chapter-103 浦和耕地整理 
[2017.06]
chapter-6を改訂

■浦和駅周辺の変貌 ・・・・・・・・・・・
 

[  浦和駅東口(2017年):パルコと駅前広場 ]
   2001(H13)年5月に浦和・与野・大宮の3市が合併し、さいたま市が誕生してから浦和駅周辺の様子も大きく変わりました。
 駅東口では再開発事業によって駅前広場が整備され、2007(H19)年10月に浦和パルコがオープンしました。パルコが入る再開発ビルは、市立図書館や映画館も入る複合施設で、大丸デパートによるデパ地下も併せて誕生したのですが、残念ながらデパ地下の大丸は2017(H29)年7月末に撤退してしまいました。
 

[ 高架と自由通路(2017年):駅北側の通路  ]
   浦和駅自体も大きく変わりました。浦和駅は京浜東北線と高崎・宇都宮線の列車は停車するのですが、湘南新宿ラインが走る線路はもともと貨物線だったため駅付近は高架構造でホームもありませんでした。また、線路が地上にあったので歩行者が東西方向を行き来するためには、駅を迂回して北と南にある地下通路をくぐるか、駅入場券を買い駅構内を通って反対側に行くしかありませんでした。
 このような不便を解消するため駅付近の高架化がおこなれ、併せて湘南新宿ラインにもホームが設けられ、2013(H25)年3月からは湘南新宿ラインも停車する駅になったのです。
 

[ 浦和駅とアトレ(2017年):高架下にアトレ  ]
   鉄道が高架になったので東西方向の自由通路も造られ、さらに高架下にはJR系列のアトレが入りお店も充実しました。このほかにも、6階建ての西口駅ビルが建築中で1~3階は飲食店や物販店、4~6階はJRグループのスポーツクラブが入る予定です。
 鉄道の高架事業のほかに、さいたま市は、駅の自由通路から西口駅前広場のバスターミナルに向かう地下通路を建設中です。


■増える人口・・・・・・・・・・・・・・・・
 

[ 建設中のマンション(2017年):  ]
   浦和駅に湘南新宿ラインが停まるようになり、上野駅どまりだった列車が東海道線とつながる上野東京ラインが誕生し、浦和駅から東京、品川、新宿、渋谷へ乗換なしで行けるようになりました。東京駅まで30分もかからずに行ける便利な駅になったのです。
 交通の便がさらに良くなったうえ文教都市というネームバリューもある浦和駅周辺は、住宅地として人気の高いところです。さすがに駅に近いところでは、戸建て住宅は手の届かない価格になってしまいますが、マンションならばサラリーマンでもなんとか手の届く範囲です。 
 

[ 人口の伸び : 2013年1月1日~2017年1月1日 ]
 浦和駅の周辺地区、岸町1~7丁目、高砂1~4丁目、仲町1~4丁目、東岸町、東高砂町、東仲町の最近の人口の伸びをグラフにしてみました。
 浦和区は浦和駅のほか北浦和駅、与野駅もあり交通の便が良いところなので、区全体でも人口・世帯数とも増加しています。その中でも浦和駅周辺地区は、これを上回る伸びを示しているのです。2013(H25)年1月1日~2017(H29)年1月1日の4年間で、人口・世帯数は1.12倍になっているのです。たった4年間で1538世帯、3173人が増加し、これらの町丁約200ヘクタールに30157人が住んでいます。100m四方に150人が住んでいることになります。駅周辺を見れば一目瞭然ですが、あちこちにマンションが立ち並んでいるのす。そのほかに建設中のマンションや、建設地の予備軍であるコインパーキングも目立ちます。
 

[ 中山道沿いのマンション(2017年) ]
   マンションが建設されるのは、市内を南北に通る中山道沿いが多いようです。中山道は江戸時代の五街道のひとつで、浦和には宿があり宿場町として発展し旧・浦和市の基礎となりました。
 明治以降に県庁所在地として成長した浦和駅周辺は、容積率400%の商業地域が広く指定されていますが、400%の容積率を使うためには、建築基準法第52条第2項の規定により前面道路の幅は約6.7m以上必要になります。駅周辺は広い道が少なく、都市計画で定められた容積率を使い切れる幅のある道は、中山道などに限られています。



■ 浦和耕地整理・・・・・・・・・・・・・・
 

[ 蓮田市黒浜付近:区画整然としたた農地 ]
(国土地理院空中写真 CKT20071-C16-5から一部切り抜き)
   浦和駅周辺に広い道が少ないのは、戦前に行われた浦和耕地整理事業の区域から駅周辺や中山道沿いの土地が外れていたことが原因のひとつです。
 耕地整理とは、1909(M42)年に制定された耕地整理法(S24.6.6廃止)に基づき「土地ノ農業上ノ利用ヲ増進スル目的」のため、分散している所有地を耕作しやすいようにまとめたり分割して区画を整形にし、道路や用排水路などを造り農業の生産性向上を図る事業でした。
 この仕組みは、1919(T8)年に制定された旧・都市計画法で「土地区画整理ニ関シテハ本法ニ別ノ定アル場合ヲ除クノ外耕地整理法ヲ準用ス」とされ、まちづくりの基盤整備手法である土地区画整理事業にほぼそのまま使われることになったのです。
 

[ 浦和耕地整理の区域 ]
   ただし、土地区画整理事業は「都市計画区域内ニ於ケル土地ニ付テハ其ノ宅地トシテノ利用ヲ増進スル為」に行うものであり、都市計画区域内であることが大前提でした。旧・都市計画法が制定されたときに都市計画区域だったのは、東京、大阪、名古屋、横浜、神戸といった大都市だけでした。
 浦和耕地整理組合が設立されたのは、関東大震災の前年の1922(T11)年で、旧・浦和市が都市計画区域に指定された1934(S9)年には、すでに換地処分が認可されていました。
 

[ 1934(S9)年の浦和都市計画区域 : 第二回都市計画埼玉地方委員会資料より ]

   浦和耕地整理は「時勢ノ進運ニ伴ヒ水路ヲ開キ道路ヲ改修シ以テ交通ノ便ヲ計リ土地ノ進展ヲ来スハ極メテ肝要」と完成記念帖にあるように、農地というよりは都市的利用の向上を目的としていました。しかし、都市計画区域ではなかったため、土地区画整理事業は行えず耕地整理事業で対応するしか方策がありませんでした。
 浦和耕地整理の区域は、当時の浦和町の大部分と与野町、六辻村、谷田村、木崎村のそれぞれ一部を含む227町8反余(約226ヘクタール)の面積で事業が始まり、途中で区域を拡張し1933(S8)年の換地処分時は317町6反余(約315ヘクタール)に達しました。

      
[ 耕地整理確定図:青が未編入の土地 ]
   ただし、「浦和市街旧住宅地域ヲ除キタル」とあるように建物のある宅地は、耕地整理法の規定により耕地整理に組み入れられなかったのです。浦和耕地整理が土地区画整理事業として行われていれば、旧・都市計画法第15条の2「土地区画整理ニ付テハ耕地整理法第四十三条ノ規定ニ拘ラス建物アル宅地ヲ土地区画整理施行地区ニ編入スルコトヲ得」の適用が可能で、事業の結果も今日と違ったものになっていたかもしれません。
 浦和耕地整理が終わった後の確定図を見ると、耕地整理に未編入の土地は中山道沿いと浦和駅周辺に多いことがわかります。耕地整理事業が始まった頃の地図と比べると、すでに市街地となっていたところが未編入だったことがわかります。
 

[ 明治39年の地形図 ]

■耕地整理が生んだ区画・・・・・・・・・・・
 

[ 新六間道路(2017年):両側に歩道がある ]
   浦和耕地整理の区域に造られた道路は、6間(10.9m)、4間半(8.2m)、3間(5.5m)、1間半(2.7m)の幅員でした。これらの道路は、「将来ノ地域ノ発展ヲ考慮シ」て通常の計画幅の1.5倍に拡げて造られました。
 このほかに、国の直轄事業として1932(S7)年から南北方向の6間道路が8間8分(15m)に拡幅され、両側に2.5mの歩道をもつ国道9号(現在の国道17号)が造られました。
 

[ 浦和耕地整理の宅地:17号の西側 ]
   これらの道路が格子状に配置され区画が整えられた宅地は、現在でも閑静な住宅地として引き継がれていますが、建て替え時には敷地が分割されることが多く、なかには旗竿状の区画(最低限の2m接道による敷地設定)が造られることもあります。
 一方、浦和耕地整理に組み入れられなかった中山道の沿道は、宿場町にみられる間口が狭く奥行きのある短冊状の区画が現在まで残っています。中山道がほぼ南北方向に走っているので、沿道には東西方向に細長い短冊状の区画が多く、その区画に沿って建物が建っています。
 

[ 中山道沿いの土地:短冊状の細長い土地が連続する ]
   浦和駅が便利になるにつれて、戸建ての住宅がマンションに建て替わっていきます。形態規制の緩い商業地域内の東西方向に細長い敷地は、南向きの住戸が多くとれマンションの建設には好条件です。
 ところが、せっかっくの南向きの住戸であっても、すぐ南側に屏風のようなマンションが立ち並び、まったく陽が当たらない環境になっているところもあります。さすがに、売る側もこれではマズイと思ったのか最近では短冊形の土地をいくつかまとめてタワー型マンションを建てるところもあります。


[ 中山道沿いのマンション(2017年) ]

■浦和駅周辺の再開発事業・・・・・・・・・・
 

[ 1964(S39)年の浦和市報:浦和駅西口周辺市街地改造事業の整備計画 ]
   耕地整理が行われなかった浦和駅周辺は、狭い駅前広場と個人店舗や飲食店が軒を連ねる木造低層家屋が密集する状況でした。これを一新するため駅西口(県庁や市役所がある側)では再開発事業が構想されました。1964(S39)年6月に発表された整備計画では、駅前広場を設け広場の周りにはA棟~E棟まで5棟の再開発ビルを建てるもので、各棟の地下1階~3階は店舗・事務所とし4階以上は住宅とするものでした。
 

[ 伊勢丹・CORSOと駅前広場(2017年) ]
   最初に動き出したのは、現在、伊勢丹とコルソのある街区(A棟、B棟)です。浦和駅前市街改造事業として1967(S42)年9月に都市計画決定され、A棟は地下1階~7階まで駐車場・店舗・事務所、B棟は地下1階~4階は駐車場・店舗・事務所ですが5階~9階は住宅が計画されていました。
 ところが昭和40年代の浦和は住宅地が容易に手に入るため、再開発ビルの住宅床の処分が難しいと考えられ、大型百貨店誘致に方針転換し1970(S45)年11月に伊勢丹が出店を表明したのです。7階建ての商業ビルが完成したのは1981(S56)年、あわせて約7300㎡の駅前広場も造られました。
 

[ セブンビル(2017年):1981年4月7日にオープン ]
   この事業では、伊勢丹とコルソが入る2棟のビルのほかに、権利者によってセブンビルと浦和ビルディングが造られました。
 セブンビルは、再開発ビルへの入居を嫌う7人の権利者が、市から代替地として譲渡された土地に建てた地下1階地上4階のビル。浦和ビルディングは、市がプレハブの仮店舗用地として確保した土地を(株)浦和ビルヂングが払い下げを受け、21店の仮店舗とイトーヨーカドーが入るショッピングセンターとして建てられたビルです。
 百貨店を誘致しつつ仮店舗用とはいえイトーヨーカドーが入るビルを建ててしまうとは、今では考えられません。
 

[ 浦和駅西口南高砂地区(2017年):再開発を待つ ]
   その後、D棟の街区は2004(H16)年に事業が完了し、地上31階建て212戸の住宅が入る高層ビルが誕生しました。C棟・E棟の街区は、2007(H19)年に都市計画決定され2020(H32)年度までの予定で再開発事業が進められています。再開発ビルは2棟ではなく1棟にまとめられ、地上27階建て、地下1階~地上4階は商業・業務施設、5階以上には521戸の住宅が予定されています。最初の都市計画決定からすでに半世紀が過ぎましたが、浦和駅前の再開発は途半ばです。それでも、最後の市街地再開発事業がすでに動き始めているので、未完成で終わることはないようです。



 


おまけ   [ 弁慶 ]
 通称”裏門通り”と呼ばれる商店街を西方向(17号方面)にどんどん進み、中山道を越え県庁の建物が近づいたころ、左手に見える赤ちょうちんのお店です。カウンターの他にテーブルが4つほどのこじんまりとしたお店です。一番奥のテーブルは身を寄せれば5,6人は座れますが、いつもぎゅうぎゅう詰めで座っているのはの近所の勤め人でしょうか。おいしい串物の中でも、黒豚バラは満足の一品です。

 
<参考文献>
○埼玉県浦和耕地整理組合事業完成記念帖 (埼玉県浦和耕地整理組合 1939.7)
○埼玉県浦和耕地整理組合確定図 (埼玉県浦和耕地整理組合 1934)
○浦和市史 通史編 (浦和市総務部市史編纂室 1990)
○第二回都市計画埼玉地方委員会議案書 (都市計画埼玉地方委員会 1934.9)
〇新しい時代の幕あけ ー浦和駅前市街地改造事業史ー (浦和市 浦和市開発部編 1982.3)
○「JR東、浦和駅西口に駅ビル建設」 (日本経済新聞 電子版 2013.7.11)