chapter-126 切通 
[2019.01]

■上野止まり・・・・・


[ 上野駅(2011年):あまり見ることのない正面 ]
    上野駅止まりだった宇都宮線・高崎線が、湘南新宿ラインと上野東京ラインの誕生により、東海道線や横須賀線に直通運転され、乗り換えることなく熱海や鎌倉に行けるようになりました。
 大宮から古都鎌倉へ行こうとすると、以前は上野駅と東京駅で乗り換えが必要で、時間的にも精神的にも遠く感じていましたが、今では大宮駅から鎌倉駅まで1時間半で行けるようになりました。また、1泊旅行が当たり前だった静岡県の熱海も、東京都と神奈川県を越えて乗り換えなしの2時間半で行けるのです。
 

[ 上野駅(2014年):上野止まりのホーム ]
   良いことづくめのように思いますが、デメリットもあります。以前は上野駅が始発だったので一杯やったあとでも一列車待てば必ず座って帰れましたが、今では品川、新橋、東京で多くのお客さんが乗るので吊革すらつかまれません。立っていれば乗り過ごす確率も減るので、デメリットというよりメリットなのかもしれません。
 上野駅始発の電車本数は激減しましたが、1階の櫛形ホームが始発用に使われているのでどーしても座って帰りたい人はこちらへ。



■ いざ鎌倉・・・・・


[ 山と海(2014年):長谷寺から ]
   鎌倉の中心部は山と海に囲まれているうえ、狭い道が多く駐車場も少ないので、車で行くところではありません。東海道線・横須賀線への直通運転のおかげで、鎌倉へ遊びに行く埼玉県民も増えたことと思います。
 源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由として、
 ・南は海、西・北・東の三方を山に囲まれ外からの攻撃に堅固である
 ・頼朝の父、兄が居住していたなど源氏に由来のある土地である
 ・政治の中心にあった貴族・僧侶が多く住む京都から離れている
などが主な理由として挙げられています。
 

[ 鎌倉の切通:鎌倉七口 + 一口 ]
(地理院地図 電子国土Web 標準地図+陰影起伏図)
①極楽寺坂切通 ②大仏切通 ③化粧坂 ④亀ヶ谷坂
⑤巨福呂坂 ⑥朝夷奈切通 ⑦名越切通 ⑧釈迦堂切通
①~⑦が鎌倉七口(②~⑦は国史跡の指定名称)
   三方の山が城壁の役割を果たし守るためには好都合でも、他の地域との行き来には大きな障害になります。鎌倉時代と言えども他の地域との交流はあるので、交通に支障のないように山の尾根を切取って築造した出入り口(切通・きりどおし)が設けられ、そのうち主要な7つは「鎌倉七口」呼ばれています。
 切通は中世鎌倉の都市としての境界にあり、市街中心部から外側に向けて走る道に設けられている様子が分かります。  
 
■ 鎌倉七口 + 一口・・・・・
   ①極楽寺坂切通
 七里ヶ浜を通り藤沢片瀬方面へ抜ける道で、京都方面との行き来に使われる道でした。現在は車が通れるように幅が広げられ、勾配も緩やかにされています。昔の道は今の道よりも14~15m高い成就院の門前を通っていたようです。現在の道に昔の面影は全くありませんが、崖には岩が露出し切り下げた跡が残っています。
 江ノ電の極楽寺駅や御霊神社、坂ノ下の古民家カフェが近いので、若い観光客も歩いています。
 

[ 極楽寺坂切通し(2016年):坂の下側から]


[ 極楽寺坂切通(2016年):極楽寺駅側から ]
   ②大仏切通
 藤沢方面へ抜ける道。切通の下には明治40年頃に大仏トンネルが掘られたので、大仏側から上る際は切り下げられた道路から上ることになり、とても急な階段を上らなければなりません。住友常盤住宅に近いところは比較的勾配が緩やかなので、犬の散歩に使っている人もいます。
 西側入口の近くには石材を削り出した後と思われる切岸や小さな広場があり、古の街道の雰囲気が味わえます。
 

[ 大仏切通(2019年):幅は2m弱で置石がたくさんある ]


[ 大仏切通(2019年):切岸も見られる ]

  ③化粧坂
 鎌倉中心部から武蔵の国府方面への重要な道だったようですが、現在は源氏山につながる道のひとつとしか思えず、昔の重要性が感じられない道です。尾根筋は公園になっているので昔の道がどこを通っていたのか分かりません。
 残っている道は急坂で雨水などによる浸食がはげしく、土砂は削られ硬い部分だけが残り奇妙な形になっています。冬でも水が浸み出しているので、歩くときは汚れに注意です。


[ 化粧坂切通(2019年):硬い岩の部分が階段状に残っている ]


[ 化粧坂切通(2019年):すぐ下は住宅が立ち並ぶ ]
  ④亀ヶ谷坂
 大船、戸塚方面への道。現在は両側の崖が崩れそうなため、車の通行はできなくなっていますが、車が通れるようにするため切り下げられて現在の姿になっています。鎌倉市内のどこにでもあるような道なので、案内板がないと鎌倉七口の切通だったとは思えない道です。
 舗装されていますが、自転車で上るのはきつい坂です。
 

[ 亀ヶ谷坂切通(2014年):北鎌倉駅側から 車は通行止め ]


[ 亀ヶ谷坂切通(2014年):鎌倉駅側から 通行止めが置かれている ]
  ⑤巨福呂坂
 鶴岡八幡宮の西から大船方面への道でしたが、車が走れる県道の開削によって残念ながら昔の道はなくなってしまいました。北側の円応寺から見ると現在の県道は切通に比べ相当低くなっていることが分かります。鶴岡八幡宮側から進むと途中に送水管用のトンネルがあり、右にしばらく上ると行き止まり。
 鎌倉七口のなかで唯一通り抜けができない悲しい道になっています。
 

[ 巨福呂坂切通(2019年):円応寺側から]


[ 巨福呂坂切通(2018年):鶴岡八幡宮側から ]
   ⑥朝夷奈切通(横浜・鎌倉市境)
 三浦半島の反対側にある六浦、金沢八景方面へ抜ける道。六浦は鎌倉の外港としての機能があり、海路で房総半島へもつながっていました。海辺で作られた塩もこの道を通って運ばれました。1956(S31)年に迂回する県道が開通するまで県道として使われていましたが、七口の中でも長い区間が昔の姿が比較的良好に残っているようです。
 横浜市と鎌倉市にまたがり1kmを超える道が残り、市境には標石が立っています。
 

[ 朝夷奈切通(2018年):教科書に載りそうな切通 ]


[ 朝夷奈切通(2018年):横浜横須賀道路が上空を横断する ]
   ⑦名越切通(逗子・鎌倉市境)
 三浦半島方面への道。切通の下に1883(M16)年にはトンネルが掘られたので、昔の姿をとどめているそうです。神奈川県や逗子市の調査によると、最も狭い幅90㎝の第一切通はかつて270㎝以上の幅がありましたが、地震等による崩落で現在の幅に狭まったことが分かりました。また、このルートの最も古い遺物は江戸時代のものなので、鎌倉時代は違うルートだったようです。
 途中に火葬した骨を収めるまんだら堂やぐら群がありますが、公開は期間限定のようです。
 

[ 名越切通(2017年):最も狭い第一切通 ]


[ 名越切通(2017年):まんだら堂やぐら群 ]
  ⑧釈迦堂切通
 浄妙寺と大町をつなぐ道。鎌倉と他の地域を結ぶ道ではないため鎌倉七口には数えられませんが、岩山をくり抜いたトンネルは迫力があります。残念ながら過去に大規模な崩落があり、現在も崩落の危険性があるため通行止めになっています。風化が進んだ凝灰岩の岩肌は縞状の模様が鮮明になり、海の下で造られた地層であることが分かります。
 鎌倉市では人が通れるように対策を検討中で、2019、2020年度に工事を予定しているそうです(2017.7時点)。
 

[ 釈迦堂切通(2017年):通行止めです ]


[ 釈迦堂切通(2017年):すぐ下には住宅が迫っている ]
   切通の幅は、鎌倉時代にどの程度あったのか詳しいことは分かっていません。土でできた道なので長年の人馬の往来によって、現在の切通は鎌倉時代とは大きく姿が異なってます。今日見ることができる切通でさえ急カーブと急勾配の連続なので、いずれの時代でも徒歩または馬で通るのが精いっぱいの道だったと思われます。 
 平坦地の少ない地形が、車輪を使った馬車などの発達を妨げたのでしょうか。


■ 山と城壁・・・・・
 

[ 名越切通(2017年):よどこにでもある山道の様相 ]

   鎌倉を囲む三方の山は、断崖・絶壁の連なる山ではなく城壁や柵も設けられていませんでした。切通は鎌倉防衛のための機能を強調して説明されることがあり、鎌倉を守る山々に開けられた城壁の門のようなイメージを抱きがちですが、現地を見る限り人と物資の往来に必要な街道の一部と考えるのが正解のようです。
 日本国内の戦は単一民族による陣取り合戦のような争いなので、大陸における異民族間の戦いのように皆殺しや奴隷化などに備える堅固な城壁までは必要なく、お城も武将だけが立て籠もるための城郭に止まっていました。
 

[ ローマの城壁(2018年):アッピア街道が通るサンセバスティアーノ門 ]
   欧州には今でも城壁が残る都市があります。ドイツのローテンブルクは、中世の城壁と建物が残るテレビなどでよく取り上げられる観光地です。しかし中世に火薬が発明され大砲などの火器により城壁が無力化されると、大都市の城壁は取壊され跡地は環状道路や公園、宅地にされ市街地は拡大しました。その中でもローマは比較的多くの城壁が残っています。
 日本人が竪穴式住居で生活していたころ、ローマ市内にはすでに水道が引かれ271年から275年にかけて皇帝アウレリアヌスによって、高さ8m・全周19kmに及ぶコンクリートとレンガ造りの城壁が完成しているのです。 しかもこの城壁は紀元前4世紀までに造られたセルウィウスの城壁に次ぐ次の2代目なのです。
 

[ ローマの城壁(2018年):ローマ水道も城壁に使われた ]
   中世以前において異民族(いわゆる外人、異人)との接触は、肌の色や服装などの容姿容貌さらに食習慣や生活習慣が異なり言葉も通じないので、まさに「未知との遭遇」です。大陸の都市には城壁が造られ、英語で「Alien」が外国人と異星人を意味することに納得がいきます。
 ローマ人の技術には驚嘆しますが、異民族に対する恐れは島国日本に住む日本人には到底理解し難いものです。
   

 

 
おまけ   [ Café 坂の下 ]
 古民家を使った坂ノ下にあるお店です。ドラマに登場するカフェのモデルになったお店で有名です。この手のお店は女性がいないと入りづらいものがありますが、パンケーキのボリュームは手ごわいものがあります。
 
<参考資料>
○中世のみちと都市 (藤原良章 2005.9.25 山川出版)
〇逗子市ホームページ 国指定史跡 名越切通
(http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/syakyou/newbunkazai/nagoe/nagoe.html)
○横浜市教育委員会ホームページ 国指定史跡「朝夷奈切通(あさいなきりどおし)」
(http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/bunkazai/sekai/asaina.html)