「ところで、今日カンベエ殿を呼んだのは頼みがあっての。頼みというのはシチロージのことなのじゃ」

 機械の使用人が茶を入れ替えて去ると、アヤマロは先ほどとはうって変わった沈んだ様子で、話を切り出した。どうやら、こちらが呼び出した本題らしい。

 「商いに身が入っておらず、家に帰らず下らぬ連中と遊び歩いている。いくら言っても聞く耳をもたぬ。シチロージには家の苦労がないよう、しかるべき家の、貴族の娘と娶せるつもりじゃというに、今のままではそれもままならぬ・・・。そこでしばらくシチロージをカンベエ殿のところで行かせたいのだが・・・。どうだろう、頼まれてくれぬか?」

 「と、いわれても・・・」

 カンベエは訳が分からない。なぜ儂のところに、と眉を顰めた。

 アヤマロが口にした「シチロージ」とは、アヤマロの一人息子。

 カンベエには、懐かしい子供の名である。

 カンベエのシチロージに関する一番新しい記憶は17歳。となれば、今は25か、26歳になっているはず.。

 成人した大人である。

 ―――いい歳をした放蕩息子を押し付けられるのは迷惑。

 そんな面倒を押し付けられるほどアヤマロに借りはないはずだ。カンベエは言葉にせず、顔に表した。だが、アヤマロの一言を聞いて、ざりッと顎鬚を撫でた。困ったときや誤魔化すときのカンベエの癖だ。

 「シチロージは侍になることを望んでおる」

 「・・・・・・」

 わざとらしい長息を吐くと、アヤマロはとうとうとカンベエに訴えた。

 「シチロージは大事な跡取り息子。そのためにあれには貴族にも負けぬほどの学問をさせ、商いについても手取り足取り教えてきた。侍になってはすべてが無駄になってしまう。そうなれば店はどうなる? 店の者たちはどうなる。

 儂ももう先が見える年となってきた。ゆえに、シチロージにはいつまでも夢ばかり見ておらず、この辺りで現実を見てもらいたいのじゃ。

 ・・・なぁ、カンベエ殿。この通り。そなたからはっきりと侍を諦めるよう言うてやってくれ。シチロージに侍になることを諦めさせて欲しいのじゃ。シチロージもカンベエ殿から侍にはなれぬといわれれば踏ん切りがつこう。

 その代わりに名のある貴族、いや武家でもよい。口利きをしようではないか。あてがあって黒田家を離れたわけではないのであろう?」

 そういってアヤマロは貴族や有力武家をいくつあげた。

 アヤマロの言う通り、カンベエは次の雇い主を決めていなかった。だからといって雇われ先の世話をしてもらおうとは思わない。

 ただ、シチロージが侍になることを諦めていないということ。これはいささかカンベエの気になるところだった。

 ―――きっと。きっと、カンベエ様の隣に立てるようになりますから、それまで待っていてください・・・

 カンベエの中で、10年近く前のシチロージの姿が蘇る。

 シチロージはそういってカンベエの六花の入れ墨のある手を取り、水色の瞳で見上げてきたのだった。薄い水の膜を張った瞳は輝石のように美しく、そこにはひたむきな想いが込められていた。だがカンベエは気づかぬふりをしてシチロージい背を向けた。シチロージは17の少年だったのだ。

 「シチロージが侍になりたいというのはカンベエ殿に憧れてことだろう。そのカンベエ殿にはっきりと侍にはなれぬといわれれば、シチロージはきっと諦めるに違いない」

 記憶から現実に引き戻され、カンベエはアヤマロを見詰めた。アヤマロは手を合わせて拝むようにしているが、その目にはカンベエを咎める光が浮かんでいる。

 ―――シチロージの放蕩は儂のせいではあるまい

 だが、シチロージが侍になることを望んでいる、その一端は己にあったかも知れぬという思いが浮かぶ。

 「・・・・・・儂が諭したくらいでシチロージが侍を諦めるとは思えぬが・・・」

 「カンベエ殿から言ってもらうだけでよいのじゃ。ともかく、今、シチロージは人の話を聞かぬ。カンベエ殿からはっきり言われれば、話を聞くようにもなろう」

 結果を求めないというアヤマロにカンベエはつい了承してしまったが、その瞬間から後悔した。

 所詮、親子の話である。他人が関わる話ではない。

 己の軽率を呪っていると、そこに役者のように端正な顔立ちの青年がやってきた。

 薄い金色の髪に白い肌。応接の間に飾られている姿絵の青年が現れてきたようだった。

 「おぉ、シチロージ。遅かったではないか。さっ、こちらに。カンベエ殿とは久しぶりであろう?」

 シチロージはつかつかとやって来ると、「お久しいぶりです、カンベエ様」といってうやうやしくカンベエに頭を下げたが、目を合わせようとはしない。アヤマロについては一瞥だにせずカンベエの斜め前にある椅子に座った。

 カンベエはそんなシチロージの横顔を見詰めた。

 すっとした稜線を描く横顔は、以前はもっとふっくらとしていたはずだが、柔らかい線が消えてすっかり青年の顔つきになっている。美貌なのだが、その顔色は青白く、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいて病的である。背も伸びて肩幅も広くなっているが、体に厚みがない。

 一番に変わったのは纏う雰囲気だろう。カンベエが知っているシチロージは生気に満ち溢れていた。ところが今のシチロージは、姿こそ良家の若君といったところだが、生気乏しく、淡い水色の瞳は沈滞して老人のようである。

 「シチロージ。屋敷に帰ってこず、どこにいたのじゃ。そなたもよい年をした男じゃ。遊ぶことに煩く言うつもりはないが、節度というものもあろう」

 煩く言うつもりはないといいつつ、人前というのに、アヤマロはシチロージの所業を並び立てて咎め、説教を始めた。

 ―――節度というのはよかったな

 アヤマロの小言はなるほど父親らしいものだが、常に複数の少年を屋敷に囲っている男と知っているだけにその言葉はむなしい。シチロージも、繰り返される小言を聞いているのか、いないのか、能面のような表情で、アヤマロと視線を合わせないでいる。

 だが、ようやく気が済んだらしいアヤマロが放った一言にシチロージの取り澄ました顔が崩れた。

 「カンベエ殿はしばらく骨休めをするそうじゃ。休養中の無聊の慰めに、そなたを行かせようかと話していたのじゃが、どうじゃ?」

 全く聞いていないようで一応聞いているのだなと、カンベエは小さく苦笑した。その気配を感じ取ってシチロージはすぐに能面に戻ったが、先ほどまでの取り澄ました様子はすでに崩れている。

 「カンベエ殿。せっかく休養を取るならカンナ村に出かけてはどうか? よろしければ別荘をお貸しする」

 「とっくに手放されていると思っていたが?」

 「カンナ村の米はずっとウチの店で引き取っているのでな。年に1度くらい訪れている。昨年改装をして田舎風の小さなものにしてしまったが、二人なら問題なかろう」

 カンナ村は虹雅峡から高速艇を使えば半日の田舎だ。自然が豊かなところで、米の産地として知られている。そんなのどかな田舎の村も戦と無関係ではいられず、大戦中にはカンナ村で鎮守の森と呼ばれているところに戦艦が不時着したことがある。幸運だったのは戦艦は爆発することなく、機械の侍達はすべて出陣していて艦内に残っていたのは生身の兵のみ。その兵たちも不時着の衝撃によりほとんどが死に、生きていた者も重症であったことだろう。おかげでカンナ村は兵たちに襲われることもなく戦禍を免れた。

 アヤマロはカンナ村の戦艦のことをどこからか聞きつけ、式杜人の手を借りて戦艦を解体し、搭載されている大型の蓄電筒、及び鉄鋼を手に入れた。

 そのとき、アヤマロが戦艦の解体工事の迷惑料としてかなりの金を村に支払った上、工事の人手に村人を破格な条件で雇ったため村とは良好な関係を築くことができた。その縁でカンナ村の米を扱うようになり、良好な関係は今でも続いているという。カンナ村の別荘とは、もとはアヤマロが戦艦の解体作業を見守るために建てたもので、カンベエは以前にも長期滞在をしたことがあった。

 シチロージは話に加わることはなく他所を向いていたが、明らかに聞き耳を立てている。カンベエがカンナ村に行くことを了承すると俄かに立ち上がって温室を出て行った。

 

 「それでは、カンベエ殿。くれぐれも、頼みましたぞ。きっとシチロージの目を覚まさせてくだされ」

 結果は問わぬといったはずだが、アヤマロの中ではすっかりカンベエが説得をすることになっているらしい。カンベエは曖昧に笑ってこれから商用があるというアヤマロの屋敷を辞した。

 車を断って歩いて昇降列車の駅に向かう途中、カンベエは腕を引かれて茂みの中に連れ込まれた。誰の仕業かは、わかっている。

 「カンベエ様・・・」

 きつく抱きしめてくる腕はカンベエの記憶よりも長く、甘い香りはカンベエの記憶にないものだ。

 「ずっと・・・。お会いしたかった、カンベエ様」

 だが見詰めてくる水色の瞳は、確かにカンベエの知るシチロージだった。

 

 

 カンベエとシチロージが初めて出会ったのは、今から20年ほど前。

 カンベエが18、シチロージが6、7歳頃のとき。

 カンベエはすでに戦働きをしており、折れてしまった刀の代わりを求めて腕のよい刀工がいるという虹雅峡を訪れたのだった。マサムネという刀工はスクラップ工場のようなところに住む変わり者であったが、見せられた刀はどれも見事だった。だがカンベエは何故か、マサムネが奥から引っ張り出してきた鈍く光る太い刀身に心惹かれてそれを選び、それが理由でいたくマサムネに気に入られた。カンベエが選んだ刀はマサムネの師匠がうった刀だった。侍を選ぶ刀ゆえ望まれる侍にしか持たせられぬといい、マサムネは拵え、鍔まで誂えてやるといって、その価格は破格だった。そのマサムネが誂えてくれた大太刀は、今もカンベエの腰を飾っている。

 刀が仕上がるまでの数日かかるといわれたため、カンベエはその間虹雅峡に留まることになった。そしてシチロージと出会ったのだった。

 シチロージは生え変わりのために前歯が抜け、白い肌に薄いそばかすが浮いた少年だった。手足は細いがいかにも活発そうで、暇つぶしに市場を訪れたカンベエのマントの中にいきなり飛び込んできたのである。理由を聞くと悪人に追われているから匿ってくれという。少年の身なりはどこかの金持ちの子息といったものであったから誘拐を考えられなくもないが、その割に少年の態度が呑気すぎた。

 ―――悪人から逃げているのならば番所に行くぞ。

 というと少年は途端に慌てて、いけ好かない家庭教師から逃れてきたことをあっさり白状した。カンベエが侍だと知ると、目を輝かせ、

 ―――虹雅峡を案内してやる。断れば、人さらいだと大騒ぎしてやるぞっ!

 と脅してきたのだった。

 立派な脅し文句と少年の態度にカンベエは笑った。久しぶりに自然と湧き合ってきた笑いに戦場での瘧が解されたような気分になる。

 そしてカンベエは、半日シチロージに案内されながら虹雅峡を回ることになった。シチロージはよく屋敷を抜け出しているらしく、あちこちと案内してくれた。日の光に橙が濃くなった頃、屋敷があるという上層階までシチロージを送って別れた。そのときはそれだけである。

 だが10年後、カンベエが戦で負傷したことをきっかけにして再会した。

 そのときカンベエは大きな傷を負っており、戦線では十分な治療を受けることが難しく、さらに長期の治療が必要なことから戦線を離脱して虹雅峡に戻っていた。刀の手入れにマサムネを訪ねることもあって数年前に虹雅峡に家を購入していたのである。しかしカンベエの家は療養に向いているとはいえず、そこで当時、カンベエの副官を務めていたヒューゴがアヤマロからカンナ村の別荘を借り、カンベエは傷の療養をすることにしたのだった。

 別荘についてはアヤマロからの申し出で、あきらかにカンベエに恩を売るためのものだったが、その辺のところはヒョーゴが商いに役に立つ戦の情報を使ってうまくやってくれたらしい。

 カンナ村の別荘は確かに療養にはもってこいのところで、カンベエは戦場い戻ることができるようになるまで滞在を決めた。

 カンベエはアヤマロと知り合いではあったが、シチロージがアヤマロの一人息子であるとは知らなかった。虹雅峡に住居を持つときも、虹雅峡を案内してくれた少年のことは頭に浮かぶことはなく、すっかり忘れていたのだ。

 だがシチロージは違っていた。たった一度の邂逅をずっと覚えていたらしい。

 その頃、シチロージは超振動が発動したものの、父親に商人の跡取りに侍の力は不要といわれ、あまり武芸の熱中しないよう窘められて反発していた。おまけに、父親が陰間茶屋に通い息子の自分と同じ年代の少年と遊んでいることを知って嫌悪感を抱いていたから、戦で傷を負った侍が別荘にいると聞きつけて興味を持ち、侍見たさに別荘にやって来たのだった。

 傷を負った侍というのが、カンベエだとわかりシチロージは驚き、喜んだ。そしてカンベエが体を動かせるようになるまでつききりで献身的に看病し、カンベエが戦場に戻るまでの3ヶ月間を共に過ごしたのだった。

 もちろん、アヤマロは、何度か使いの者を別荘に寄こしてシチロージに家に帰るように促した。しかしシチロージの帰りたがらない理由のひとつが自分の稚児遊びであることもあって、結局はシチロージの滞在を許すことになった。息子のために稚児遊びをやめるという選択をしなかったのだ。

 シチロージの献身的な看病のおかげであってカンベエの傷は完治し、シチロージと二人の時間はカンベエにとっても戦場を離れて穏やかに過ごすことができた得難い時間だった。

 共に過ごした3ヵ月―――。

 カンベエはひと月の間、ほぼ寝たきりだった。だが起き上がれようになると回復は早く、体力が戻ってくると肩慣らしのひとつとしてシチロージに稽古をつけるようになった。

 シチロージなりに励んでいたとはいえ、もともと手習い程度で始めた武芸。カンベエとの稽古は当初相当に応えたようである。しかしひと月もすると体も慣れ、シチロージは各段に腕を上げた。

 『カンベエ様、待っていてくださいね。あたしは必ず侍になって、カンベエ様の隣に立ってみせますからっ!』

 シチロージは事あるごとにそう言い、見舞いに来たヒョーゴがカンベエの副官だと知ると羨み、競争心を見せていた。

 だがそんな穏やかな時間はいつまでも続くわけがなく、傷が治ればカンベエは戦場に戻らなくてはならない。戦場に戻ることが決まるとシチロージは連れて行って欲しいと泣いた。

 もちろん、連れて行くことはできない。

 カンベエも連れて行くつもりはなかった。

 必死のシチロージを無情に置き去り、その後、シチロージとは会っていない。

 「カンベエ様」

 カンベエはシチロージの肩を掴んで体を離した。シチロージも逆らわず、カンベエは少し離れてシチロージの全身を見詰めた。10年前には肩ほどの背丈しかなかったシチロージは、今は拳ひとつ低いほどになっている。肩幅も広く、腰も太い。抱きしめてきた腕や掴んだ肩の感触では骨は太いようだ。しかし温室でも感じたように、筋肉が付いておらず体が薄い。

 「顔色が悪いな、シチロージ。屋敷に戻っておらぬそうだが」

 「父上の遊びをいまさら煩く言うつもりはありませんが、今度の色子の生意気ぶりは腹に据えるものですから・・・」

 「あの少年か」

 シチロージのいう色子とは先ほど会ったウキョウのことだろう。

 「ウキョウを見たのですか?」

 「おぬしが来る前にな。アヤマロ殿についてきたのだ。儂が興味を示さぬのが気に入らなかったようだ。怒って行ってしまった」

 「いい気味ですよ。男は誰も自分に興味を持つと思っている。癒しの里の陰間茶屋で拾ってきたらしいのですが、父上が甘やかすので、全く始末に終えません」

 よほど嫌いらしく、シチロージは吐き捨てるように云った。

 「カンベエ様」

 「ん?」

 ふいに柔らかいものが唇に触れた。

 「・・・シチロージ」

 普通の者なら震え上がるカンベエの鋭い睨みも効果がないらしく、シチロージはにっこりと笑った。

 「いけませんか? もうあのときのような子供ではありません。10年前から・・・、いえ、多分出会ったときから、あたしはずっとカンベエ様をお慕いしています」

 「それを信じろと? おぬしの所業を先ほどアヤマロ殿から聞かされたばかりだぞ」

 「あたしの周りにいる連中など、くだらない連中ばかりですよ。カンベエ様がいてくださるなら、必要ありません」

 「どうだかな」

 「手を切るよい機会です。カンナ村にご一緒させてください。そこでゆっくりとカンベエ様を口説かせていただきます」

 シチロージはカンベエの左手を取ると六花の入れ墨が彫られた手の甲に口づけをした。

 「・・・・・・・・・」

 それが10年前の姿と重なる。

 『どうかご無事で。お早いお帰りを・・・』

 10年前もシチロージは、連れて行けぬというカンベエの左手を取り、口づけた。

 そして、カンベエは迎えに来たヒョーゴと共に戦場に戻った。

 あの時必死に縋った手は、今は自ら離れていった。

 10年前には涙に濡れていた顔は、今は不敵に笑っている。

 カンナ村でお待ちしていますといい、シチロージは茂みの向こうに消えて行った。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 「ふぅ・・・」

 たっぷりの湯の中に体を沈めたカンベエは、甘露の吐息を漏らした。張っていた筋肉が、ゆっくりと解れていくのがわかる。

 シチロージとカンナ村にやってきてひと月。シチロージの身体がそこそこ動くようになってきたため、立ち合いが面白くなってきた。

 荒んだ生活を送ってきたシチロージの身体はずいぶんと弛んでいて、当初は刀を振ってもすぐに息が上がっていたが、最近はかなり体力がついてきたようだ。カンも取り戻しつつあるようで、おかげで立ち合うと5本に1本くらいカンベエがヒヤリとするようになってきた。だが、カンベエの見るところ、まだ本来の力は発揮されておらず、取り戻すには今少し時間がかかるだろうと思われた。

 そのシチロージといえば、カンベエに叩きのめされて、只今別荘の裏手にある林の中で伸びている。

 最初の頃は、背負ったり、肩を貸したりして別荘に運び込んでいたが、健康的な生活によって筋力の増したシチロージは見た目よりもかなり重い。意識がないとなおさらだ。そのため最近は見捨てることにしている。

 

 「あんまりじゃないですか、カンベエ様」

 1時間くらい経ったろうか。悠々と長風呂を楽しんで茶を入れていると、シチロージが戻ってきた。足取りもしっかりしており、この短時間で体力が回復するとは、身体能力が上がってきているのだろう。

 「暑いから木陰に移して水をかけてやったろう」

 「何ですか、その親切をしたみたいな言い方」

 木陰とはいえ、初夏の強い日差しが降り注ぐ中に倒れていたシチロージの着物はほとんど乾いている。冷たい茶を差し出すと、シチロージは立て続けに茶を3杯も飲みほした。

 ぷぁーっと満足の息を吐く一方で、シチロージの腹は切ない音をたて、カンベエは笑った。腹が減りましたと腹を摩るシチロージは顔も着物も汚れ切っている。

 「昼飯の用意をしておく。着替えてこい」

 カンベエはシチロージを風呂へ追いやった。

 3日に1度、カンナ村の女房が女中代わりに来てくれるが、料理が壊滅的なシチロージに変わって普段の飯の支度はカンベエがしている。保存している食材を思い出しながらカンベエは台所に向かった。

 

 

 雲一つない空に浮かぶ少し欠けただけの月はずいぶんと明るく、その月明かりが満ちた室内は緊迫した沈黙に包まれていた。

 カンベエはシチロージに乗りかかられて両腕を抑えられていた。

 この状態からでも、シチロージを跳ね除けて抑え込める自信はある。それをしないのは思いつめたシチロージの顔だ。

 とりあえずシチロージの云い分を聞いてやろうとするも、シチロージは動かない。

 腕を抑える力は強く、いい加減指先が痺れてきて、カンベエは溜息をついた。

 「シチロージ」

 シチロージはピクリと震えたものの、やはり動かない。

 ―――仕方がないか・・・

 カンベエが跳ね除けようとしたところ、ようやくシチロージが力を弱めてきた。ほっとして上半身を起こそうとしたカンベエだったが、頬にぼたりと雫が落ちてきて動けなくなる。

 「カンベエ様・・・」

 シチロージはカンベエの上にぽたぽたと雫を落としながらにっこりと笑うと、ゆっくりと体を重ねてきた。首筋に顔を埋め、ずっと鼻をすする。

 「カンベエ様・・・。あたしはずっと、ずっと、カンベエ様だけを・・・。このひと月、一つ屋根の下にいながら、どんなに苦しかったかことか・・・」

 「っ!」

 言葉にすれば、しまったっ! だろうか。カンベエはひゅっと息を飲みこみ、動けなくなる。

 しばらく体を震わせていたシチロージだったが、震えが収まり顔を上げる。涙の膜で潤んでいた水色の瞳は剣呑な光を湛えていた。

 合わさったままの下半身、太腿に押し付けられているシチロージのものはすでに芯を持ち固くなっていて、その熱さに今度は頭をガツンと殴られたような衝撃を受ける。

 シチロージの乱脈ぶりをアヤマロから聞いてもカンベエにはいまひとつ実感がなかった。カンベエの知っているシチロージは家庭教師や使用人の目を盗んで市場に冒険にやってくるやんちゃな子供であり、傷が治りきっていない力半分のカンベエに簡単に叩きのめされて、口惜しがりながら再び立ち向かってくる負けん気の強い少年だったのだ。

 そしてこのひと月、シチロージをシゴくのは楽しかった。

 泣き言をいいながらも立ち向かってくるシチロージの目は、カンベエが以前から知っていたものと同じものだったからだ。

 慕われているのは知っている。だが、それは憧れの延長だろうと思っていた。シチロージとは一回り年が違うのだ。共に過ごしたのも、20年近く前の1日、そしてカンベエが傷を負った三ヶ月未満だけ。確かに、シチロージは口説くといっていたが、それは侍として働きたい、ということだろうと思っていた。だからこのひと月というもの、シチロージは色を匂わせるような言葉も態度も一切していない。

 だから油断していた。

 大体、気配には敏いはずが乗りかかられるまで気づかなかったのは全くの不覚としか言いようがない。

 その結果がこれだ。

 シチロージがいつまでも子供のままでないことを思い知らされている。

 ―――今ならまだ跳ね除けることが出来る

 しかし、カンベエはそう考えながら、太腿に押し付けられている熱を意識してしまった。

 それは紛れもなく雄のもの。そして熱っぽいシチロージの体から発散されるのは雄の匂い。その匂いをカンベエは嗅ぎ取った。

 まずいと思ったがもう遅い。

 条件反射のように肌が泡立ち、体の奥を突かれたときの快感を思い出してしまった。

 侍大将以上なれば戦場に欲を発散するための若年者を連れて行くように、武家の世界では男同士の交情は珍しいものではない。若い頃から雇われ働きをしていたカンベエも雇い主から誘われて受け手を務めてきた。そのせいかわからないが、この年になっても未だ受け手の誘いを受ける。この間まで雇われていた黒田家の当主とは、愛妾と陰口をたたかれるほど深い仲だった。

 だからその男との別れが堪えて、黒田家を去ってからというもの他の男と寝てもいないし、ロクに欲を発散してこなかった。そのせいだろう。簡単に熱を帯びてくる躯にカンベエは焦った。

 カンベエの焦燥など察するはずもなく、シチロージの手は無遠慮に着物の裾を割り、今はまだなんの反応もないカンベエのものを褌の上から握り込んできた。びくりと大きく震えたカンベエをどう思ったのか、無礼な手は褌の中に入り込んで直接カンベエに触れてくる。敏感な先端を指で擦られて、思わずカンベエは高い声を上げてしまった。

 「うぁっ!」

 急所を捉えられてしまっては身動きもままならない。おまけにシチロージの手は巧みで、刺激を受ければ男である以上どうしても反応してしまう。芯を持ち始めたカンベエのものは先走りを零し始めたが、そのまま手でいかせるつもりはないらしく、シチロージの手が離れた。

 「うっ・・・、んっ」

 思わず、恨めし気にシチロージを睨んでしまう。痛みには強いが快楽にはとんと弱い己の躯を呪ったが、こうなってしまっては、もう欲を吐き出すしかない。

 「カンベエ様・・・」

 カンベエはシチロージの口づけを受け入れた。濡れた肉厚な舌が唇を割り、咥内を余すところなく嘗められ、角度を変えながら何度もきつく吸われる。

 くちゅくちゅといやらしい音をたてて動く舌が気持ち良い。思考が快楽を追い始め、溜まった唾液をカンベエは嚥下した。

 シチロージが体を起こしたため体は自由になったが、カンベエはもう抗うつもりはなかった。膝立ちとなって手早く浴衣を脱ぎ捨てたシチロージは布を押し上げているものを見せつけるようにことさらゆっくりと褌を取り払う。勢いよく飛び出した男根は腹に付くほどに反り返り、月明りの中、先走りでてらてらと光っている。それは太く、長く。凶悪で、秀麗な顔立ちのシチロージのものとはとても思えない。

 ―――こんなもので奥を突かれたら・・・

 カンベエはくし刺しにされる己を想像して恐れから体を震わせた。だというのに後孔はまるで期待するように収縮する。気持ちと相反する体の反応に、正常な思考が狂わされ、早く狂暴なものを突き入れて欲しくなる。

 シチロージが傷薬などをしまっている引き出しから香油を取り出す間にカンベエもまた浴衣を脱ぎ捨て一糸纏わぬ体となった。発達した胸筋によってふくらみのある胸には弄られてきたために泣き処のひとつとなっている果実があり、すでにツンと立ち上がっていた。

 香油の瓶を手にして戻ってきたシチロージはカンベエに触れるような口づけをすると、首筋をひときわ強く吸った。

 「んっ・・・」

 そこには赤い花弁が咲いただろうが、月明りが差し込むだけの部屋の中ではよくわかるまい。それでもシチロージは満足げに微笑むと、カンベエの胸の飾りにむしゃぶりついた。

 乳輪ごと吸われ、もう一方も指で悪戯されると、感電したときのような鋭い快感が体を走り、カンベエは躰を反らせてびくびくと震えた。気を良くしたシチロージに執拗に弄ばれ、髪を振り乱して逃れようとしたが、乗りかかられて逃れることができるはずもない。

 「あっ! ・・・あんっ、ぁ・・・んっ、あっ、・・・ひっ! しちっ、やっ、・・めろっ、そこはっ」

 過ぎた快楽は苦痛と同じ。シチロージの腕に爪を立てると、意外にすぐ解放された。その代わり、足首を掴まれて足を大きく開かされる。

 手入れされ、ごく淡い茂みの中、カンベエのものは胸の刺激だけで先走りを零して濡れている。シチロージはごくりと喉を鳴らすと、さらに足を抱え上げてその奥を露わにした。

 月明りの中だが、そこをじっと見詰めるシチロージに分かってしまっただろうか。

 長く受け手を務めてきたことによってカンベエの後孔は僅かに縦に割れ、縁がふっくらとしてひどく淫らな形に変わってしまっていることを。

 羞恥にカッとなったが、すぐに香油に濡れた指が後孔をなぞり、カンベエは息を詰めた。

 しばらく使っていなかったそこは、容易くは綻ばない。シチロージは香油を足しながらマッサージでもするように後孔を撫で、指を浅く埋める。指が抜かれるとちゅぽっと音がしてそれがいかにも物欲しげで恥ずかしい。目を瞑ったが、余計にシチロージの指を意識することになってしまい、思わず締め付けてしまった。するとシチロージが嬉し気に呟いた。

 「・・・カンベエ様のここ、あたしを欲しがってくださっている・・・」

 それを何度が繰り返し、シチロージは指を根本まで埋めた。

 「んっ・・・・、っ」

 太腿にポタリと滴が落ちる感覚があり、閉じていた目を開くとそれはシチロージの額から流れ落ちた汗だった。シチロージのものはカンベエに圧し掛かって来たときから猛っていたのだ。身内に狂う欲望にどれほど耐えているかはカンベエにもよくわかる。それでもカンベエを傷つけまいと、後孔を丁寧に解かそうとしているシチロージを見て、カンベエは覚悟を決めて体から力を抜いた。

 すると受け入れることを知っているカンベエのそこはシチロージの指を2本、3本と受け入れ、綻んでいった。

 だがシチロージのものは指よりもずっと太く、大きい。シチロージは指を開いたり、回すなどしてカンベエの中をさらに解そうとするが、その度に泣き所を刺激され、カンベエの方が先に根を上げてしまった。

 「しちっ、しちっ! もうよいっ。よいからっ! ・・・いれろっ!」

 後孔に先端が押し当てられたときにはむしろ安堵してしまったくらいだ。

 「ふっ・・・、んんっ」

 指とは比べものにならない大きく熱いものに中を開かれる感覚に躰が強張ってしまうのは仕方がない。シチロージは一番太い部分を埋めるまではカンベエの様子を見ながら慎重だったが、拒まれていないことがわかると、次の瞬間、カンベエの腰骨を掴み一気に根元まで埋めてきた。

 「いっ!  ~~~~~~っ!」

 あまりの衝撃に息を詰めるカンベエの、息が整うのを待つことなくシチロージは腰を使ってきた。

 「やっ・・・・、しちっ、まっ・・・、まてっ、うぅっ、あっ・・・んっ、あっ、あっ、あぁっ!」

 シチロージが腰を引けばカンベエの肉襞は引き攣れ、突かれれば、頭の頂点に抜けるような快感が走る。シチロージの怒張したものは先ほど指で確認した泣き処を的確に突き、カンベエはそこを突かれる度に嬌声をあげた。たっぷりと使われた香油がぐちゃぐちゃと粘着質な音をたて、それが体の中に響く。腹の中ばかりがやたら熱く、シチロージが腰を打ち付ける度に擦られる肉襞が律動して遣る瀬無い感覚を産み、胸がつまる。それは間違いなく悦びだというのに、悲しみに似ていた。

 シチロージのものはたやすくカンベエの最奥に届き、先ほどからさらにその奥に入りたがっている。

 「しちっ! そこはっ! だっ・・・めだっ、そこはっ! ひぃっ」

 そこを責められると狂うこと知っているからカンベエは身を捩って逃れようとしたが、がっちりと腰を抱えられ、逃げられない。

 「い、いいっ、おくっ、あっ、あぁっ、も、ぃ、いぃっ、いっ」

 痛いのか、気持ちが良いのかもう何が何だか分からず、カンベエの意識は原始の悦びだけを追っていた。

 「ぃっ、あぁーーーーーっ!」

 ひときわ強く腰が打ち据えられ、体の中からメリメリという音がしたような気がする。入ってはいけないところに入り込まれ、カンベエは声にならない悲鳴を上げた。あまりの刺激に、目の前をチカチカと星が光る。びくっ、びくっと太腿が震える度にカンベエのものは間欠泉のように透明なものを噴き上げて腹や胸を濡らしていたがシチロージはまだ達しておらず、そんなカンベエを気遣う余裕もない。

 「あ・・・・ん、いぃっ・・・、いいっ・・・・・・っ、しち・・・・」

 「カンベエ様っ、・・・すごっ、・・・カンベエ様のおく、こんなに吸い付いて・・・」

 先端をきゅっと銜えられ、そこが行き付く場所を知ったシチロージは、何度もカンベエの最奥を犯した。その度にカンベエの中はシチロージを締め付けるが、シチロージに掴まっているはずの腕の感覚も心許なく、カンベエの躰は快楽の強い刺激によって感覚が麻痺していた。シチロージのものが最奥に突き立てられる度に脳天から快感が突き抜け、指先がびりびりと震える。

 何とか細く保っている意識すら飛びそうになりながら体を揺すられていたところ、一際強く腰を打ち付けられ、目の前を火花のようなものが散った。体中が痺れて指一本動かせない。そんな中、カンベエはじんわりと腹が温かくなるのを感じた。

 それは一度ではなく、二度、三度と行われた。芯があったものが柔らなくなっていく感覚にカンベエは終わったのだとぼんやり考えた。

 だとしたらもう休んでもいいはず。

 そう考えたが最後、カンベエは意識を手放した。

 

 

 「・・・・・・さま、・・・かん・・・様、・・・カンベエ様、カンベエ様」

 どうやら完全に意識を飛ばしてしまっていたらしい。目の前に誰かの顔がある。

 部屋の中は小さな明りが灯されており、何度か瞬きをすると、霞がかったシチロージの顔がはっきりしてきた。

 「よかった。まったくうんともすんとも反応がないものですから。大丈夫ですか」

 「・・・ん。大事ない・・・」

 シチロージに頭を起こされ、湯呑を傾けられるとカンベエはゆっくりと甘い水を飲み干した。果物を絞ったものだろうか。甘いだけでなく口の中がさっぱりした。

 再び布団に身をゆだねて息をつく。体の方はまだうまく力が入らないが、気分は悪くない。むしろ爽快感に似たものがあり、満たされている。まるで立ち合いを行った後のようだった。そして高揚感がまだ残っている。

 「カンベエ様」

 上半身を傾けきたシチロージの瞳は、まだ欲望が陽炎のように揺れている。

 儂もこうなのだろうなとカンベエはシチロージの瞳を見つめ返した。カンベエは体の中に灯された火がまだ完全に消えていない。久しぶりの快楽をもっと、と望む気持ちがある。

 自然と合わさった唇は、慈しむように優しいものだったが、互いの背を抱き、胸が合わさり、下半身を絡めあううちに激しくなっていった。若いシチロージは口付けの間にすでに力を取り戻しつつある。後ろに伸ばしてきたシチロージの指をカンベエは難なく招き入れて締め付ける。その感触に、シチロージのものがさらに硬度を増した。

 その夜、欲望が果てるまで二人が離れることはなかった。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 ―――――――3年後

 気温は高いが湿気がないため開け放した窓から入り込んでくる風は、爽やかだった。

 「んーーーっ!」

 大きく伸びをして心地よい空気を胸いっぱいに吸うシチロージは下履きと上着を肩にかけただけ。裸の胸を晒したままで軒下に置かれた椅子に腰をかけた。村外れにあるこの家は、辺りのことを気にかける必要はほとんどない。人の出入りは家へと続く一本道に気をつけていればよく、その道を使うのは、食料を運んでくる近所の農家の者と早亀くらいだった。

 戦後、この辺りは植林が行われてその効果で緑に覆われている。この家は、植林が行われていたときに見張り所になっていたところで、空き家になっていたのをシチロージが買い取ったものだ。

 見張り番の老人が一人住んでいただけだから台所と居間、部屋が2つあるだけの小さな家だが、カンベエと二人きりの時間を過ごすためのものだから不自由はない。虹雅峡に近く、高速艇を使えば半刻とかからず、早亀でも半日未満で来ることができるため、ちょっとした別宅といったところだ。内装に手をいれて1日1回の早亀による飛脚の手配もしたため、ここから仕事の指示もできる。

 シチロージは開け放した部屋のその奥の部屋を覗った。

 昨日遅くやってきたカンベエは、未だ布団の中にいる。寝たのは空が朝焼けに染まる頃だから、もう一刻ほどは寝かせていた方がよいだろうと考え、シチロージは昨夜送られてきた売り上げ台帳やら書付やらを開いた。

 ―――カンベエ様と想いが通じて、あたしは生まれ変わった。

 この3年の間、シチロージはカンベエの仕事以外の時間をほぼ独占している。

 遊びで付き合っていた者達とはすっかり手を切り、悪習も一切やめた。さすがに酒は飲むが、以前のように鯨飲することはない。仕事にも身を入れるようになり、生活をすっかり改めた。

 おかげで最近は蓄電筒以外の商売を任されるようになり、こうして二人きりのときにも仕事を持ちこまなければならないくらいには忙しい。

 シチロージが生活を一変させたのは、カンベエとの関係を守るためだ。

 3年前、父アヤマロによってシチロージはカンベエに預けられた。侍になることを諦めさせ、荒れた生活を改心させるためだったが、シチロージにとっては憧れの、長く想い人であるカンベエとの再会をする機会だった。

 そしてカンベエと想いを通ずることができた。侍になることだって諦めちゃいない。

 だから父親の望みに通りになってやった。生活が荒れたままでは、カンベエに咎がいくに決まっているのだ。

 父親の望み通りにしてよいこともある。商売に精を出せば金を貯めることができる。

 シチロージは蓄財し、やがては家を出ることを考えていた。もちろん、カンベエと暮らしたいと思っている。

 ―――父上の力が及ぶところでは、どんな邪魔や嫌がらせを受けるかわからない。だから暮らすなら父上の力が及ばないところ。東方の武州なら父上の力は届かないだろう。武家は武州から始まったという。侍を目指すあたしにとって望む地だ。武州では金がものをいうから今の内にせいぜい蓄財をしておかないと。武州といっても広いから暮らす場所についてはカンベエ様の考えも聞かなくては・・・

 書類を見ながら、椅子の背もたれに体を預けると、肩にかけていた上着が落ちてシチロージの上半身が露わになった。

 肩は筋肉が盛り上がっている。肩だけではない。カンベエに叩き直され、その後も鍛錬を続けたおかげで体は厚みを増し、腹は6つに割れている。背も筋肉の文様ができているほどだ。

 そのおかげもあってか、シチロージは直近1年の間に2度ほどカンベエの仕事を手伝っていた。

 そして1度、人を斬っている。

 ヒョーゴは未だカンベエの副官気取りで、そしてカンベエの仕事は大抵、ヒョーゴが話を持ってくる。仕事は蓄電筒の輸送隊の護衛などもあるが、身分の高い要人の警護が多い。戦場で名を挙げた島田カンベエをわざわざ指名する要人も少なくないという。

 そのときの仕事もヒョーゴが持ってきたものだった。仕事はある貴族の護衛だったが、急な話で護衛の頭数が足りなかった。そこでヒョーゴがシチロージを誘ったのだった。

 嬉しくて、このときばかりはいつも当然のようにカンベエの隣にいていけ好かないと思っていたヒョーゴへの認識を改めたものだ。もちろん、シチロージは二つ返事で承知した。

 当然だが、カンベエは反対した。しかし侍の数を揃える時間がなく、ヒョーゴのとりなしもあって仕方なくシチロージの手伝いを許した。

 喜び勇んで護衛に加わったものの、何事もなく仕事は終わった。野伏せリや野党が彷徨する危険な場所を通らなくてはならないため、護衛の数を揃えたそうで、先頭と殿をカンベエ、ヒョーゴをはじめ手練れの侍で固め、十数人からの護衛を揃えたのが功を奏したらしく、襲撃されることはなかった。

 カンベエが最終的に手伝いを許したのはまず危険がないと踏んだからで、シチロージは大いに不満だったが、依頼主の無事を守る仕事で騒動を望むとは何事だと、カンベエにぴしゃりとやられてしまった。

 だがそれからひと月後の仕事では何事もなくとはいかなかった。

 その仕事もヒョーゴが持ってきたもので、やはり急なこととて侍の数が足りず、シチロージに声がかかったのだ。前回同様、カンベエは反対だった。というか大反対だった。しかしシチロージはヒョーゴを味方につけ強引に加わった。

 依頼主は大戦終結時に過酷な処断を行った貴族の一人で、以前にも脅迫を受けたり、襲われたことがあったらしい。ここ最近、身の回りにおかしなことが起きていたため屋敷に籠っていたが、どうしても参内する必要があり、その帰り道を狙われた。

 予想された襲撃だけにカンベエたちの動きは早く、襲撃者たちは次々に討たれていったが、襲撃者の数が多かった。そのため討ち漏らした一人が貴族の車に襲いかかり、カンベエに言われて車の近くに控えていたシチロージが対峙することになったのだった。

 といっても向かってくる襲撃者にとっさに槍を振るっただけのことで、斬ったといっても命は取っておらず肩を斬っただけ。

 しかし刃から伝わった肉の弾力は生々しく、貴族を無事屋敷に送り届け、襲撃者たちを役人に引き渡した後、シチロージは一人になって吐いた。あのときの感覚は今でも忘れがたい。

 だが、斬り合いはそれ一度きり。

 それ以降、カンベエはけしてシチロージに仕事を手伝わせようとはしない。カンベエに言われているせいか、ヒョーゴも声をかけてこない。

 シチロージにはそれが不満だったが、その一方で、たった一度きりの人を斬ったときの感触を思い出してほっとすることもあった。

 あのときはとっさに槍が出てなんとかなった。しかし向かってきた相手が手練れであったらどうなっていただろう・・・。そう考えると、背中に氷を当てられたようにぞっとして震える。

 ―――侍となるということは常に死ぬことと向かい合っていかなくてはならないということだというのに、あたしはあのときまでわかっちゃいなかった・・・

 人を斬る覚悟を考えるとシチロージの心は揺れる。

 経験を積んでいけばきっと慣れていくことだろう・・・、とは思うが、深く考えると吐いたときの喉が焼けるような痛みを思い出し、いつもそこで考えるのをやめてしまう。

 書類に目を通し終えてシチロージがもうひとつの書類を持ってくると、そこから一枚の小さな絵が落ちた。描かれているのは清楚な着物を纏った可憐な乙女。年の頃は15か16くらい。シチロージは眉をひそめて破り捨てようとしたが、描かれている少女があまりに可憐で美しかったために、読み終わった書類の中に挟んだ。

 有名貴族や有力武家に年頃の娘が多いのか、父親からの見合い攻撃が近頃うるさくなっている。

 この別宅に来る前も運悪く捕まって、見合い相手の絵を見せられた。どの娘もみな貴族の娘だ。いかにも楚々とした娘たちの間にシチロージが以前に遊んだことのある娘がいて思わず笑ってしまった。もう20歳を超えているだろうに、幼い顔つきなのをいいことに、娘たちの間に混じっている。

 「こんな女を家にいれたら、ひと月も立たずに男を引っ張り込んできますよ。そうなったら、父上の人形たちと一緒になって、この家はどうなってしまうんです?」

 その状態を想像して、シチロージはうんざりした。

 「一緒に暮らせとは言っておらぬ。屋敷を買って、そこに住まわせればよい。何のために貴族の娘を探したと思うておる。欲しいのは家柄じゃ。それさえ手に入れれば、後はそちの好きにすればよい。誰を情人にしようが構わぬ」

 「・・・・・・」

 嗅覚鋭く、地獄耳の父に、当然カンベエとのことを気づかれていないはずはないと思っていた。だのに何も言ってこないのを不気味に思っていたが、そういうことかとシチロージは納得した。

 ―――父上にとって何より大事なのは商売。跡取り息子として大事にされてきたが、それは商売を広げるためにあたしが必要だからだ

 そうと気づいて傷ついたこともあったが、すでにシチロージは達観している。

 そもそも息子と同じくらいの歳の少年と平然と遊んでいたのも、息子を道具以上には見ていなかったからだろう。

 父親の稚児遊びは未だやんでおらず、2年前、ウキョウは成長期を迎えて背丈が伸びたためアヤマロの寵愛を失った。陰間としてもうトウがたっていように、もう少しくらい稼げるからといってどこかの陰間茶屋に売られていったことを女中に聞いた。寵愛されているのをいいことに我儘邦題。

 シチロージがアヤマロに詰め寄り、逆に戦経験のないそちが侍として働けるかとアヤマロにやりこめられたときには、側にいて嘲笑していた少年たちの一人だ。ウキョウだけでなく、あのときアヤマロの側でシチロージを嘲笑した少年たちはこの屋敷にはもういない。皆、どこぞに売られるかしている。かってシチロージも参加した秘密の会合に連れて行かれてそのまま帰ってこなかった少年もいるから陰間茶屋に売られていったウキョウはまだマシだったかもしれない。シチロージはウキョウを嫌ってはいたが、捨てられたウキョウを笑う気にはならない。

 何にしてもアヤマロにとって少年はいつでも取り換えが玩具で、この2年ほどは新しく屋敷に引き取られた少年を寵愛している。

 屋敷の中で年端も行かない少年たちを見る度に父上がそれならそれでよい。自分もまた好きにやる、と思う。

 ―――ただ、父上が家柄を欲しがっている以上、何としても手にいれようするだろう。

 正直なところ、シチロージにとって結婚など、どうでもよかった。所詮、父親の野心を適えるための、形だけの結婚だ。

 ―――父上は家柄さえ手に入れさえすればよいはず。武家の血を引いているとはいえ父上は全くの商人。そのいやしい商人の元に嫁いでくる女など金目当て以外にないだろう。父上の言う通り、女には屋敷を用意して遊んで暮らせるだけの金を用意すればよい

 父上の力と性格はカンベエ様もよくわかっているはずだから、とりあえず結婚するといっても許してくれるだろう。あたしたちの仲を守るためには仕方がないとわかってくれるはずだ―――

 ただ後ろめたさはあるから、シチロージは家を出ることも結婚のこともカンベエに話していなかった。

 そもそもどちらも具体的に決まったことではないのだ。具体的になってから話せばよいだろうと。

 再会して想いが通じてからから3年。

 カンベエとの仲は順調だ。

 なんといっても体の相性が抜群によい。

 カンベエは女のように細くもなければ柔らかくもない。おまけに大兵だ。シチロージより拳ひとつ背丈があるし、肩幅も広い。しかし程よく肉づいている太腿や発達した胸筋で豊かな胸は独特の弾力がある。肌はあちこち傷痕に汚れているが、肌理が細かく滑らかで、手入れも行き届いているからそこら辺の女が適うものではない。シチロージのものを納める蜜壺は、自然に濡れることがないために手間はかかるが、その代わり女のそれとは比べ物にならないほどシチロージのものを締め付け、快感を与えてくれる。

 体術にも優れているためにカンベエは関節が柔らかく、どんな体位にも応えることができる。そのため加減ができずに抱きつぶしてしまうこともあるが、それでカンベエが壊れることはない。むしろ被虐的な扱いにカンベエは悦ぶところがあって存分に責め立てることができる。これは女相手にはなかなかできないことだ。

 最初は慎ましくても、愛撫するうちに蕩けて乱れていく快楽に素直な躯はまったくシチロージの好みだった。おまけに快楽に酔うカンベエの艶やかさや色気といったらなまじの女妓では適わぬほどだ。

 今までシチロージが寝てきた相手といえば、頼みもせぬのに自ら足を開き、自分の快楽だけを追ってよがり狂う連中ばかりで、盛った畜生同士交尾のようなものだった。色町の太夫はさすがにそのようなことはないが、廓のしきたりは面倒だし、張りを大事にする太夫の矜持も鼻についてシチロージの好みではなかった。気軽に寝ることができる散茶あたりがシチロージの好みで、たまに相性の良い女もいたが、半年ともたず厭きて通わなくなった。ところがカンベエとは、厭きを知らない。仕事で会わぬ日が続けば恋しくなる。

 今回はひと月ぶりだったせいか、カンベエはひどく乱れ、煽られてシチロージも昂ぶり、また限界記録を越えてそらおそろしくなったくらいだ。適度に時間をおいていることもカンベエとの仲がうまくいっている要因のひとつかもしれない。

 それもこれもお互いに想いが通じているからこそだとシチロージは思っている。

 ただ、こうなるには何の障害がなかったわけではなく、カンベエは一度シチロージと別れようとしたことがある。虹雅峡の家の管理を任せていた老夫婦が体が弱ってきたのを理由に管理人をやめようとしたとき、カンベエは退職金がわりに二人に家を与え、シチロージに黙って虹雅峡を去ったのだった。

 カンベエに想いが通じたと舞い上がっていたところに奈落に落とされたようなものでシチロージは激高した。そして使える力をすべて使ってカンベエの居所を突き止め、監禁まがいのことをして最後には泣き落とし、何とか繋ぎ止めた。

 この家を購入したのは、その直後だ。

 帰る場所を作れば、カンベエを繋ぎとめておけるのではないかと思ったためだ。

 そして現在、カンベエは仕事が終わればこの家に帰ってくる。

 一か月に10日間一緒にいることができるかできないかだが、間違いなくこの家は二人の家であり、シチロージはカンベエに帰る場所を与えることができて嬉しかった。

 あと一刻ほど寝かせようと思っていたが、カンベエが目覚めた気配を感じて、シチロージは部屋の中に戻った。

 カンベエは仰向けで寝ころんだまま、ぼんやり目を開けて起きようとはしていない。こんな無防備な姿を見ることができるのも、カンベエが帰る場所、この家があったればこそだ。

 シチロージはベッドに座ると、上からカンベエの顔を覗き込んだ。

 「もう少し寝てらっしゃっては?」

 「・・・ん・・・」

 カンベエはシチロージを見上げて、ゆっくりと瞬きをした。いかにも眠そうな様子が可愛らしくてシチロージは小さく笑ってカンベエに口付けた。ちゅっと小さな音をたてながら触れるような口づけを何度かおとし、うっすらと開いた唇に舌を忍び込ませる。

 口付けを深くしても怒らないから、あれと思って見ると、カンベエは再び眠りに落ちようとしていた。瞼がぴくぴくと動いているのは眠気と起きようとする気持ちとせめぎ合っているのだろうか。

 そんなカンベエを見詰めているうちにこれ以上仕事をする気がなくなってしまった。大事な書類にはすべて目を通して、残っているのは急ぎではないものだけだ。

 上掛けをめくってカンベエの横に横たわる。「ん・・・」と小さくカンベエはむずがったが、起きはしなかった。

 受け手のカンベエの方が消耗は激しいだろうが、気を失ってしまったカンベエの後始末をしてから眠りについたシチロージの方が睡眠時間は少ない。心地の良い温かさに目を閉じると、アッという間に眠気がやってきて、シチロージは逆らうことなく、身をゆだねた。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 現在の帝は大戦中に建造された天主閣戦艦といわれる大型戦艦の中で生まれ、育った。そのため、大戦終結後も天主閣戦艦をそのまま宮殿として利用し、天主閣戦艦がそのまま都となった。天主閣戦艦は帝の行幸時に移動することがあるが、通常は大戦以前の御所があった土地に接地されている。天主閣戦艦を中心として街も築かれて、現在は都というと、天主閣戦艦を含めた街全体のことを指している。

 ヒョーゴは茶店に入りカンベエの姿を認めた途端、眉を顰めた。カンベエは顔だちの良い男だが役者のような派手さはない。だが、そこはかとない男の色気があって、そこに気を引かれる輩は少なくない。

 普段はふとしたときに感じる色気が今はタダ漏れ状態になっている。仕草の端々に気怠さがあり、それが艶っぽい。刀があるから侍だとわかるのでよいが、そうでなければちょっかいをかけられるだろう。茶屋の客の何人かがチラチラとカンベエを伺っているのだが、カンベエに気にする様子はなかった。殺気にはおそろしく敏いが害のないことには極端に鈍い男なのだ。

 カンベエがダダ漏れ状態の原因はひとつしかなく、ヒョーゴは小さく舌打ちした。

 

 「今回はずいぶんと時間がかかったな」

 「そうだろうさ。侍の手を借りず、自分たちだけで何とかしようなど考えるからだ。都に帰ってきた連中たちを見てきたが、出陣したときの美々しさなどまるでない、敗残兵の有様だったぞ。死者数500といっているが、これには家来衆の数が入っていない。瓜生、宇多、日下部といった貴族の子弟も討たれて、貴族の家々では、女たちのすすり泣く声が塀の外まで聞こえているそうだ。朝廷もかなり動揺している。もっとも、討伐隊の大将の右大臣の息子は傷ひとつなく、ピンシャンしていて、右大臣家では、討伐軍の成功を祝って宴が開かれるらしい」

 ヒョーゴはふん、と鼻を鳴らし、カンベエは顎鬚を撫でた。

 大戦が終わって8年。

 新しい帝が即位し、一新された朝廷の、その治世は必ずしもうまくいっていなかった。ひとつには戦の勝者となって権力を握った貴族たちが復讐に走り、厳しい処断を行いすぎたのである。厳しい処断は見せしめもあって隠されず、そのため戦の敗者となった貴族や有力武家にあっという間に広がった。そして朝廷の威光が届かない遠方の地に逃れていったがその数はかなりの数に及んだ。

 今、多発している地方の反乱や小競り合いは多くが土地争いによるものだが、逃れた貴族や武家に扇動されたと思われるものも少なくない。争いとなれば、当然、朝廷は仲介を行わねばならず、時には威光を示すために討伐軍も派遣する。

 ただ、反乱といっても今までは小競り合い程度のものだったため、地方の代官に任せておけたが、最近は規模が大きくなってきている。今回の反乱は地方の代官の手にあまる規模となったため、朝廷が直接討伐軍を組織し、派遣することになったのだった。

 だが討伐軍の編成はスムーズにはいかなかった。近頃、朝廷では貴族と武家の軋轢が表面化してきているという事情がある。戦によって官位を得て朝廷の一角を占めるようになった武家を快く思っていない貴族が多いのだ。

 大概の貴族は、武家を自分たちの飼い犬と認識している。一方で、時代の流れに敏感な貴族たちは武家の持つ武力を認め、それを利用すべく取り込もうとしていた。

 だが、武家はあくまでも貴族の風下にいるべき存在と考える者たち、そう考える貴族たちが武家だけで討伐軍を編成しようとした帝とその側近に対して異議を唱えたのだった。今回の反乱の討伐によってますます武家が勢力を増すのを嫌ったのである。

 反対を唱えた者たちの中に右大臣の息子がいたこともあって若年の帝は抗いきれず、武装した貴族たちで討伐軍が編制され反乱軍の討伐が任されたわけだが、反乱を鎮圧できたものの、討伐軍の被害は甚大だった。

 カンベエやヒョーゴのような雇われ侍は世間の情勢に無関心ではいられない。ましてや今は決まった雇い主のない状態だ。今回の反乱については当初よりカンベエは注目しており、そのため都に居を構えているヒョーゴから、先日、物見遊山で帰京した討伐軍の様子を見に行ったと聞いて、詳しい状況を聞こうと虹雅峡から高速艇を使って半日、わざわざ都にやってきたのだった。

 「どうやら、反乱軍の中に武州の武士団がいたらしい」

 カンベエは顎鬚を撫でながら、む・・・と唸った。

 東方の武州といわれる地は広大な平野が広がるところで、多くの良馬がいたことから牧が作られ、その牧を守るために武装した者達が武士の始まりといわれている。武士団は血族によって結成されており、いつしか勢力を誇る武士団のいくつかが朝廷と結びつくようになった。官位をいただき朝廷の一角を占めるようになった武家もいくつかは元は武州出である。

 だが一方で、朝廷に支配されるのを嫌う者たちも多く、朝廷の威光が届かぬ遠方の地であるのをよいことに、今でも武士団はそれぞれ土地を所有し、自治を行っている。

 隣近所はとかく争い事が起きやすいものだが、武州では常に土地争いが起こっており、おかげで戦慣れした武士団の強さはつとに知られていた。

 戦ばかりをしているため、武州では食料をはじめとした日用品の生産が十分でなく、不足分を他国から買い入れている。そのため武士団は傭兵をやって金を稼いでおり、先の大戦でもどちらに組することなく、金を積まれればどちらにもついた。

 金で雇われる点は雇われ侍と同じだが、武士団は土地を奪われることを恐れて長く土地から離れることを嫌う。また金を積まれれば、簡単に裏切った。雇われ侍は真偽を重んじ、雇い主に忠誠を誓い滅多に裏切ることはなく、その点が武士団と雇われ侍は大きく違う。

 武家は棟梁家を中心として一族が形成されるように血の繋がりが強いが、武士団の血の結束はさらに強く、ほかの武士団との婚姻は滅多にない。血族の間で番い、子供を産む。ただしそれだと近親婚の弊害があるため、ときどき他所から女を攫ってきて子供を産ませる。とにかく荒々しい者たちなのだ。

 「武州の者を雇うにはそれなりに金がかかるが・・・」

 「そこよ。帰りがけ高家に立ち寄ったのだが、時宗殿もそこを気にかけておられた。北国の連中が後ろにいるのではないかと。北国は大戦中、銭を納めただけで兵を出しておらぬし、朝廷に報告していない隠し金山があるという噂、おぬしも聞いたことがあるだろう」

 「あぁ」

 「時宗殿は北国に手の者を使わし、様子を探っておられるが、朝廷に報告されている金山の産出量と、北国の発展ぶりとでは勘定が合わぬそうだ。隠し金山か、それとも貿易か、まだはっきりとはわからぬが、どちらにしても北国が収益を正しく都に届け出ていない可能性が大きいらしい」

 カンベエもヒョーゴも北国には未だ行ったことがないため、どのくらい繁栄を誇っているのかよく知らない。一年の三分の一を雪に閉ざされるために大戦中も兵を派遣しなかったところなのだ。北国の民は寒さのせいか、男も女も皆、一様に肌が白いという。浅黒い肌のカンベエが用もなく入ることができる国ではなかった。

 「時宗殿は、追われた連中と武州が手を組んだ可能性もある、と案じておったが」

 「ないな。・・・・・・いや。武州の者たちが貴族と組んで余所の土地を望むことなど今までなかったはずだが。今は、事情や考え方が変わったのかもしれん」

 「おぬしの故郷のことであろうに」

 なぜ知らん? という顔のヒョーゴにカンベエは当たり前のことのように言った。

 「家を出てから一度も帰っておらぬからわからん」

 え? と云ってヒョーゴは色のついた眼鏡をかけ直した。

 「そうだったのか? 次の仕事まで日があくことがあっただろう。てっきり」

 「儂が家を出た理由は以前話しただろう? 跡目争いが嫌で家を出た儂が帰れば面倒なことになる。この傷を得てからはなおさらだ」

 カンベエは胸の傷をなぞるように親指で示した。カンベエの躰にはいくつもの傷跡があるが、中でも胸の傷跡は大きく、肉が抉られたところが凹凸になっていて皮膚が変色している。

 「儂のところと長年争っていた家の侍とやりあった傷だ。当主を合わせて5人を斬った。当主を殺れば戦意も喪失するだろうと思ったのだが、その逆でな」

 寄ってたかって斬りかかって斬りかかられたと、カンベエはくすりと笑った。

 「深手は折ったが儂はこうして生きておる。あちらは勘定が合わぬと思っているだろうよ」

 「・・・おいっ! ・・・・・・聞いてないぞ」

 ヒョーゴは眉間に縦皺を浮かべ、苦虫を潰したような声で呟いた。

 「言っていないからな。それに戦場で武州の者同士が斬り合うことなど珍しいことではないだろう」

 「それはそうだが・・・」

 カンベエは3ヶ月の重傷だったのだ。

 自他ともに副官と認識しているというのに大事なところで知らないことがあるのは情けない。

 なぜそれをもっと早く云わんと睨みつけたが、カンベエにとってはわざわざ云うことでもないらしく、ヒョーゴは大きく長息を吐いた。

 「はーーーっ」

 「武州は気性が荒いが、からりとしたところがある。戦場で斬り合ったとしても、それを恨みと思うことはほとんどない。だがもともと争っていた家同士となるとそうはいかぬ。儂は昔から親父殿と瓜二つといわれていたが、まさか戦場で親父殿の名で呼び止められるとは思わなかった」

 「おぬしを見つけたときは、もう・・・・・・。息があるのが不思議なくらいだった」

 「礼をいう。おぬしが来なければ儂はあそこで命絶えていただろう」

 「やめろ。俺が戦場でおぬしを見失ったせいでもあるのだから・・・」

 カンベエが重傷を負ったのはヒューゴにとっても苦い出来事であり、この話は終わりと手を振った。

 「儂はこれからも武州に足を踏み入れるつもりはない。・・・時宗殿に探索でも頼まれたか?」

 まあな、とヒョーゴは頷いた。

 「だが、そのような理由なら断るしかないな。・・・ところで、また護衛を頼まれているのだが、やるか?」

 仕事の内容を聞いてカンベエは承知した。それならばと算段をするヒョーゴに、だが、と付け加える。

 「今回の仕事はする。だが、ヒョーゴ。そろそろ貴族との付き合い方を考えた方がよいのではないか?」

 「というと?」

 「近頃、帝と右大臣の一族との確執が鮮明になってきた。貴族同士の諍いに巻き込まれるのは御免だ」

 貴族は自分たちで手を汚すことはない。武士や侍を使ってやる。中でも儂たちのような雇われ者が利用されやすいというカンベエの言葉にヒョーゴはうーんと唸った。

 「どちらにもよい顔をしてそれなりに稼がせてもらったが・・・、潮時か」

 ごねるか、反対するかと思っていたが、ヒョーゴはどちらもしなかった。ヒョーゴも分かっていたらしいとカンベエはほっとした。

 「おぬしにはいつも仕事を都合してもらって感謝している。だが、これ以上、どちらにもよい顔をするのは危ういような気がするのだ」

 「いや・・・。俺もうっかりしていたかもしれん。貴族のずる賢さは俺もわかっている。そうだな、確かに。おぬしの言う通りだ」

 カンベエに言われるまでもなく、ヒョーゴも雇われ侍が利用されやすいことは身に染みている。権謀術数が渦巻く貴族社会ならなおさら使い捨てにされる危険には注意してし過ぎることはない。

 「しかし、侍を殺すには刃物はいらぬ、平和の世があればいい・・・とは言い様だな。大戦が終わって確かに武家全体の勢力が大きくなった。一部の武家は官位と領地を得て各段に勢力を増した家もある。だが、戦がなければ侍を養うこともできないという家も少なくない。あの黒田家ですらだ。先頃、相当数の侍が放逐されたと聞いた。おぬしが黒田家から出て行くといったときには、正直、俺はおぬしと袂を分かっても黒田家に残ることを考えなかったわけではなかった。あの頃から、こうなることを見越しておったのか?」

 「まさか。そんなことがあるか」

 カンベエと深い仲にあった先代は今から2年前に亡くなっている。それによって完全に実権を握った先代の実子である当代は、先代とは考えを異にして雇っていた侍をすべて解雇し、領地内で産業を興すことに熱心になっているという。大戦が終結して8年。黒田家に限らず、武家の在り方は変わってきている。

 「しかし貴族の仕事を控えるとなると、仕事先は商人・・・。蓄電筒の護衛・・・」

 「貴族に利用されるにしても、戦ならばよい」

 「討伐軍か? それだとあまり稼ぐことができんが」

 「久しぶりに戦場に立つのも悪くないのではないか?」

 ヒョーゴの肩がピクリを動くのを見てカンベエはにやりと笑った。戦のない世をそれなりにうまく生きているようなヒョーゴだが、根本は侍なのだ。戦場にたってこその侍だ。

 カンベエに見透かされてヒョーゴはチッと小さく舌打ちした。色付きレンズの眼鏡を直しながら「考えておく」と呟く。

 「・・・・・・討伐軍に入るとして・・・。島田、おぬしの男関係について口を出すつもりはないが、シチロージといったか、あの小僧をどうするつもりだ。討伐軍に入るなら、あの小僧は連れていけんぞ」

 「儂も連れて行こうとは思っておらん。もともとアヤマロからの預かりモノだ。傷物にはできん」

 カンベエの応えにほっとしたヒョーゴだが、すぐに眉を寄せ、眼鏡を直しながら大丈夫なのだろうな、絆されてなおらぬだろうなと念を押す。

 今までの仕事は数日から長くても一か月くらいのものばかりだった。しかし討伐軍に入るとなると数カ月、1年にわたって戦場暮らしとなることもないとはいえない。シチロージの家に帰ることができるのは1年に1回か2回か。帰ることができればいいところだろう。

 数年前、カンベエは虹雅峡の家を手放すのを機にシチロージと別れるつもりだった。しかしシチロージに捕まえられて、今までなし崩しになっている。ヒョーゴが疑うのはその顛末を知っているからだ。

 「アヤマロは恨みを買ったら面倒な相手。シチロージを預かるときに貴族の娘を娶せて家柄を手に入れるつもりだと、釘を刺されている。それに・・・」

 「それに?」

 「シチロージが侍として生きていけようか」

 独り言をつぶやくようにカンベエは言った。

 人を斬った後にシチロージが一人で吐いていたことを知っている。それはいい。

 問題はシチロージが未だ人を斬る覚悟を決めていないことだ。おそらく、同じような場面になったとき、シチロージは人を斬る感触を思い出し、尻込みするだろう。

 カンベエの説明にヒョーゴは「そうだな」といった。同じような印象を持っていたのだろう。そもそもシチロージに仕事を手伝わせてみようといいだしたのはヒョーゴなのだ。

 命のやり取りは人の命を奪うという禁忌を犯すこと。そこには目に見えぬ一線がある。その一線を越えることができる、一線の向こう側で命を奪うことができるのが武士であり侍なのだった。侍であれば、刀を振るって命が失われるのは当然のことであり、そこに迷いなどない。

 ―――侍の証明である超振動が使えるかどうかは血だ。しかし侍になるかどうかは躾だ。武家の躾の中に武士として、侍として生きるための躾がある。

 そして商人の跡取りとして生まれ、育てられたシチロージには侍として躾をされたことがないのだった。

 考えに沈むカンベエを見ながらヒョーゴには不思議だった。

 ヒョーゴが知る限り、カンベエの相手は常に侍で、しかもかなりの身分の年上の男ばかりだった。

 それがどうだ。シチロージは武家の血は引いているといっても、商人の息子だ。しかもカンベエの一回り年下だという。色の薄い美しい金髪と水色の瞳を持った役者のような容姿をしているが、容姿の優れた男など世の中にごまんといる。

 ただ、超振動が使えるという、その点は気になった。だから、侍不足にかこつけて腕の方を見てやろう思って仕事に誘ったのだ。

 だがシチロージという男は、侍になることを望み、カンベエの隣で共に生きることを望んでいながら、腕前がどうとか、超振動が使えるかどうか以前の問題だったのだ。

 島田カンベエという男は侍以外になれぬ男だ。だから共に歩んでいくのであれば、相手もまた侍でなければ難しいだろう。カンベエが女を相手にしないのはヒョーゴも似たり寄ったりのところがあり、何となくわかる。

 おそらく待たせるだけになってしまうからだ。そして女はカンベエを待っていられない。それならばいいが、待っていることができた場合は不幸だ。待っている間にきっと疲れてしまう。

 そのことはカンベエ自身がよくわかっていて、だから一度はシチロージと別れようとしたのだ。

 それが今でも続いているというのがヒューゴにはわからない。

 確かにシチロージの剣幕は凄かった。まず探しだされたのはヒョーゴで、問い詰められ、カンベエに対しての人質にされた。もちろん黙って人質になってやる理由はなく、カンベエが出てこなかったら、ヒョーゴはシチロージを斬っていただろう。カンベエもそれがわかっているからとりあえずよりを戻したのだが、その後シチロージと別れようと思えば、いくらでもできたはずなのだ。

 しかしいくら副官を務めるほど付き合いがあるといっても、口出しする範囲というものがある。

 ―――島田が戦場に戻るというなら、それであの小僧と切れるはずだ

 だからヒョーゴはこれ以上、シチロージの話をするのをやめた。

 「話は変わるが、島田、キュウゾウという男を覚えているか。二刀を使う、壬申の戦で大将首を上げた侍だ」

 「ん? ・・・・・・そういえば、そのような侍がいたな。年若い侍ではなかったか」

 「当時18だ」

 「そんなものだったか」

 「おぬしは顔も知らんだろうが、俺は知っているんだ。先日、ひょんなところで会った。次の仕事で使いたいが・・・」

 ヒョーゴにしては態度がはっきりしない。不審に思って尋ねると、ヒョーゴは眉間に深い縦皺を刻んだ。

 「ひどく不愛想な奴でな。大将首を上げた後、名を聞いたことがないだろう?」

 「・・・そういえば、そうだな」

 顎鬚を撫でながらカンベエは当時の記憶を探った。大将首をあげるほどの侍であれば、その後、どこぞの武家のお抱えになったといった類の噂が聞かれるものだ。ヒョーゴの云う通り、噂を聞かなかったと思う。

 「大将首を上げたのだ。本来なら出世するはずだが、本人が望まなかったらしい。その辺のところは詳しいことを話さんのでよくわからんが、その後、激戦地を転々としていたり。何と言うか・・・、ぶっきらぼうで、異常に口数が少なすぎる。そのくせ自分本位の奴で、ともかく己の強さだけを求めている。そんな奴だから大戦後は食い詰めて、ひどい暮らしをしている。だが、間違いなく腕は立つ」

 そのキュウゾウという侍にずいぶん思い入れているのだな、とカンベエは思った。ヒョーゴは以外に面倒見の良いところがあって、カンベエに仕事を持ってくるのもそれだ。キュウゾウという侍は、どうやらヒョーゴのそんなところを刺激する男のようだ。なんにしてもヒョーゴが腕が立つというのであれば間違いはないだろうし、カンベエに嫌はない。

 「おぬしが使えると見込んだのであれば儂はかまわん」

 「そうか・・・。そのキュウゾウなのだが・・・」

 カンベエが承知するのを見込んでいたらしい。早速、キュウゾウを紹介されることになった。

 カンベエはヒョーゴの話からキュウゾウのことをいかにも意思が強そうな、転じて偏屈そうな男を予想していたが、紹介されたキュウゾウは、物静かな男だった。だが、物静かな佇まいに反して纏うコートは赤く、ザンバラに切られたまま伸び放題の髪は鮮やかな金髪という、ぱっと見はかなり派手である。顔色がいまひとつなのはヒョーゴのいう酷い生活を送っていたせいだろうか。

 キュウゾウはヒョーゴに紹介されカンベエに軽く会釈をしただけで、仕事の話をしている間もずっと目を合わせようとしなかった。話を終えてようやく目をあわせたと思ったら、開いた口から出た言葉は「俺と立ち合え」だった。

 驚いたが、キュウゾウの赤い瞳は真剣そのもので、その瞳があまりに澄んでいたためカンベエは慌てるヒューゴを抑えて承知した。

 立ち合いの結果は互角。

 しかし実際は儂の負けだなとカンベエは思う。経験の差と策を弄してなんとか互角に持っていっただけで、スピードも技もキュウゾウの方が上。もう少し長引いていたら、決定的に負けていただろう。

 負けて口惜しくないはずはないが、思う存分立ち合いをした爽快感と好敵手を見つけた喜びの方が強い。

 キュウゾウは求道者だった。

 技を極め、強さを求める。その想いはひたむきで純粋で、それゆえに美しい。それだけに軍という集団で働くことは難しかったのだろう。

 立ち合い中、思わず「惚れたっ!」と言葉にしたのは、キュウゾウの気を逸らし、油断を誘うためもあったが、思ったことが思わず出た言葉でもあった。

 これからキュウゾウのねぐらの世話をしなければというヒョーゴ達と別れてシチロージの家に戻ってきたが、キュウゾウとの立ち合いの余韻が体の中に残っている。

 横たわった布団がひんやりと感じるのは、それだけカンベエの躯が火照っているためだ。

 このままでは眠れそうになく、仕方がないと小さく溜息をついて、カンベエは上半身を起こすと、煙草盆を引き寄せて引き出しから小瓶を取り出した。浴衣の裾を広げて自身に手を伸ばすと、それはまだ柔らかかったが、直に触れ少し強めに握り込むとすぐに芯を持ち始める。

 「うっ・・・、ふっ・・・・、ん・・・、・・・・」

 カンベエは自身が育ち切ったところで小瓶の香油を掌に垂らした。甘い香りがするそれをしばらく掌で温めてから、後ろに塗り込める。そこは物欲しそうにひくひくと蠢いていた。

 あいにくこの家に張型などはない。しかし、後ろを穿たれることに慣れた躯は前だけの刺激では物足りず、達することができない。

 家の中にはカンベエ一人。声を我慢することはないのだが、カンベエは唇を噛んで声を耐え、羞恥に体中を染めながら、明らかにただの排泄器官ではない、少し膨らんでいるそこに指を忍び込ませた。自分の指で体の中を探る感覚に眉間に深い縦皺が刻まれる。

 「ふーっ、・・・・・っ、・・・・っ」

 指を根元まで収めて中を馴染ませてから指を増やして2本にする。懐紙で男根を包んでから、指をかき回すようにして、腹の裏にある泣き所を擦った。

 「っ! ~~~~~~」

 びくびくと痙攣し、自身を包んだ懐紙の中に白濁が吐き出される。

 「っ・・・・・、ふっ・・・・、んっ・・・・、はぁっ・・・」

 出すものを出してとりあえず火照った体は落ち着いたが、代わりに押し寄せてくるのは寂寥感だ。

 カンベエは放逐の余韻に浸ることもなく、起き上がると風呂に向かった。

 シチロージが風呂に金をかけただけあって、蓄電筒で湯を沸かす風呂はあっという間に湯が溜まる。カンベエはざっと体を洗うと湯の花を溶かした青みを帯びた乳白色の湯に浸かった。

 ぼんやりと湯に浸かっていると、ヒョーゴとの会話を思い出す。

 ヒョーゴにはシチロージとは共に生きていくことはできないと応えたが、その言葉にはかなり無理があった。カンベエの中にはシチロージを切り捨てることができない部分がある。

 どこかでシチロージも経験を積めば侍としてやっていけよう、さすれば共に生きていくことができようという気持ちがある。

 シチロージを連れていけば当然、アヤマロからの追跡、そして報復があるだろう。蓄電筒の商いを通じて多くの貴族や武家につながりのあるアヤマロの力は大きく厄介だ。だが、アヤマロとて万能ではない。アヤマロの力が及ばない地で、シチロージと共に暮らせばいい。

 しかし、それはシチロージが今の生活を捨てることが大前提だ。

 そうまでしてシチロージが侍として共に生きることを選ぶかどうか、カンベエには確信が持てない。

 最近、シチロージが商いに熱心なことを知っている。しかもかなりの利益を上げているらしい。となれば商いが面白いだろう。そもそも跡取りとして幼い頃から教育されているのだ。商いこそ、シチロージの適性なのかもしれない。

 そしてもうひとつ。カンベエには憂うことがあった。

 それは年齢だ。いかに身体能力が高い侍とはいえ、年齢には勝てない。

 湯船から上がって姿見に映る体は、40を過ぎていながら肌にはまだ十分に張りがあるし、弛んだところは欠片もない。長年、受け手を務めてきたこともあって、今も習慣的に体の手入れを行っている。だが、どんなに鍛え、手入れをしても年には勝てない。

 今まで情人はすべて年上だったため、カンベエは自分の年を意識するようなことはなかった。しかしシチロージとは一回り近く年が違う。その一回り近く下のシチロージ相手に受け手をしている以上、年を意識するのは仕方がないではないか、と思う。

 この家に二人きりのとき、シチロージに抱かれない日はないが、今はそうであっても、数年先にはわからない。もともとシチロージは男よりも女の方が好みなのだ。

 カンベエの憂いは、所詮は年上の女房の悩みというもので、そして年下の男を持つ女が憂う様に、カンベエも加齢を理由に愛想を尽かされる、というのはひどく惨めだと思っている。

 シチロージとは虹雅峡の家を手放したときに終えるはずだったのに、今まで引きずってしまったために悩みは深くなってしまった。シチロージとはもう終わりだと考えても気持ちが裏切る。それが未練だとわかっているから苦々しい。

 キュウゾウとの立ち合いの高揚感はすっかり消えていた。次の仕事までに幾日かあるから少しの間でもシチロージと過ごそうとこの家にやってきた。カンベエが出かけると云ったためシチロージは虹雅峡に戻ったが、明日には戻ってくるだろう。

 しかしシチロージが戻ってくればますます気分が沈むばかりのような気がする。

 ―――シチロージが戻る前に、発とう

 カンベエはそう決めて冷えてきた体を浴衣で包んだ。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 帳簿の数字にシチロージは満足して鼻を鳴らした。

 カンベエと新天地に行くという目的のために商いに精を出してきたが、それに売り上げという結果が伴えば嬉しいものだ。自身で新しい顧客の開発を行うこともして、最近は商売が面白くなってきている。おかげで家を出るための金はとっくに貯まっているというのに、金はいくらあっても困るものではないのだからもう少し、という欲が出てきている。

 最近、カンベエとすれ違って会えていないことも、商いに向く気持ちに拍車をかけていた。

 カンベエと最後に会ったのは二か月近く前だ。

 カンベエが都に行かなくてはならないというから、その間虹雅峡に戻って翌日には取って返してきたというのに急な仕事が入ったという伝言を残しただけでカンベエはいなくなってしまった。

 カンベエはシチロージが人を斬って以来、仕事を手伝わそうとしない。それを不満に思いつつ、シチロージは心のどこかで安心もしていた。

 だからカンベエから仕事で会えないという文をもらっても、以前のように仕事を手伝うから一緒にいたいとごねることをせず、1日でも、数刻でも一緒の時間を作ろうともしなかった。その結果、二か月近くも顔を見ていない。

 そんなときに父親が娘を連れてきたのを見て、シチロージはさすがにしまった、と心内で叫んだ。

 貴族の家柄を欲している父親が見合いを断ったくらいであきらめるはずがないのに失念していたのである。

 「シチロージ、こちら高松家の三の姫、淑子様じゃ。淑子様はことのほか花がお好きで、南国の花を見たことがないとおっしゃるのでお連れした」

 高松家といえば大納言にまで昇進が可能な名家である。三の姫とはいえ、よくそんな家の娘を連れてきたと思うが、あいにく高松家の現在の当主は凡庸な男で、たかだか武官職に過ぎない。だが、名家であれば当然、参議にあがることを望んでいよう。そして参議に上がるには莫大な金がいる。

 ―――己の出世のため、娘を売ったか・・・

 これだから貴族は・・・、とシチロージは腹の内でせせら笑った。

 確かにアヤマロは有力武家の嫡男だが、根っからの商人であり、世間でもそのように認識されている。そんな卑しい商人風情に名家の娘がやってくるなど、なるほど世の中も変わったものだとひとりごちた。

 気の毒な娘はアヤマロに紹介されても項垂れて顔をあげようとしない。

 それも当然だろうとシチロージは眺めた。

 シチロージの肩ほどの背丈に細い肩と腰。胸のふくらみは手に収まるほどに小さく、髪の結い方や装飾具から年の頃は15か16と思われるが体が幼い。貴族の娘だのにおつきの者がいないのはなぜだろうとシチロージは不思議に思った。

 「儂はこれから商談があるのでな。シチロージ、淑子様に温室を見せて差し上げてくれぬか」

 アヤマロはさっさと出かけてしまい、娘をそのままほったらかすというわけにもいかず、仕方なしにシチロージは淑子を温室に案内した。

 季節は秋。日中こそ日があるときは温かいが、朝晩には気温が下がって寒いくらいである。ところが温室の中は初夏の温度に設定され、南国の色鮮やかな花々が咲き誇りっている。

 「まぁ・・・・、なんて美しい・・・」

 シチロージに案内されている間も俯いていた淑子は温室に入ると甘い花の香りに誘われて顔をあげた。

 シチロージは淑子の美しさに驚いた。

 艶のある緑なす黒髪に縁どられた少女らしいふくらみのある小さな顔には小ぶりの鼻と赤い唇がバランスよく配置され、筆で描いたような眉の下にある瞳はまるで翠玉のよう輝き、そこに長いまつ毛が影を落としている。

 シチロージは淑子が絵姿の少女だと気が付いた。

 数ある見合いの絵姿の中で、余りに可憐な少女の絵だったので気に入って拝借したのだ。

 好奇心が旺盛な年ごろ。咲き乱れる花々を前に、緊張が解かれたらしい淑子はシチロージの前に進み出てハイビスカスを物珍しそうに見つめた。

 「このような鮮やかな色の花を今まで見たことがありません。何という花でしょうか」

 少し後ろにいたシチロージを振り返った顔はうっすらと紅潮しており、シチロージはまるで人形が人間に生まれ変わった瞬間を見たように胸が高鳴った。

 シチロージがハイビスカスですと応えると、この花は? この花は? と次々に尋ねる様子はまったく無邪気なものだ。声もころころと鈴が鳴るようで可愛らしく、淑子に付き合って温室を案内するうちにシチロージも楽しい気持ちになった。

 「少し喉が渇きましたね。お茶を持ってこさせましょうか」

 「はい」

 「菓子はお好きですか?」

 「はい」

 「ここは暑いですから、冷たいものの方が良いですね」

 「はい。シチロージ様にお任せいたします」

 たまたま珍しい菓子があったのでそれを持ってこさせると、淑子は喜んで、しかし男の前でモノを食べるのが恥ずかしいといった風で菓子を口にした。

 温室を出る頃にはシチロージはすっかり淑子に魅了されていた。

 帰る頃になって女房が二人やってきたのは、どうやら父親が二人きりになるよう図ったらしい。

 淑子たちが乗った車を見送るシチロージの後ろでアヤマロは紅を塗った大きな口の端を上げた。

 「淑子を気に入ったようじゃな」

 「悪くはありませんね」

 いずれ結婚はしなくてはならぬと考えていたのだ。形だけの結婚であるから誰でもよいのだが、僅かな間とはいえ夫婦生活を送らなくてはならないなら、不快な女よりは気に入った女の方が良いに決まっている。

 シチロージが予想していた通り、淑子は16歳だった。温室を案内していたときの淑子は年頃の娘らしい明るさや好奇心を見せていたが深窓の姫君らしく何にも従順そうなところが伺えた。

 武家以上に貴族の結婚は家同士のものだという。そうした事情のもとに生まれた姫は従順にと育てられるものなのだろう。淑子ならば結婚相手が誰であっても、両親に、そして夫に従順だろうと思われた。

 ただ、それだけならば単なる人形だが、そう言い切ってしまうには淑子は可憐すぎた。

 陶器のような滑らかな頬も、小ぶりの唇も、好奇心にキラキラと光る瞳も今までシチロージが知らなかったものだ。淑子は今までシチロージが関係した女の誰とも違っていた。

 「ならば話を進めてよいな、シチロージ」

 「えぇ」

 まぁ、淑子なら良いだろうという軽い気持ちで返答したシチロージだったが、結婚の日取りを聞かされ、さすがに慌てた。

 「父上、ちょっと待ってください。淑子とは今日初めて会ったのですよ。それが10日後に結婚とはどういうことです。貴族との結婚ならいろいろしきたりがあるものでしょう」

 「それらの習わしなら、とうに済んでおる。淑子の父親にはたっぷりと黄金を送ってあるから、来月には参議に上がれよう」

 シチロージは呆気にとられた。自分がいないところですっかり結婚の準備が整っていて断ることができないようになっている。

 ―――こんなに急に・・・。カンベエ様にどう話したらよいか・・・

 問題はカンベエにどう事情を説明するかだ。結婚のことについては具体的になってから話せばよいと思っていたから、今まで結婚についてカンベエと話をしたことがない。

 ―――とにかくカンベエ様に会わなくては。まずはそれから。

 カンベエと会う算段をしているところに、アヤマロはもうひとつ爆弾を落としてくれた。

 「シチロージ、結婚したらしばらく・・・、そうさな半年くらい新婚旅行を兼ねて支店を回ってきてくれぬか。いや、回ってきてもらわぬと困る」

 「はぁっ? 父上、どういうことですか」

 結婚は形だけと思っていたシチロージは新婚旅行など考えもしなかった。しかも半年もとは一体どういうことか。

 「淑子をどう思う」

 「美しい娘ですが? それが何か」

 アヤマロはうんうんと頷いて、淑子に関わる問題を説明した。

 「あの通りの容姿ゆえ、淑子を欲しがる者はほかにもおるのじゃ。中でも山井家の子息が熱心で、淑子が14の頃から恋文を送りつけていたという。山井家の子息は先の討伐軍に加わり、武州の者と互角にやり合ったという荒者で、怒ると何をするかわからぬという評判だ。山井家と高松家は共に武官職だから付き合いもあって正式な申し込みもあったのだが、高松は参議になることを望んでいたから、懐事情が同じ山井家にやるのを惜しんで淑子が幼いことを理由に断わり続けていたらしい。その淑子をそなたが娶ったとわかれば、厄介なことになるかもしれぬ。いや、高松の恐れ方から杞憂ではなく、本当に厄介なことになるといってよいじゃろうの。だからしばらくあちこちを回ってきて欲しいのじゃ」

 なるほど、淑子の容姿では、ほかの男が目に留め、夢中になることもあろうと思う。しかし、新婚旅行代わりに半年間も支店を回るとなると、カンベエと会う機会を作るのが難しくなってしまう。家を出る相談もまだカンベエにはしていないのだ。

 シチロージは頭を抱えた。

 『父上はまさかあたしが山井家の子息に討たれるとでも思っているのですか?』

 以前のシチロージであれば、いくら腕が立つといっても所詮は貴族。逃げ回る必要などない、そうはっきりと云っていただろう。

 しかし今のシチロージには武州の者とやりあった戦経験を持つ男相手に、来るなら来いなどと云うことはできなかった。

 武士団の全員が侍といえるほどに強い武州の者達とやりあい、生きて帰ってきたのであれば、それは侍に匹敵する力の持ち主ということではないか。そんな者と本気でやり合えば、どちらかが命を落とすこともありうる。そんなことで命を落としたら、侍になることも、カンベエ様と暮らすこともできなくなる。

 シチロージは自分が斬り捨てられる想像をして、背筋が寒くなった。

 通常、時を経ることによって記憶は薄れていくものだが、繰り返し思い出しているうちにトラウマになってしまうことがある。シチロージの場合、後者といえる。侍にかかわることから簡単に人を斬った感触が連想され、繰り返し思い返していたことにより時を経ても記憶は薄れず、むしろシチロージの中で恐ろしい記憶として増幅しているようである。

 「どうせならば新婚旅行で淑子に子を仕込んできてくれぬか。淑子が孕めば、さすがに山井家の子息もあきらめよう。男児なら、いやなんなら女児でもよい。子ができたら、孫を跡取りとすればよいからの。そちが侍になりたいというなら、もう邪魔はせん」

 シチロージはヒュッと息を飲んだ。

 ―――父上は今、なんといった? 侍になってもよいと?

 それは耳を疑う言葉だった。

 「父上、それは・・・・、それは本当ですが? 孫ができれば本当に、本当にあたしが侍になることを許してくれるというのですか」

 俄かに信じられず、思わず声が震える。

 ―――今まで散々邪魔をしてきて・・・。そのためあたしは・・・

 侍になることをことごとく邪魔されて自暴自棄となり無気力な日々を送ったことを思い出すと、なぜもっと早くに言ってくれなかったと詰め寄りたくなる。その言葉がどれほど欲しかったことか・・・。

 だがそのためにカンベエに預けられ、想いが通じたことも確かだった。

 「父上、本当ですね。淑子が子を産めば、本当にあたしが侍になることを許してくれるのですね」

 念を押すシチロージにアヤマロはよかろうといって応えた。

 シチロージの胸の中で渦巻く思いは簡単に決着がつくものではない。だからといって、怒ったところで時間が戻るわけではない。それよりもようやく望みが適う、そのことの方が大きい。侍になることが許されるというなら、結婚など、なんということもない。淑子に子供を産ませるという条件も不可能なことではないはずなのだ。

 ―――父上が孫を望むのでれば、石女を用意するはずはない。

 早くて1年の時間はかかるが、今までの月日を考えると条件は容易いことのように思える。

 だが舞い上がり気味だったシチロージはふいに淑子のことが気になった。

 ―――あたしが侍となり、家を出た後、淑子はどうなるのだろう・・・

 淑子の可憐な姿が思い出されてシチロージの気分は沈んでいく。

 ―――父上が許すというのは、アタシが家を出たあとの面倒も、当然、承知の上で云っているに違いない。だから心配はいらないはずだ。淑子の実家の高松家は起こるだろうが黄金でカタを付けられるだろうし。淑子だって・・・。淑子には何不自由ない暮らしを用意するはずだ。

 シチロージはそう自分を納得させると仕事に戻った。とにかく早くカンベエと連絡を取らなければならない。カンベエの居所を確かめると北方への派遣軍にいることがわかり、シチロージは眉を顰めた。

 黒田家との契約を解除し西方から戻って以来、カンベエは要人の護衛といった金になる仕事をしていたのだ。それが軍など大した金にならない仕事をするとはどうしたのだろうか。それとも最近は地方で反乱が多発しているから、軍も金払いがよいのだろうか。

 カンベエが軍にいる理由はともかく、北方にいるなら結婚するまでに会うことはかなり厳しいと思われた。

 それでも万が一がある。一縷の望みをかけてシチロージは文を出した。

 しかし結婚する当日になってもカンベエからの便りはなく、シチロージは淑子との式をあげて、その足で新婚旅行に発った。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 北方の冬は早く、10月には雪が舞う。じっとしていると末端の手足が鈍くなる寒さだ。しかし、今、街道の両脇の茂みに潜む侍達は、これから起こる戦を思って心が逸り、高鳴る心臓の音に寒さを忘れていた。

 多くの動物たちが生息しているはず森は、普段は様々な音に溢れている。しかし今、森の中は不思議なほどの静寂に包まれ、それがいやがおうにも緊張を高める。

 あと少し緊張が続けば耐え切れずに叫びだす者が出てくるのではないか。

 そんな緊張が張り詰めたぎりぎりのところで、街道の先から人が駆ける音、金属がぶつかる音、機械の動力音といった音が聞こえてきて、街道の両脇に潜む者たちはほっと安堵の息を吐いた。

 その音が死を連れてくるものだとしても、この緊張が終わるならそれでよいという吐息だ。

 カンベエは街道の先から聞こえてくる音から距離を測った。

 いくつかの音の中に虫の羽音のようなぶーんという音が混じっている。2体が合体したときの跳兎跳の飛行音だ。跳兎跳はその名の通り、空中に跳び跳ねことができる機械の侍で、雷電や紅蜘蛛といった人が改造された侍と異なり、頭の先からつま先まですべて機械の部品でできている。動きが素早く、センサーで人を認知するとひたすら人を襲う殺人マシンだ。

 ―――跳兎跳まで所有しているとは・・・

 カンベエは眉を顰めたが、今は考える暇はない。音は先ほどよりもはっきりと聞こえる。すぐにやってくるだろう。そして敵はすべて殲滅しなくてはならないのだ。

 街道の先では、キュウゾウ達3人の侍が敵を釣るべく、攻めては逃げるという難しい戦をしていた。紅いコートを纏うキュウゾウはよく目立つ。だからなのか跳兎跳はキュウゾウを狙って飛び回っていた。キュウゾウは街道の脇にある木を利用して跳び、跳兎跳に刀を振り下ろしたが、跳兎跳は2体に分かれてキュウゾウの刀を躱した。だが、それを予測していたキュウゾウがもう一本の刀を横に払い、跳兎跳の胴体の一部を斬る。これで跳兎跳は合体して高速移動をすることができない。キュウゾウは飛んできた跳兎跳と刀を交わして後退した。ほかの2人の侍もまた甲足軽を斬り捨てながら後退する。甲足軽もまた全身機械の侍だが人型に近いせいか、動きが細やかで刀を上手く使う。

 攻めては退くキュウゾウ達の様子を伺っていたらしき跳兎跳と甲足軽は、ようやく倒すべき敵と認識したらしい。すべての跳兎跳と甲足軽がキュウゾウ達3人を追ってきた。

 甲足軽より足の速い跳兎跳が空中に飛びキュウゾウ達の前に着地する。そこを狙って2人の侍が足を狙って打ち込むも、跳兎跳は飛んで刀を躱した。しかし飛ぶのを狙って跳んでいたキュウゾウが跳兎跳の腕を切り落とした。

 紅いコートを翻してキュウゾウが着地したのを見たカンベエは、反対側で伏せているヒョーゴ達に合図をすると、後ろにいるヘイハチ達を振り返った。

 「ヘイハチっ! 矢榴弾をっ」

 「承知っ!」

 小柄な体が茂みから躍り出るのと、キュウゾウ達がカンベエのところまで駆けてきたのはほぼ同時。キュウゾウを追ってきた跳兎跳に向かってヘイハチ達が矢榴弾を放ち、爆発したのを機にカンベエ達は茂みから躍り出た。

 爆発の黒煙を利用して一気に距離を詰める。向かってきた跳兎跳をカンベエは飛び跳ねる前に一刀両断した。

 釣りの野伏せの釣りの役割をしたキュウゾウたちもやってきて甲足軽を囲い込み、一体、また一体と仕留めていく。

 「一機も逃すなっ!」

 カンベエ達の仕事は、一機も逃さず機械の侍達すべてを葬ること。

 カンベエは刀を横に払って甲足軽を二つにしながら逃げていく跳兎跳を目の端で捕らえ、刀を投げた。

 「キュウゾウっ!」

 カンベエの刀は跳兎跳の胴体を貫き、跳兎跳は飛行ができなくなったが、まだ足は動く。カンベエの声に応えてキュウゾウは逃げる跳兎跳に向かって跳躍した。

 キュウゾウが跳兎跳をバラバラにするのを見たカンベエは周囲を見回した。機械の侍達はすべて地に倒れ、目の光が完全に消えて沈黙している

 「皆、無事か?」

 怪我人がいないのを確認してカンベエは戻ってきたキュウゾウから刀を受け取った。

 「キュウゾウ、よくやってくれた」

 今回の戦で一番働いたキュウゾウをカンベエは労ったが、キュウゾウはただ頷くだけで向こうに行ってしまった。そっけないが、キュウゾウが満足していることが何となくわかる。

 「これほど機械の侍を揃えているとは、北国の力、侮れませんな」

 いつの間にか傍らにやってきたゴロベエの言葉にカンベエは「そうだな」とだけ応えたが、内心は複雑だった。北国がこれだけの軍事力を持っているということが後々の災いとなるのではないか、そんな予感がある。

 先日来、カンベエは15人の雇われ侍で小隊を作り、鎮守府を襲うためにやってきた機械の侍たちを葬っていた。襲撃部隊はすべて跳兎跳と甲足軽といった機械の侍で、生身の武士、侍は全くいない。

 二千の兵がいる鎮守府を僅か30機程度の機械の侍で落とせるわけがなく、目的は嫌がらせだろうとカンベエは見ている。機械の侍であれば捕らえられて情報を吐く心配もなければ使い捨てにできる。

 カンベエはひと月前に鎮守府から少し離れた場所に置かれた陣に入り、とある筋から知らせを受けてはこっそり出陣し、機械の侍たちを葬った後、何事もなかったように戻るということを繰り返していた。

 面倒なことだが、それだけの事情があった。

 このふた月の間、北方の守りの要である鎮守府と北国との間で緊張状態が続いている。

 事態は鎮守府の横暴が招いたことだった。

 今でこそ、都と物や人の往来があり、都の文化なども入ってきているが、都から遠方の上、途中に高い山脈があるために昔から北方は朝廷の威光が届かない土地だった。独自の文化を持ち、自治を行っていたのである。その北方の約7割に当たる土地を治めているのが北国。あとは山間部の小さな平地を利用した小国がいくつかある。

 大戦中、北国は敵味方、なかなか態度を明らかにせず、終戦の間際になってようやく態度を決めたものの、しかし出兵はせず、その代わりに金を治めて終戦を迎えていた。

 そんな北国を朝廷は信用していなかった。

 そのため大戦以前から北方の守りとして国境に置かれていた鎮守府に兵を常駐させ、北方の監視を行っていたのである。

 その鎮守府の長官が北国に対して不当な金を要求したのがことの始まりだった。

 朝廷は全国の金山から毎年産出量を届けさせていた。金の価格を安定させるためである。それは金の一大産出地である北国も同じ。しかし朝廷は北国から産出量が正しく報告されていないのではないか、以前からそのような疑問を持っていた。

 朝廷と同じ疑念を持っていた鎮守府の長官は、赴任して都にも劣らぬ、都以上ともいえる北国の繁栄ぶりを目にして、朝廷に報告していない隠し金山があると決めつけた。そして隠し金山に目を瞑るかわりに北国に金を要求したのだった。北国が要求をはねつけると、村を襲って女達を攫い、犯した。北方の女性たちは一様に肌が抜けるように白く、美人が多い土地といわれている。

 当然、北国は鎮守府の横暴を朝廷に訴えたが、それはどこかで握りつぶされ、朝廷へは鎮守府から北国の隠し金山の疑いだけが報告された。

 朝廷は北国に対して上洛して申し開きをすることを要求したが、北国としては上洛する間に鎮守府がある以上、無事に上洛できるとは思えないと考え、朝廷からの催促に応じなかった。そして鎮守府と北国が睨み合う事態となったのだった。

 北国は宗家と、同列の三家によって治められているが、朝廷と鎮守府に対する考え方はそれぞれ異なり、まとまっていなかった。機械の侍を使って鎮守府を襲おうとしたのは北国を治めている4つの家のひとつで、鎮守府に兵を入れて威嚇し、北国の自治を犯しかねない干渉をする朝廷に対して一戦も辞さずという考えを持っている。

 北国の訴えを握りつぶしたのは、帝を傀儡として権力を握ろうとする右大臣の一族、そして鎮守府の長官はその右大臣の弟。

 これだけ状況が見えていれば解決の道筋が立てられそうなものだが、実際の状況が解決を難しくしていた。

 現在の状況を改善するはずの朝廷では、帝に実権がなく、重要な役職は右大臣の一族によって占められている。右大臣の一族は北国の黄金を手に入れたがっており、朝廷はもともと都から遠く離れ威光が届かない東方の武州や北方を野蛮人と蔑んでいるから、積極的に対策をとろうとせず、右大臣たちのすることに反対を唱えることもない。

 帝とその側近たち、時勢を見ることができる貴族たちは、全国の平定が未だ成らぬこのときに、北方の騒動が長引けば、反乱を勢いづけかねないと憂慮したものの、出来たことといえは鎮守府と北国が不慮の事態により戦とならないよう、二者の間に百人程度の兵を派遣したことだった。

 ただし、そこにカンベエ達、一騎当千の侍を加えることで、部隊は一個大隊にも匹敵する戦力となり、現在、鎮守府と北国の双方に睨みを利かせている。

 それが功を奏してカンベエたちが布陣してから鎮守府の兵たちの乱暴狼藉は一切なくなったという。

 北国の中にも、今後の国の在り方を思い、朝廷とよしみを通じよりよい関係を模索するべき。そのため今回の王道も穏便にすませようとする者たちがいて、カンベエたちはそんな北国の穏便派から情報を得て鎮守府への攻撃を未然に防いでいた。

 今回の騒動の原因と今まで右大臣の一族が行ってきた不正の証拠を帝の側近達は集めており、近く帝は右大臣を罷免し、一族の者も処分するつもりでいる。カンベエ達の仕事は、それまで双方に睨みを効かせ、不測の事態を招かないようにすることだった。

 

 カンベエが陣に戻ってみると、シチロージから文が届いていた。油紙を除いて文を開くと紙に焚き染められた伽羅の甘い香がふわりと漂う。香りに触発され、カンベエはふた月以上会っていない情人を思い出した。

 お互い忙しくてすれ違いばかり。この北方の仕事が決まっても会うことができず、結局、シチロージとの関係をはっきりさせないままになっている。

 文は大事なことを直接会って話したいという内容で、指定された日付は明日であった。油紙にくるまれていたから香が残っていたが、末尾に記されている日付を見ると10日前の日付。文が届くまでにかなり時間がかかってしまったようだ。

 通りがかったゴロベエが微香を嗅ぎ取って、ほぉという顔をする。

 「伽羅ですかな。カンベエ殿も隅におけない。恋文とは」

 「ん? いや・・・。単なる知らせだ」

 「そう、隠さずとも。カンベエ殿にそのような顔をさせるとは、焼けますなぁ」

 ゴロベエはそれ以上聞かずに部屋から出て行ってくれたため、カンベエはもう一度文を読み返して元に戻した。高速艇を飛ばしてもシチロージの家まで2日かかる。それ以前にカンベエは自然と雇われ侍たちの首領のようにとなっており、この場から離れるわけにはいかなかった。

 カンベエは文を自分の荷物の中に仕舞うと、状況については詳しく語らず、ただしばらくは仕事で会うことはできないと文をしたためた。この時期なら、まだ文は届くはずだと封をして当番兵に預ける。

 雪が降ると、北方への道は閉ざされてしまうため、それまでに決着がつかなければ、この騒動の決着は翌年の春まで持ち越されてしまう。

 恨みは時とともに風化することもあるが、鎮守府という恨み対象が目の前にあれば、時をおくほど北国の恨みは募るだろう。

 すでに鎮守府と北国は二ヵ月睨み合っているのだ。雪で道が閉ざされるまでに解決するのが得策のはずだった。それには年の瀬までに、帝とその側近達が右大臣一族の不正を明らかにして、鎮守府の長官の交代を決めなくてはならない。

 ―――うまくことが運べば、今年中にはシチロージに会うことができようか・・・

 そう思った途端、シチロージに会いたくなった。

 ヒョーゴにも釘を刺されているというのに、すっかり絆されてしまっている。

 シチロージがいつ、これほどまでに深く自分の中に刻まれた存在になったのか、カンベエにもわからない。一度は別れようとしたのだ。しかしシチロージに掴まった。

 シチロージは今までの情人と何もかも違う。侍の力は持っていても侍ではなく、年下。そして一番の違いは、何の打算も見返りもない情人だということだ。

 今までの情人は雇い主であったことが多く、そのため常に何かしらの打算があった。名を上げるまでは好まない相手に身を任せたこともある。その見返りに、情報や金を得た。

 想いを寄せた情人もいたが、やはりそこには何かしら打算や見返りがあって、だから必要がなくなれば切ることができた。

 しかしシチロージにはそれがない。

 以前の情人たちのように何か搾取されるような思いをすることもなく、カンベエもまたシチロージに見返りを求めることもない。シチロージとの時間はいつも心地よく、交情にいたってはこれほど相性がよい相手がいるものかと思うくらい溶け合える。だから絆されてしまったのかもしれない。

 だが、カンベエの想いに関わらず、北方に積雪するほどの雪が降り始めても朝廷の勢力図が変わることはなく、鎮守府と北国は睨み合ったままで北方は雪に閉じ込められてしまった。

 ようやく事態が動いたのは北方に遅い春がやってきた頃。

 鎮守府の長官の交代が決まり、新たな長官が赴任して、カンベエ達雇われ侍と派遣隊は雪のように桜の花びらが舞う中、ようやく陣を引き払った。

 派遣隊が布陣してから8ヶ月近い月日が経っていた。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 「シチロージ様」

 ベッドの背もたれに体を預け、足を投げ出して書類を読んでいたシチロージは胸元と局部を覆っただけの露わな着物に夜化粧してやってきた淑子の手を掴むとベッドに上がるようにいざなった。

 ベッドに上がった淑子はシチロージにぴたりと体を寄せ、首筋に顔を埋めた。淑子の体は以前よりも少しふっくらしている。以前が細すぎたため、太ったというのではなく、少し丸みを帯びた程度だ。

 シチロージが頭を撫ででやると、淑子は伸びあがって口づけを強請った。シチロージが紅を引いた赤い唇にちゅっと音をたてて口付けをしてやると満足気に微笑んで、シチロージの裸の胸に何度も口づけして紅の跡を残した。

 胸から腹に降りていった淑子は下帯の上からシチロージのものを確かめ、それがまた熱を帯びていないとわかると下帯から取り出して頬ずりした。

 口を精一杯開けてシチロージの先端を頬張り、舌を這わせる。小さな口は見た目に反してシチロージのものを深く飲み込んでみせたが、すべてを含むことはできない。代わりに淑子は両手を使って竿と袋を握り、シチロージの奮い立たせようとした。足の間にある頭を軽くポンポンとすると、淑子は腰を振って喜ぶ。

 そんな淑子の腹は一目で子を宿しているとわかるほどに膨らんでいた。

 先月まではつわりがあったが、現在は吐き気も収まり、つわりで食べることができなかった分まで食べようというのか驚くほど食欲旺盛で、そのためにふくよかになった。経過は順調だった。

 シチロージのものが芯を持ち始めると淑子は先端を口に含んだまま、上目遣いでシチロージを見た。望む通り、にっこり笑って頭を撫ででやると、再び嬉しそうに舌を使う。

 奉仕の仕方はシチロージが教えた。

 汚れひとつない積雪に足跡をつけるように、真白な布を自分の思い通りの色に染め上げるように、シチロージは何も知らなかった淑子に男女の交わりを教えた。

 様々な女と散々に遊び、ありとあらゆる経験をしてきているシチロージにとって、淑子を仕込むことは難しいことではなく、驚いたのは淑子が抗うこともせずすぐに順応したことだ。

 貴族の娘とはそのようなものなのか、淑子が特別そうなのかわからないが、淑子は初めてのときこそ破瓜の痛みに涙を浮かべたものの、シチロージがたっぷりと手間と時間をかけて体を開いていったこともあり、最後には快楽に酔って嬌声をあげた。その後もシチロージが教えればその通りに従ってみせ、少し前までは男女の交わりのいろはすら知らなかったのが嘘のように、娼婦もかくやという嬌態を示すようになった。

 淑子はきゃしゃな体に似合わず、普通より大分大きいシチロージのものをやすやすと受け入れ、欲望を何度でも受け止めることができた。シチロージの連日の求めにも堪える風もなく、ひと月もせずに、すっかり慣れてしまっていた。

 そして新婚旅行二か月目に淑子の妊娠が分かった。

 淑子は妊娠が分かった後もシチロージを欲しがったが、つわりのためにそうはいかなかった。だかひと月もするとつわりが収まり、シチロージを欲しがった。そこで今までのようにすることができないことを説明して代わりに奉仕の仕方を教えた。

 淑子はシチロージが望めば何の疑問を浮かべることなく応じて見せる。まるで世界の中心にいるのがシチロージで、その周りをまわっていることに何の疑問を持たない星のようだ。

 そしてそんな風に淑子を作り上げておきながらシチロージはすでにもて余していた。

 淑子はあまりに従順すぎ、自分というものがない。

 確かに淑子の容姿には心惹かれた。始めの頃は淑子の従順さを可愛いとも思った。

 しかし、シチロージが淑子と結婚したのは、自由になりカンベエと共に生きるためだった。

 淑子に夢中にならなかった、とはいわない。

 淑子との結婚にシチロージは浮かれていたし、男女の交わりを教えるのも楽しんでもいた。

 だが淑子の妊娠が分かると、目が覚めた。子供が出来たことを告げられて感じたのは喜びではなく、目的を達したと思ったのだ。つわりで弱っていく淑子に気遣う風を装いながら、シチロージが考えていたのはカンベエのことだった。

 カンベエが北方の陣中にいることはわかっている。

 だからシチロージはカンベエに文を書いた。淑子との結婚のこと、そしてその後の顛末を長々と綴り、急に結婚が決まったため直接会って話ができず文にて説明することになったことを詫びた。おかげで手紙は長くなり巻物のようになってしまった。

 しかしいくら待てどもカンベエからの文が返ってくることはなく、シチロージはてっきりカンベエの怒りをかったと思い、その後も詫び状のような文を書いては送り続けた。文と一緒に着物や贈り物を送ったこともある。しかし何十通送ってもカンベエからの便りはなく、愛想を尽かされてしまったかとシチロージはひどく落ち込んだ。

 浮上できたのは北方の状況がかなり緊迫したものであることを知ったことと、またシチロージは北方とは今まで取引をしたことがないためよく知らなかったが、北方では10月には雪が降り始め輸送が難しく途絶えがちになるという。特に今頃、年の瀬の少し前から年明けの2月までは天候が荒れることが多く、気温が零下20度を超えることもあって、人とモノの行き来はほとんど途絶えるらしい。

 ―――ならば、文と贈り物はどこかに留め置かれて、カンベエ様の手に渡っていない可能性が高い。もし届いていたとしてもカンベエ様だって便りを送ることができないじゃないか。

 シチロージは北方との行路が開けたらすぐに文を送ろうと気を取り直し、淑子のことをもう少し気にかけるようにした。なんせ淑子には無事に子供を産んでもらわなくてはならないのだ。

 シチロージが放逐したものを口の中で受け止めたことを見せてから飲み下す淑子をシチロージは横たわらせて膨れた腹を摩った。

 「シチロージ様・・・」

 頬ずりして腹の中の子の鼓動を聞き取ろうとするシチロージに、淑子は嬉しそうに微笑みシチロージの髪を撫でた。

 ―――どうか無事に。できれば男児を産んで欲しい。そうすればあたしは家を出て、カンベエ様の元に行ける。

 シチロージは淑子の腹を摩りながら、そう願った。

 

 

 格納庫の一角では暖を取るために火が炊かれ、火の上に吊るされたヤカンがしゅんしゅんと音をたてて湯気を吐いている。その側の大八車にもたれかかり、先ほどから二つの獣が蠢いていた。

 「ふっ・・・・んっ、んっ・・・あっ・・・、ん・・・」

 カンベエは自分の後孔が女陰となってしまったような想像におびえながら、先ほどからそこを行き来する傍若無人なものから与えられる快楽に小さな悲鳴をあげ続けていた。

 自分より一回り大柄なゴロベエのものは体に比して大き過ぎた。そんなものを受け入れている自分の後孔がどうなってしまっているか、その考えが受け入れるようにできている女陰を想像させる。

 「カンベエ殿、耐えられよ」

 背を向けて抱えられ、揺すられているカンベエの口を大きなゴロベエの手が塞いだ。

 「っ~~~~!」

 次の瞬間、最奥を突かれて目の前に星が散る。あまりに強い刺激に意識が飛びかけているカンベエに構わず、ゴロベエはカンベエの腰骨を抱え、がつがつと何度も最奥を突いた。揺すられる度にカンベエは魚が撥ねるようにビクリ、ビクりと痙攣し、男根はぽたぽたと取り留めなく白濁を零した。ようやく探り当てた大八車のふちを掴んで縋りつく。

 ゴロベエは何度目かカンベエの奥を突いた後、ぶるっ大きく震えると腰を引いてカンベエの尻に向かって放逐した。カンベエの尻は大量の白濁で汚され、それは湯気をたてていた。

 ゴロベエはすぐに白濁を懐紙で拭うと、膝が崩れかけたカンベエを抱えて大八車の縁に持たせ掛けると上着をかけて盥に湯を入れて持ってきてくれた。大八車の縁に腰かけたゴロベエの膝に乗せられ、尻だけでなく足の間や太腿、腹を手ぬぐいで丁寧に清められる。

 「・・・っ」

 大きすぎるもので最奥を責められ続けた余韻でうまく動けないカンベエは、それでもゴロベエの膝から降りようとしたが、ゴロベエにがっちり抱え込まれてしまった。

 「カンベエ殿、そのまま、そのまま」

 そういってゴロベエはカンベエを抱え上げ、喜々としてカンベエの身体を清めていく。ありがたいが、幼児に小水をさせるように足を持ち上げて開く必要がどこにあるのか。

 だが脱力して体に力の入らないカンベエはゴロベエの好きにさせた。

 やり方はともかく全身を丁寧に拭われ、気持ちが良い。

 「こうしてカンベエ殿と過ごすことができるのも、あと僅かですなぁ」

 春の訪れが遅い北方では桜が咲くようになっても雪が降る寒い日が幾日かある。ゴロベエは用意しておいた毛皮にカンベエを包み込むと胸に抱え込んだ。

 都では右大臣の一派が失脚し、鎮守府の現在の長官の罷免と新しい長官が発表になった。新しい長官が赴任してくるのは2週間先で、それを見届けてカンベエたちは陣を引き払う。鎮守府が鼬の最後っ屁で何かしかけてくる可能性は皆無ではないため用心を怠ることはないが、事態の収束が明らかなことから、陣中は何となく穏やかな雰囲気に包まれていた。

 日中に人目を避けてゴロベエと媾うなど、その最たるものといえる。

 「まだ2週間ある。今回の騒動はこれで収まるが、儂らが去った後、北国は本当に試される時を迎えることになるかもしれん」

 「カンベエ殿はずいぶん北国のことを気にかけておられるようだが?」

 「そうではないか? おぬしの報告次第で北国の行き先は厳しいものになろう」

 「それは買いかぶり。某は事実を報告しただけでそれをどう判断するかは朝廷でござるよ。・・・・・・しかし気づかれているとは思うておったが、どうして気付かれましたかな」

 「街の様子やら、まるで見て来たように北国のことを知り過ぎている。儂やおぬしのような肌の者が北国に入れば目立つであろうに」

 ゴロベエは浅黒いカンベエよりもさらに肌の色が濃い。

 「それはうかつであった。やはり思っていた通り、カンベエ殿は恐い方ですな。ならば某の誘いに乗ってくれたのも、某の正体を確かめるためですかな」

 それは違うとカンベエは首を横に振った。

 ゴロベエとは、派遣隊が編制されたときに知り合ったが、初めから気心の知れる相手とわかり、北方に布陣してからは、ヒョーゴとともに参謀役を務めてもらっている。そのときからあからさまに口説かれていたが、複数の情人を持つのはカンベエの趣旨に反することで受け流していた。

 そのためゴロベエの口説き文句はカンベエにも周囲にもまるで枕詞か挨拶のように思われていたのだが、あるときからカンベエはゴロベエの誘いに乗り、それから続いている。

 「おぬしのこと、最初は高家の時宗殿が雇った者と思っていたが、違うようだな?」

 「某はですな・・・」

 ゴロベエはカンベエを引き寄せると、耳元である人物の名を囁いた。

 カンベエは軽く挑発してみただけだったのだが、告げられた人物の名に驚いた。何より、ゴロベエが簡単に告げるとは思わず、それに一番に驚いてゴロベエの顔をじっと見詰めた。

 雇い主の秘匿も仕事のうちであろうに、それをあっさりと白状するとは何か思惑があるのでは疑うのは当然だろう。そんなカンベエをゴロベエは笑った。

 「雇い主を告げたのはカンベエ殿が北国に肩入れをしているように思えるため。某、戦は大好きでござるが、愛しい恋人と刀を交えるのはごめん被りたい」

 「ぁ・・・んっ!」

 ゴロベエの太い指に後孔を撫でられ、カンベエはつい甘い声を漏らした。カンベエは毛皮の下は上着を羽織っているだけ。先ほどまでゴロベエのものを受け入れていたところは柔らかくなっていて、少し力を加えられれば簡単に指を咥えた。

 「某、カンベエ殿とは、こうしていた方がよい」

 毛皮を開かれて胸の飾りを含まれたカンベエはまた「あ、んっ」と可愛らしい声を上げてしまった。

 ゴロベエにさんざ吸われた胸の飾りは赤く腫れぼったくなっている。ツンと立ち上がったそこを舌先で舐られると、せっかく体を清めたというのに収まった熱がまたぶり返してしまう。カンベエは身をよじったが、ゴロベエの太い腕はカンベエの腰をがっちりと掴んで離さない。

 「やぁっ、も・・・、ゴロべ、そこはっ、も、もうっ、やっ、あぁっ・・・んっ」

 「なぁ、カンベエ殿、そう思われぬか?」

 もう出るものはないというのにカンベエの男根がうっすら立ち上がるのをみて、ゴロベエはカンベエの中に指をぐっと埋め、前立腺をぐりぐりと押した。

 「ひぃっ、あっ!」

 「カンベエ殿、もう一度。よろしいかな?」

 「あっ、い、いいっ、あっ! いっ・・・」

 泣き処を責められてカンベエにまともな返事ができるはずもないのは承知の上。ゴロベエは大八車に上がるとカンベエを毛皮の上に転がして、足首を持ち上げて大きく開かせた。指が抜かれたカンベエの後孔はほんの少し口を開けている。ゴロベエはうっとりと見詰めて、いつの間にか力を取り戻していた男根をひたりと添えた。カンベエのそこが先端に吸い付くのを見たゴロベエはたまらなく愛おしいといった風にカンベエを見詰め、微笑みながら、根本まで一気に突き立てた。

 「ひっ、ぃ―――っ!」

 カンベエは声にならない悲鳴を上げた。先ほどまで受け入れていたといっても、カンベエの肉襞はいつまでもゴロベエの男根の形のままではいない。柔らかくなっているとはいえ、大きすぎる男根に肉襞は引き攣れ、最奥をいきなり先端で突かれた衝撃に、カンベエはそこから頭の頂点まで稲妻が突き抜けたようで、頭の中が真っ白になった。感電したように手足が聞かず、ぐちゅぐちゅと粘着質な音をたててゴロベエが行き来する度にびくり、びくりと震える。

 「カンベエ殿、今度はカンベエ殿の中によろしいかな? あぁ、後始末は某がしっかりして差し上げるゆえ、心配はいりませんぞ」

 すでに意識が快感に支配されているカンベエには、ゴロベエの言葉は耳に入っても、それを理解するに至らず、ただ、うん、うんと頷いて、力の入らぬ腕を上げしがみついた。そんなカンベエをゴロベエは愛し気に抱きしめながら、己の剛直を容赦なくカンベエの中に突き立てた。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 年を越え、虹雅峡では桜が散って葉桜となってしまった頃、何の前触れもなく、右大臣とその一族が失脚するという政変が起きた。シチロージの商いにはそう問題はなかったが、アヤマロは一時半狂乱になった。蓄電筒の商いで右大臣とその一族はかなりの太客だったのである。しかし半狂乱は一時のことで、アヤマロはすぐに気を取り直し、帝の側近たちへの接近を図った。

 こと商いにおける父親の転換の早さに感心しながら政変に注目していると、現在の鎮守府の長官が罷免され、新しい長官が決まったという知らせが入ってきた。現在の鎮守府の長官は右大臣の弟だ。これで北方の状況も大きく変わるはず。そこでシチロージは、またカンベエに文を書くことにした。

 北方の行路が開いてからすでに数通の文を送っていたが、カンベエからの便りはやはりない。

 ―――もしかしてカンベエ様は今回のことに関わっていたのではないかしら

 カンベエからの便りが全くないことからシチロージはそんな風にも考えた。

 今回の政変は貴族にもそして朝廷にも通じている、地獄耳の父親が事前に情報を掴んでいなかった。それほど意表をついた事件だったのだ。

 それだけ帝の側近たちが隠密で動いていたということであり、鎮守府と北国の両方を牽制するために送られた派遣軍と共に北方にいったカンベエが何らかの情報統制を受けていたとしても不思議はない。

 浮かんだ考えが真実のように思えて、シチロージは改めてカンベエと最後に会った以降のことを文にした。あまり詳しく綴ったために、やはり手紙は巻物のようになってしまい、それをいつものように伽羅を焚き染め、油紙に包んで店の者に使いを頼む。使いを頼んだのはカンベエとの関係を承知している者だ。なかなか気の利く男で、シチロージはカンベエへの文はいつもこの男に頼んでいた。

 今度こそと、カンベエからの便りを心待ちにしていたが、10日経ってもやはりカンベエからは何の音沙汰もない。高速艇なら北方まで2日。とうに文はカンベエの手に渡り、カンベエからの返事があってもおかしくはない。

 苛々していると北方について新しい知らせが入ってきた。

 鎮守府の新しい長官が北方行きを待ちきれず、予定よりもずいぶんと早く都を発ったというのである。鎮守府に新しい長官が赴任すれば派遣軍は都に戻ってくる。すると文は入れ違いになったのではないか―――。そう思ったシチロージは、ならばカンベエを都で待ち構えようと思った。

 ところがそれは敵わなかった。

 淑子が風邪を引いたのだ。

 今年は春先から天候不順が続いて、温かくなったと思ったら雨が降って気温が真冬並みまで下がる日ということが続いている。淑子が風邪を引いたのもそのせいだった。高熱が出て、これにはシチロージよりもアヤマロの方が慌てた。

 淑子の熱は2日ほどで下がったが、風邪の症状はなかなか治まらず、体に力が入らないといって床上げもできない。そこで最近買ったという南方の別荘での養生をアヤマロが薦めてきた。

 もちろん、シチロージは同行を言いつけられた。

 子が流れるなど、淑子に万一があったらそちが侍になる件もなしだと脅されたのである。淑子の風邪は意外に長引き、結局、2か月間を別荘で過ごすことになった。

 その間に派遣軍は都に戻ってきていた。シチロージは当然カンベエが帰ってくると思い、定期的に風を通してはいたものの、ほったらかしになっていて家を整えさせていた。

 ところが派遣軍が都に戻ったという知らせを受けてから幾日経ってもカンベエからの知らせはなく、当然、家にも帰っていなかった。

 なにより都に戻ってきてからのカンベエの所在がはっきりしない。

 シチロージは苛々したかと思えば落ち込み、不安定になった。不安定なことを自分でもわかっているから商いに精を出すと、今度は淑子が寂しがる。淑子は不満があるとすぐにアヤマロに言いつけるのだった。

 ―――子供が生まれるまでは・・・

 というのが父親の小言の決まり文句だ。シチロージも結局のところ、子供が生まれるまではすべてを我慢するしかないと思っている。だが、カンベエに想いが通じて以来、これほどカンベエのことが分からなくなったことはなく、それが不安だった。

 ―――知らせのひとつもくれないのは、結婚のことをそんなに怒っているのだろうか。文で何度も理由を説明しているのに。なぜ、カンベエ様は何も知らせくれないのだろう・・・

 シチロージがそんな風に悩んでいるうちに、淑子の出産日が近づいてきた。

 「シチロージ、淑子もこの別荘気に入っていることだし、ここで子供を産ませてはどうじゃ。あの体で虹雅峡までの旅は苦労。万一があってはならんじゃろう」

 「そうですね」

 シチロージに反対する理由はなかった。淑子が無事に子供を産まなければ、今までのことは無駄になるのだ。

 結局、淑子は別荘で子供を産むことになった。初めての出産に淑子が恐がり、シチロージも仕事そっちのけ、別荘を離れることができなかった。

 そして、しばらくして淑子は無事、子供を産んだ。

 男の子だった。母子ともに健康。

 淑子につききりだったために仕事が溜まっており、出産後、淑子を見舞うのは一週間ぶりだった。

 子供を抱く淑子は少し誇らしげで、労りの言葉をかけたものの、シチロージは特に感情を持たなかった。しかしこの子供によって解放されると思うと多少の興味はあり、子供を覗き込んだシチロージは子供に指を掴まれて、生まれて初めての不思議な感覚と湧き出てくる温かい感情を味わった。

 マサヨシと名付けられた男の子は、髪の毛はシチロージと同じ薄い金髪だったが、顔立ちはどちらかというと淑子に似ていた。その愛らしさに別荘の女中たち使用人は口をそろえて褒め、みなマサヨシに夢中だった。

 皆で虹雅峡に戻り、南方の別荘に行っていた間に建てられた新しい屋敷でシチロージと淑子、子供という暮らしが始まった。それもシチロージには不思議な風景だった。

 生まれてこの方、母というものは家におらず、父から商いについてはつききりで教えられたが、触れ合いはそれだけ。それが当たり前だったのだ。

 乳母はいたが淑子は乳の出がよいため自分で与えていた。子供が可愛らしくて仕方がなく構い過ぎを乳母に注意されている。屋敷の中は赤ん坊の甘い匂いがして、赤ん坊の声と女達のあやす声、笑い声が溢れている。どれもこれも今までシチロージが知らなかった光景が目の前にあった。

 商いの方もうまくいっていて、シチロージはカンベエの所在がわからず、苛々していたこともいつの間にか忘れていた。

 ―――妻と子供、家族の暮らし

 それはシチロージという容器を、渇きをいやすくらいには満していた。

 満杯とはいえない。しかし渇いてもいない、安定した日々。

 紅葉のような子供の手できゅっと指を握られると、シチロージはもうこのままでよいと思うこともあった。

 そんなとき、カンベエの居所がわかった。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 カンベエは通りから聞こえるお囃子を聞きながら刀の手入れをしていた。都の外れにあるこの辺りは戦災を逃れたために、今でも古い家が立ち並び、どこか懐かしい雰囲気を漂わせている。

 北方から戻って4ヶ月、季節は冬に向かおうとしている。

 北方から戻ったカンベエが最初にしたのは家探しだった。北方から戻ってきたものの、シチロージの家に帰るわけにもいかず、虹雅峡の家はとうにない。

 ―――そういえば、儂には住むところがない

 それを北方から陣を引き上げる段になってようやく思い至り、ヒョーゴに思い切り呆れられた。そこでカンベエの家探しをするのがヒョーゴの人のよいところで、おかげで借りたのがこの家だった。建物は古いが柱はしっかりしており、畳は新しくなっていて小さな庭もある。思いのほか居心地がよく、次の仕事をするまでの仮住まいのつもりだったが買い取ることを考えてもよいかもしれないと思っている。

 3、4日くらい割合で庭の垣根越しにひょっこりとゴロベエが顔を出す。

 北方から戻ったら縁も切れると思っていたが、その後も何となく続いており、来るたびに様々な情報を持ってきてくれるのがありがたい。

 最初に訪れたときに垣根越しに手品を演じてそれをカンベエが笑ってから、そうしないといけないというルールがゴロベエの中にできたようで、必ず垣根越しに何かをしてから入ってくる。

 キュウゾウもゴロベエと同じようなペースで、しかしゴロベエとはかち合うことなくやってきては飯を食って帰っていく。ヒョーゴの言うところ、生活無能力者のキュウゾウは、都の中心街にあるヒョーゴの家の一間を寝床にしているという。ヒョーゴいわく、拾ってきた責任を取らされているらしい。

 キュウゾウとは近くの野原で立ち合いをすることもあれば、ときどき大戦中の昔話をすることもある。カンベエはキュウゾウになぜ来るのかと聞かず、キュウゾウもまたなぜ来るのか理由は語らなかった。

 しかしキュウゾウとは初めて立ち合いをしたときから、お互いが何となく繋がっていると感じている。それはゴロベエやシチロージとの間にあるものとはよく似ているようで異なり、共にいる時間は心地が良かった。

 ヒョーゴが訪ねてくることもあり、やはりゴロベエと同じように情報を持ってくる。

 政変がうまく成ったせいか、8ヵ月もの陣中暮らしの報酬は悪くなく、北方から戻ってからカンベエは、たまに雇われ侍の溜まり場に出かけることがあるくらいでほとんど家に籠っていた。

 朝廷の政変は世間に好意的に捉えられ、そのせいか地方の反乱も聞かれず、世の中は平穏といってよかった。

 だからといって、このまま世の中が収まっていくとは考え難い不穏な種がいくつかあった。

 ゴロベエの話では、カンベエが案じていた通り、朝廷の北国に対する考えは厳しいらしい。武州では北国の騒動を見て朝廷に対して危機感を抱き、長年いがみ合ってきた武士団同士が会合を持つとう、武州にとっては前代未聞の動きもあるという。北方の騒動を早期に解決できなかったツケが出てきたといったところだろう。朝廷の仲介によって土地争いが収まっていたはずの西方でも、先の大戦で地方に逃れた貴族たちが山中に隠れ住んでいたのを見逃したことがわかり、当主が隠居させられている。朝廷としては匿っていた武家に対して厳しい処分をしたかったところが、世情を考え隠居で済ませたらしいが、武家の方に恨みが残ったと聞く。

 都では浪人が、地方では野伏りが増え、治安が悪化して一般市民にも影を落としている。平和が続いて武家が一門を存続させることが難しくなり、一門から放逐された武士、侍達が夜盗となって貴族や豊かな商家を襲う事件も増えてきている。

 そんな中、貴族と武家の確執はより顕著になってきていて、カンベエはそれが一番の問題と思っていた。

 これらの動きは、朝廷がどれかひとつでも舵取りを誤れば、再び戦乱の世となる要素が含まれている。今のところ朝廷は事を荒立てるつもりはないようだが、戦働きを本分とする武士の間ではあからさまに北国討伐や西国征伐といった戦を望む声が日に日に大きくなっている。昇殿を許されている武士たちには今のところ動きはないようだが、有力武家が動けば事態は大きく動くだろうとは誰もが思っていた。

 皆が事態を見守っている中、カンベエもまた骨休みをしているようで、耳目を働かせていた。

 

 刀の手入れを終えたカンベエは床の間に飾られている色鮮やかな大輪ギクに目を止めた。

 カンベエは食事の支度をはじめ家事もこなすが、必要なことをするだけだからそこにはアラがある。そのため3日ごとに近所の女房に来てもらっている。よく気が利く女房で、侍一人が暮らしているのは殺伐としているからといってはたまに花を持ってきてくる。大輪ギクは今日の午前中にやってきて家の用事をしてくれた女房が飾っていったものだ。

 菊は宮中では寿命が延び、若返るといわれる花で、宴で菊の花を浮かべた菊酒を飲んだり、菊の香りが移された真綿で顔や体をぬぐったりもするという。刀の手入れに夢中になっていたため意識外にあったが、豊香の花というわけではないものの、締め切られた部屋の中では清々しい香りがよくわかる。

 全く異なる種類の香りだというのに、カンベエはふいにシチロージを思い出した。

 落ち着いた香りを好むカンベエとは異なり、シチロージは甘ったるい伽羅の香りを好み、着物にも、そして文にはいつも焚き染めていた。北方で受け取った文は、10日も遅れて届いたものだったが、油紙に包まれていたから伽羅の香りがいつまでも残っていた。

 それがシチロージから届いた最後の文だった。

 しかし北方を去るときに焼いてしまった。綺麗に灰にしたはずだったが、どこか燃え残っていたらしい。都に戻ってくる道すがら、カンベエはもしかしてシチロージが都で待ち受けているかもしれないと微かに期待していた。

 しかしそのようなことはなかった。そこでようやく、本当に気持ちに区切りがついた。

 だから家を借りてもシチロージに居場所を知らせてはいないし、シチロージに会おうともしていない。

 

 

 シチロージの結婚のことは、たまたま補給部隊の兵に聞いた。

 『貴族の娘が武家に嫁ぐことは近頃みられることだが、武家の出身とはいえ、商人の息子が貴族の娘を迎えることは珍しい』

 『華燭の典は大変な見ものだったらしい』

 そんな兵たちの話を小耳にはさんで、武家出身の商人というところがひっかかり、詳しく聞いてみると、思うに違わず。貴族の娘と結婚したのはシチロージだった。

 北方に来てまもない頃、シチロージからの文を受け取った。直接会って話したいという、あれは結婚のことを話したかったのであろう。

 その文に対して、カンベエは簡単に近状と詫びを返信した。その後も二度ほど文を出している。その年最後の補給部隊がやってきたとき、年明け早々、天候が回復した合間をぬってやってきた高速艇の連絡員に文を預けたが、シチロージからの返信はなかった。

 雪解けの季節になって北方への行路が回復してもシチロージからの便りがないのを寂しく思っていたが、どれも事情を知らずに出した文だ。シチロージは返事の書きようがなかったのかもしれない。

 アヤマロがシチロージに貴族の娘を娶せたいと思っていることは以前から知っていた。

 ―――侍としての覚悟が足りないシチロージは結婚してアヤマロの跡を継ぐのが一番良いはず

 自身でもそう思っていたというのに、実際はシチロージの結婚は堪えた。

 シチロージ自身ではなく、他人から聞いたため尚更だ。

 シチロージ自身の口から告げてほしかったと恨みに思ったが、最後に会ったとき、シチロージが虹雅峡に戻っている間に伝言を残して家を出ていったのはカンベエだった。その後も仕事にかこつけて積極的に会おうとしないうちに北方に行くことになり、8ヶ月も北方にいることになってしまった。

 カンベエとシチロージでは生きる世界が違う。積極的に会おうとしなければ、二人時間が交わることはないのだ。

 いつの間にかシチロージとの関係に慣れて、それを忘れていた。

 ―――儂はどこかでシチロージが家を捨て共に生きることを選んでくれると考えていたらしいな

 シチロージの結婚が堪えるのは、そう考えていた証左だ。シチロージとて一人前の男であり、商いで十分身を立てることができる。それを捨てるなど普通であれば考えない。そう考えていたことが傲慢であったことに気付かされている。

 シチロージの結婚を聞き、己では動揺を隠したつもりだったが、さすがに付き合いの長いヒョーゴには気づかれ、ゴロベエにも気づかれた。ゴロベエと関係を持ったのはそれがきっかけだ。

 二つほど年上のゴロベエは戦経験が豊富で、北国について詳しく、朝廷の事情にも通じており参謀にはうってつけの侍だった。出会ったときより共に戦場に立てることが嬉しい、カンベエ殿に一目惚れしたと口説かれていた。複数の情人を持つことはカンベエの好みに反するためにいなしていたものの、ゴロベエのことは好ましく思っていた。

 ゴロベエがいたおかげで、無様なことにならずに済んだと思う。

 何も聞かず支えてもらい有難かった。

 ヒョーゴが調べてくれたおかげで少し前にシチロージに子供が出来たことを知った。男だという。

 カンベエも家族には縁が薄いが、シチロージはさらに薄い。

 ヒョーゴには心配されたが、シチロージが結婚し、子供が生まれて家族ができることを、カンベエは喜んだ。

 

 

 ふと人の気配を感じて障子を開けると、そこにいたのはシチロージだった。

 動けなくなっている間にシチロージに上がり込まれてしまう。どうしてシチロージがここにいるのか、それを問う前に抱きしめられ、唇が塞がれた。

 「カンベエ様っ!」

 久しぶりの口付けは嵐の様だった。抱きしめられながら、角度を変えて何度も唇を吸われて、舌が絡まる。聞きたいことはいろいろとあったがシチロージの着物に焚き染められた伽羅の甘い香りにも触発されて衝動は抑えがたく、カンベエはそのまま押し倒された。首筋を吸われながらシチロージの髪からも甘い香りがして、あぁ、シチロージだと思う。せり上がってくるものに胸が詰まって、何もいえなかった。

 「カンベエ様・・・」

 帯を解かれ、着物を開けられ、シチロージに足首を掴まれてシチロージの前に秘部を晒されたが、こうすることが当たり前のことのように思えてカンベエは抗わなかった。解すこともそこそこに挿入され、肉襞が引き攣れ痛みがあっても、シチロージの怒張した男根で無理やり突かれて、楽よりもむしろ痛みの方が強くてもカンベエはただシチロージを抱きしめた。

 お互い荒い息を吐きながら性急に求め合うだけ。そこには閨の作法も技法も何もなく、シチロージは何度かカンベエを突き上げて放逐した。しかしシチロージはカンベエの中から出ていかず、すぐに力を取り戻すと、放逐したもののぬめりを借りて最奥をぶち抜く。

 カンベエはほとんど悲鳴のような声を上げたが、シチロージは構わずカンベエの腰骨をぐっと抱えると無理やり開いた最奥をガンガン突いた。

 「あ゛あ゛―――っ! っ、ひぃぁ、アっ! アっ! ひぃっ、ぃっ!」

 突き上げられる度に悲鳴を上げながら、それでもカンベエはシチロージを離さずにいると、二度目とも思われぬ大量の精液が中に吐き出された。腹を震わせながらそれもカンベエはすべて受け止めた。

 「カンベエ様っ!」

 骨が砕けるような勢いで抱きしめて来たシチロージのものは信じられないことにまだ力を失っていない。ぎゅっと目を瞑り、カンベエは足を上げてシチロージの腰を挟んだ。カンベエの中もまたきゅっとシチロージを締め付ける。

 絡み合いひとつになった二つの影は、いつまでも離れなかった。

 

 狂喜の時間は一瞬のようでいて、実際には二人が正気を取り戻したのは、日の光に橙色が濃くなってきた頃だった。二人ともひどい有様で、特にシチロージのものをすべて受け止めたカンベエの腹は明らかに膨れているし、カンベエ自身が放ったもので腹から整えられた淡い茂み、さらにその奥と下半身がぐちゃぐちゃになっている。

 二人の下にあったカンベエの着物もひどい状態で、話をしようにもとても話をする状態ではなかった。それらの始末をすると、もう夕飯の用意をする時間で、二人ともひどく空腹だった。

 外に出かける気にもならず、仕方なくカンベエはありあわせのもので簡単な食事を作った。

 朝炊いた飯と漬物、卵があったため、それで作った卵焼きだけ。卵焼きはシチロージの好みに合わせて甘くした。それだけだったが、甘い卵焼きをシチロージは喜んで、飯を3杯かきこむようにして食べた。

 二人の食事は以前と全く変わらない。

 料理ができないシチロージに代わってカンベエが食事を作り、シチロージはいつも喜んで食べた。カンベエの家事能力は必要だから身につけただけのものだから、けして万能でも細やかなものではない。料理だって大雑把なものだが、それでもシチロージがうまそうに食べてくれるから作り甲斐があって、ときどき手間をかけたりしたものだった。

 全く同じ。以前と変わらぬ風景に、カンベエは何事もなかったような、そんな錯覚を覚えた。そんなはずはないのに向かいに座るシチロージの変わらなさがそう思わせる。

 一方、シチロージは全くカンベエが変わっていないことを喜んでいた。大型のネコ科の動物を思わせるしなやかな肢体も、自分のものを受け入れたカンベエの中も、見た目よりも柔らかい髪も、1年前とは何も変わっていない。

 ここがシチロージの家とは違うことなど些少の違いでしかない。

 ―――あぁ、やはり。やはり、あたしにはカンベエ様だ・・・

 淑子と子供、家族の暮らしも悪くないと思い始めた矢先、カンベエの居所が知れた。その瞬間、淑子と子供のことは忘れた。

 いてもたってもいられずやってきて、カンベエを見た瞬間、何かが溢れた。

 それは淑子と子供ではけして得られないもの。カンベエでなければ得られないということが改めてわかり、感動し、激情となってカンベエと気が狂ったように交わった。

 もちろん肌を合わせているのもよいが、こうして二人で飯を食ったりしているだけでも嬉しくてやはりあたしには、カンベエ様以外にはありえないのだと思う。

 「カンベエ様は北方から戻られてからずっとこちらに?」

 床の間ともう一部屋あるようだが、シチロージと過ごした家よりもさらに小さい。しかも古い。家に金をかけないのは相変わらずで、それを云うとカンベエは憮然として仕事の合間に過ごすだけの場所だ。金をかけてどうするという。

 「仕事を離れて休む場所なのですから、快適な方がよいでしょう。カンベエ様が帰ってくると聞き、家を整えていましたのに、なぜ帰ってきてくださらなかったのですか?」

 腹の中を掻き回されたカンベエは冷や飯に漬物をのせ、お茶漬けにしていた。空腹といってもそれも持て余し気味でシチロージが飯を三杯かきこむ間にまだ一杯目だった。

 ようやく半分というところで箸を置くカンベエを、シチロージはどうしたのですか? という目で見詰めた。

 「・・・・・・おぬしは何をいっているのだ」

 「え?」

 カンベエの低い声には明らかに怒りが含まれている。

 だが、シチロージにはカンベエの怒りの原因が今一つわからず、戸惑った。

 カンベエが怒るとすればやはり結婚のことしかない。理由があったとはいえ、カンベエにとって面白いことでなかろう。

 「結婚のこと、カンベエ様が面白くないのはわかります。しかし父上にすっかり段取りされて知らせる暇がなかったのです。そのことについては何度も文を出して説明したではありませんか」

 怒るか、拗ねるかといった反応を予想していたシチロージだったが、カンベエの反応は全く違った。目は開かれ、唇は何か言いたげに開かれている。

 「え?」

 「・・・シチ、儂に文を出したのか?」

 「えぇ、もう何通も、いえもっとです。何十通でしょう。着物などの贈り物もしましたでしょう?」

 「儂もおぬしに文を出した。会って話があるというおぬしの文が届いた後、そして年が明ける前と年が明けた後に」

 「えっ!」

 カンベエの言葉に今度はシチロージが驚いた。カンベエが北方に行ってから文は一度としてもらっていない。そしてカンベエも文を受け取っていないというのだ。

 「カンベエ様、これはどういうことですか・・・」

 シチロージはカンベエに尋ねたが、カンベエが応えられるはずもなかった。

 

 

 「あたしの文が全くカンベエ様に届いていなかったなんて・・・」

 シチロージは唖然とした。

 北方のカンベエに文や着物や贈り物を送ったことをすべて話したが、どれもカンベエは受け取っていなかったのだ。シチロージの文だけでない。カンベエの文もシチロージに全く届いていなかった。

 ―――すると、カンベエ様はあたしが結婚した事情を知らず、子供を作った理由も知らない・・・・・・。カンベエ様が怒るのも、愛想尽かしするのも当然ではないかっ!

 文がなぜ届かなかったかよりも、今はカンベエに事情を説明することが大事。

 シチロージはこの1年の間のことをすべてカンベエに話した。

 アヤマロが以前から貴族との繋がりを作るため、シチロージと貴族の娘を娶せたがっていたこと。見合いを断り続けていたが、いきなり貴族の娘を連れて来たこと。結婚をするまではアヤマロの執拗な要求が続くと思い結婚したこと。淑子に言い寄る男から逃れるために半年間の新婚旅行で支店を回っていたこと。淑子に子供ができれば、その子を跡取りにして侍になることができること。

 そしてシチロージはカンベエと暮らすための蓄財していることも話した。

 「かなりのものになっていますから、カンベエ様とどこにいっても貴族なみとはいかないかもしれませんが、そこそこの、不自由のない暮らしをさせて差し上げられます」

 シチロージはカンベエの手をとって胸を張った。

 当然、カンベエが喜んでくれると思ったからだ。

 雇われ侍のカンベエが怪我などに備えて蓄財をしていることを知っている。しかしもう金の心配をすることはない。年を取り体が利かなくなってもあたしが支えて、ずっと一緒にいることができる。

 ―――ずっと一緒に。いつも、いつまでも二人で・・・

 シチロージは六花の入れ墨が入ったカンベエの手に口付けた。

 17のときは、握り返してもらえなかった。カンベエの手はシチロージの手をするりと抜け、戦場に戻っていってしまった。

 しかし今度は、あたしの手を握り返してくれるに違いない。シチロージはそう確信して手に力を込めた。

 「・・・・・・なさけない」

 「・・・え?」

 カンベエはシチロージの手から右手を離し、逃がすまいと握り込んできたシチロージの指を解いて左手も自由にした。

 結婚し、子供までなしていながら、それを捨てて侍になる。それを喜々として語るシチロージを前にカンベエは苦くて、情けなくて、そして寂しく、悲しかった。

 家族を知らないといっていたシチロージが、せっかく家族が出来たというのに、妻と生まれたばかりの子供を捨てるという。そしてそれを「カンベエ様のために」というのだ。

 ―――そんなことをされて儂が喜ぶと思っているのか・・・

 いや、喜ぶと思っているからこそ、シチロージは平然と妻と子供を捨て、一緒に生きようと云っているのだ。

 ―――金のこともそうだ。シチロージは年をとり体が利かなくなれば儂が侍を仕舞いにすることを前提としている。怪我をして腕や足をなくしても、年を取り体が利かなくなっても生きている限り、儂は侍だ。侍であり続ける。

 抱き合えば、誰よりも溶けあい、ひとつになることができるというのに、心はこんなにも離れているのだ。

 ときには好まぬ相手にも仕事のために体を開いてきたカンベエには心と体はひとつではないことは実感している。しかし、シチロージは違うと思っていた。確かにひとつになっていた瞬間があったはずで、それが錯覚だったというのは寂しい。

 「シチロージ、おぬし家を出たら侍になるつもりか」

 「それは、もちろん。子供が生まれましたからもう父上の邪魔もありません。カンベエ様の隣に」

 「今のおぬしでは侍になることはできぬ」

 「そんな、あたしは・・・」

 「超振動を使えることが侍の証ではない。人を斬るのを恐れる者がどうして侍になれる」

 「それはっ! ・・・それは慣れます。経験を積めば・・・」

 「その前におぬしが斬られる」

 「!」

 「儂は、侍でない者を戦場に連れて行くことはできん」

 「そんな・・・、カンベエ様、そんな・・・・」

 「シチ。子は可愛いだろう」

 「あ、はい。いえ・・・、いえ。カンベエ様」

 「隠すことはない。妻と子、家族がいるところがおぬしの居場所なのだ」

 「ちょっと待ってください、カンベエ様っ! あたしはカンベエ様と一緒にいるためにっ! 淑子と結婚したのだって、父上が貴族と縁続きという身分が欲しかったからです。子供だって、孫を後継ぎにすると父上が云ったためです。全部、全部、あたしはカンベエ様といるためにっ」

 シチロージと初めて会った日から25年の月日が過ぎている。

 カンベエが戦で怪我を負って虹雅峡に帰ったことで再会し、別れたが9年後にまた再会した。

 出会い、別れ、また出会い。出会いと別れを繰り返して道は交わった。

 しかし、シチロージは侍の力を持ちながら侍ではなく、カンベエは侍としか生きることはできず、共に生きるには難しかった。

 それでも、シチロージが家を捨てれば。またはカンベエがシチロージを連れ出せば共に生きることはできたはずなのだ。

 だが、お互いそうしなかった。

 だからシチロージばかりを責めることはできない。しかし、妻を持ち、子をなして、それをカンベエ様のためにというシチロージに嫌悪感が沸き上がるのはどうしようもなかった。

 「儂のため? 儂がいつ妻を持てといった?」

 「え?」

 「子を捨てて儂と共に生きるだと。儂がいつそのようなことを望んだっ」

 「っ! ・・・仕方がないではないですかっ! カンベエ様と共に生きるには」

 「侍でないおぬしと儂がどうやって共に生きるというのだ」

 カンベエの言葉にシチロージは顔色を変えた。

 カンベエの言葉は己を全否定されたようなものだ。

 ―――何もかもカンベエ様のために、カンベエ様と一緒に生きるためにやってきたというのに、カンベエ様はあたしのことを認めていない。あたしを侍ではないと・・・。

 「・・・・それならば、何故。何故、カンベエ様はあたしを受け入れてくださったのです?」

 「・・・・・・」

 カンベエの沈黙は裏切りだ。

 シチロージはそうとった。

 カンベエのためにしてきた苦労が思い出される。

 その苦労を無意味なものにしたカンベエが憎らしくなった。

 「・・・・・・なるほど、あたしはカンベエ様にとって、もう用無しらしい」

 ―――カンベエ様が一言、違うと一言いえば、あたしは・・・

 だがカンベエからその一言はなかった。

 シチロージは家を出た。

 垣根の外から先ほどまでいた部屋を振り返る。

 もし、カンベエ様が見送ってくれたのなら・・・と見詰めていたが、障子が開かれることはなかった。

 シチロージは振り返ることなく、帰っていった。

 

 

 カンベエはひどく疲れていた。

 よすがを求めて刀を握り、抜く。鈍く光る刃に映ったのは疲れて、情けない顔をした40過ぎの男の顔。

 数え年四十を物の考え方などに迷いのない不惑というが、その40をいくつか過ぎているというのに、未だ迷いばかりの己を笑う。

 このままではまたヒョーゴに呆れられるか、怒られるだろうなと思いながら、カンベエは刀を仕舞った。

 ―――シチロージはきっと、儂に裏切られたと思っているだろう

 青ざめ、引きつったシチロージの顔が思い出される。

 シチロージの楽しそうな顔を思い出したかったが、青ざめた顔以外に思い出すことができなかった。

 これからシチロージはどうするだろうか、とぼんやり考える。

 先ほどシチロージはアヤマロが侍になることを許したと云っていた。孫ができれば孫を跡取りにするため、シチロージが侍になることを許すというのだ。

 しかし、カンベエにはアヤマロがシチロージが侍になることを許すとはとても思えなかった。むしろそれはシチロージが侍になり切れないことを知っている上での言葉ではないか、と思う。

 アヤマロは確かに侍の力はもとより武士の力すらなく、商人になった男だ。しかし侍の力量を見抜く力はある。だからこそ、貴族や有力武家から紹介を頼まれるのだ。そのアヤマロが己の息子の力量を見抜けなかったとは思えない。

 そして、文が届かなかったのはアヤマロの仕業ではないかと思う。

 ―――息子の将来を誤らせないためかもしれぬが、アヤマロは根本で儂を、というか武士や侍たちを怨んでいる。

 侍になりたいという気持ちを捨てきれぬシチロージのこれからが案じられた。

 しかし、いくら心配しても、すべては終わったことだ。

 ―――もう二度と、シチロージに会うことはあるまい

 シチロージには妻と子と、家族で幸せになって欲しい。カンベエは心からそう願った。

 シチロージの匂いが残っているような気がして障子を開けはなす。

 途端に冷えた空気が入ってきて、カンベエは肌を泡立てた。

 垣根の向こう側には誰もいない。

 空を見上げると、猫の目のような細い月が浮かんでいた。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 

 それから僅か半年後、再び世は戦乱の世の中となった。

 北国と武州が手を握るという噂から、朝廷が鎮守府の増兵を図ったところ、増援部隊が武州の武士団によって討たれたのだった。増援部隊には、状況にあわせて難しい判断が必要になるため帝の側近二人がいた。その二人が討ち取られたことに帝が激怒し、北国に派兵を決めたことがきっかけだった。

 官位が与えられた有力武家は朝廷の命に従うかと思われたが、貴族たちへの反発から従わず、朝廷内もまた側近ばかりを厚遇する帝に対して反発する貴族たちと帝とに分かれて争った。権威の崩壊は無秩序を産み、世の中は麻の如く乱れた。

 

 戦は10年続き、都を焦土として、帝は地方に逃れ、武士が政権を握って終わった。

 島田カンベエの名は戦場で何度か人の口に上ったが、やがて聞かれなくなっていった。カンベエに限らず、この戦で超振動を使う一騎当千の侍は大きく数を減らし、かわりに雷電、紅蜘蛛といった機械化することによって力を得た侍が多くなった。武家はより組織化され、戦の仕方も大きく変わったのである。

 アヤマロとシチロージは戦を乗り切った。むしろ戦時効果でアヤマロもシチロージも商いを拡大し、財産を倍に増やし、アヤマロは虹雅峡を支配する差配にまでなった。

 シチロージは戦が始まった1年目に1年ほど参戦した。

 戦大将の首を1つ上げて帰ってきたが、左腕は肘の上で切断されていた。最新技術の機械の腕を付けて日常生活には不自由はなくなったけれど、再び侍として戦場に立つことはなく、商いに専念した。

 淑子は当初こそマサヨシに夢中だったが、しばらくすると子供に興味を示さなくなった。

 子供といってもよい、年若い淑子に子育ては難しいということはあったろうが、もともと貴族が子供を自分の手で育てるということは珍しいのである。淑子はどこまでも貴族の女だった。

 

 シチロージがマサヨシを引き取り、心優しい女を雇って、養育した。しかし商いにかまけて滅多に会うことのない父親に子供が懐くわけもなく、またシチロージも子供とどう接したらよいかわからぬまま、マサヨシは成長していった。

 マサヨシには遺伝的には優性であるはずの淑子の特徴は全くなく、シチロージとその祖父アヤマロと同じ金髪に、白い肌、そしてアヤマロと同じく明るい茶の瞳だった。そして瞳の色と同じく祖父アヤマロの血が濃く表れたらしく、武芸の方はからっきしで虚弱。おまけに花や簪など、美しいものに興味を示した。

 武家に生まれながら一門でただひとり、侍はおろか武士になれなかったアヤマロだったが、そこにその孫であるマサヨシが加わりアヤマロは異端ではなくなった。

 そのせいか、アヤマロはマサヨシをことのほか可愛がり、シチロージを除いてマサヨシを跡取りとした。もともと侍になる代わりにマサヨシを跡取りすることは約束していたことではあったからシチロージに嫌はなく、マサヨシの養育も以後、アヤマロに任せることにした。

 

 シチロージは戦から帰ってからすっかり淑子に興味をなくして一緒にいることも煩わしくなり、淑子のために屋敷を建て、別居した。淑子には化粧料として毎月かなりの金を送っているせいか、それとも主人に逆らうことを知らないせいか、淑子からの不満はなかった。

 シチロージはときどき妾を抱えたが、特にひとりを寵愛することはなく、妾たちはシチロージの子を産むことはなかった。

 

 終戦を迎えて1年が過ぎたある日、シチロージは古式にのっとった方法で切腹をした。

 腹を横一線に斬った後、縦にも斬ってみせ、腹を十文字に斬った小刀で、さらに首の頸動脈を斬ったのである。それは機械による蘇生など全く不可能な死に様であり、すぐに屋敷内の者が気付いてシチロージを抱き起したけれど、シチロージの魂はすでになかった。

 傍らには遺言が残されていて、自分の首は武州のとある地に埋めるよう書かれていた。

 

 そうしてシチロージは、たった一人を想いきれなかった始末をつけたのである。

 

 終劇

 

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