chapter-127 川越の環状道路 
[2019.03]
                                       chapter-09を改訂

■ 環状道路ができた・・・・・
 

[ 開通(2019):開通式典の日 ]
   川越市の中心市街地を取り囲む環状道路が2019(H31)年3月24日に全線開通しました。
 この日の川越北環状線開通により、ようやく環状につながったのです。北環状線は平成元年に都市計画決定され、平成最後の31年に開通することができたのです。
 

[ 赤点線部分が2019年3月に開通 ]
( 地理院地図 電子国土Webを加工 ) 
   川越の中心部を囲む環状道路は3本の道路で構成され、南北約6km、東西約3kmで縦長の洋梨のような形をしています。
  東側:福田交差点~小仙波(南)交差点 国道254号
  西側:福田交差点~脇田新町交差点 県道川越北環状線
  南側:脇田新町交差点~小仙波(南)交差点 国道16号
 県道川越北環状線には片側1車線の区間があり、国道254号は歩道のない区間もありますが、とりあえず三本の道路で環状につながりました。
 欧州では城壁の跡地を使って環状道路が造られることがありますが、日本の城には街を囲む城壁はありませんでした。大都市では環状の高速道路が造られつつありますが、中小都市では余程しっかりとした計画を立てて重点的に整備しない限り環状道路はできません。  


[ 川越北環状線(2019年):2009年に開通した幅25mのところ  ]
   環状道路の全線開通により、どの方角から来ても蔵造りの街並みや時の鐘がある中心部を通らなくて済むので、人通りの多い観光地の交通対策としても期待されています。
 蔵造りの建物が並ぶ一番街の中央通りは都市計画幅員20mでしたが、拡げると蔵造りの建物を移転しなければならないため、現状の幅である9m~11mに狭くする都市計画変更が伝統的建造物群保存地区の決定にあわせて行われました。この時に「渋滞解消のため現計画を進められたい」との反対意見書が出されましたが、都市計画審議会では「(バイパスとなる)川越北環状線などの整備が進められている」との答弁がなされ、幅員を狭くする都市計画変更が実現したのです。
 

[ 国道254号(2019年):建設当時の幅16mのままの姿 ]

■ 昔の川越・・・・・
 

[ 明治迅速測図(1880~86年に完成):矢印の先が『札の辻』 ]
  川越は埼玉県では珍しく江戸時代から繁栄を続けている歴史のある都市です。
1457年に太田道真、道灌父子により築城された川越城の城下町として発展し、松平信綱や柳沢吉保が城主であったことでも知られています。また、喜多院には五百羅漢のほか、江戸城から移築された徳川家光生誕の間や乳母であった春日局の化粧の間があります。
 江戸時代の川越は、新河岸川の舟運によって江戸との物流が盛んになり、近隣から農産物などが集まり商業も栄えていきました。各種の問屋や商店が川越城大手門前(現在の市役所付近)を中心に集まり、川越の中心市街地が形づくられていきます。  



[ 蔵造りの街並み(2018年):川越祭りの人出 ]
   川越の街並みは、1638(寛永15)年の大火後の松平伊豆守信綱による町割が原型になっています。城下町によく見られるように外からの敵の侵入に備え、道路は直進させず作為的にT字交差や屈曲させて造られました。その中で『札の辻』は比較的大きな道が交差する市内でも珍しい十字路でした。
 まだ『札の辻』周辺が川越の中心だった頃の1893(M26)年に、町の3分の1以上を焼失する川越大火が発生しました。この大火をきっかけに蔵造り建物の耐火性能が着目され、多くの蔵造りの店が建てられて今日の一番街周辺に蔵造りの街並みがつくられたのです。
 「小江戸・川越」と言われるので、最近は江戸情緒を求め海外からの観光客も多いようですが、蔵造りの街並みは江戸時代から続くものではなく、多くは明治期に造られた建物なのです。  
 

[ 鈎曲り(2015年):戦前の都市計画道路 2-3-1松江町御代橋線 ]
   1895(M28)年になると川越鉄道(現・西武鉄道)が川越~国分寺間で開通し、東上鉄道(現・東武鉄道)も1914(T3)年に開通しました。鉄道は当時の市街地を避けたため、本川越駅、川越駅、川越市駅は『札の辻』より1~2kmほど南に造られました。
 また、これまで東京への主要な交通路のひとつだった新河岸川の河川改修が1920(T9)年から始まると、水深が浅くなり通船が困難になったため1925(T14)年に定期早船は全面廃止に追い込まれ、1931(S6)年には通船停止の県令が出され舟運は終りを迎えたのです。
 

[ 新河岸川(2017年):寺尾河岸跡 ]
   人や荷物の移動手段が舟運から鉄道へ転換するのに合わせたかのように、1922(T11) 年12月1日、川越町と仙波村は合併し埼玉県内で最初の『市』である川越市が誕生しました。当時の川越市は人口約3万人、面積は約12平方キロメートルで、現在(2019年)の約35万人、109.13平方キロメートルに比べると1/10程度の規模でした。



■ 昔の都市計画街路・・・・・
    川越市は市制施行を都市として発展するための契機ととらえられ、長期的かつ総合的な計画を立てるため都市計画委員会を設け、1924(T14)年10月10日に第一回の会合が開かれました。委員会で一致を見た川越市の課題は次の7項目でした。
 ・耕地整理事業:郊外で150~160町歩の耕地整理(現在の土地区画整理に相当)
 ・墓地整理:市内に散在する20寺院5町歩の墓地を移転集約
 ・下水速成:市街地の下水道早期整備
 ・三線連絡:西武鉄道、東上鉄道、西武電車(川越~大宮の軌道)の三駅の連絡強化
 ・道路の改修:目抜き通り以外の拡幅、屈曲の解消
 ・赤間川運河の開削:市の東南部の舟運を図るための開削
 ・工場招致:工業による産業振興を図る
 このうち耕地整理事業は、市街地の南部で1929(S4)年から1943(S18)年にかけて、都市的土地利用にも配慮し400ヘクタールを超える大規模な川越耕地整理事業が行われました。また下水道の整備も1932(S7)年から進められましたが、墓地の整理や工場誘致など進展が見られない課題もありました。 
 

[ 富士見橋(2015年):昭和11年3月に川越耕地整理で造られた橋 ]
   市の振興を図るため川越市は、大都市以外でも適用できるよう改正された都市計画法の適用を1933(S8)年2月10日に県内で初めて受け、同年11月27日に川越市と田面沢村が川越都市計画区域に決定されました。都市計画街路は1936(S11)年5月9日に最初の決定が行われました。
 

 
1 2-2-1 松江町二枚橋線 w=15m 15 2-3-11 琵琶町菅原町線 w=11m
2 2-2-2 鐘打町市駅線 w=15m 16 2-3-12 菅原町市駅線 w=11m
3 2-2-3 新田町駅通線 w=15m 17 2-3-13 広小路杉下線 w=11m
4 2-3-1 松江町御代橋  w=11m 18 1-小-1 喜多町柳町線 w=8m
5 2-3-2 中央通北谷線 w=11m 19 1-小-2 志義町通清水町線 w=8m
6 2-3-3 松江町初雁線 w=11m 20 1-小-3 通町線九十橋線 w=8m
7 2-3-4 松江町十石橋線 w=11m 21 1-小-4 新田町駅小仙波線 w=8m
8 2-3-5 広小路線 w=11m 22 1-小-5 境町深町線 w=8m
9 2-2-4 西町停車場線 w=15m 23 1-小-6 北久保町通線 w=8m
10 2-3-6 六軒町高沢橋線 w=11m 24 1-小-7 松江町大仙波線 w=8m
11 2-3-7 中央通神明町線 w=11m 25 1-小-8 松江町六軒町通線 w=8m
12 2-3-8 志義町通線 w=11m 26 1-小-9 北久保町相生町線 w=8m
13 2-3-9 広小路三田線 w=11m 27 1-小-10 西町烏頭坂線 w=8m
14 2-3-10 琵琶町志多町線 w=11m 28 1-小-11 脇田小路線 w=8m
[ 戦前の都市計画街路 ]
   城下町の町割が残る川越市街地は、真っ直ぐに通り抜けられる道がなかったため、最初に決定されたのは市街地を南北及び東西に貫く街路と、その道から駅を連絡する街路でした。さらに翌年12月28日に格子状に南北・東西方向の街路を追加し、ほぼ主要な街路の計画が出来上がりました。
 駅周辺の計画街路が少ないように感じますが、川越耕地整理事業によって矩形の街区と幅4m・6m・8m・11mの道路も造られていました。ただし、耕地整理は宅地を除いて事業が行われるため、道路が拡げられたり区画が整形されたのは田畑だけです。  
 

[ 川越耕地整理:青線は国道16号 区画を壊さず宅地をかけない計画 ]

   決定された計画は南北方向に二つの骨格となる経路がありました。松江町交差点を起点とする2-3-4松江町十石橋線及び2-3-1松江町御代橋線は、川越街道ににつながる街路ですが市役所付近から南側は昔からある程度の幅の道があったため、中心部では都市計画にあわせた拡幅はほとんど行われていません。
 連雀町交差点でつながる2-3-7中央通神明町線及び2-3-1中央通北谷線は、蔵造りの街並みがある仲町交差点以北は東松山方面へ向かう松山街道がありましたが、仲町交差点の南側は新たに道が切り開かれました。仲町交差点~本川越駅は都市計画街路が決定される前の1933(S8)年10月に開通し、本川越駅から川越駅西口までの間も戦前には都市計画決定の幅11mで開通しました。


[ 仲町交差点(2017年):昭和8年に本川越駅まで幅11mで開通 ]
   東西方向の街路整備は南北方向に比べ遅れました。松江町を起点とする2-3-3松江町初雁橋線と2-2-1松江町二枚橋線は現在の県道川越日高線ですが、松江町交差点は西側には道のないT字路でした。戦前から事業が進められていましたが、現在のように市街地を東西に貫くようになったのは1967(S42)年でした。
 この他の計画街路はほとんど整備が進まないまま、主要な道路では舗装が進められ自動車の通行も急激に増加しました。川越街道は1955(S33)年に393台/日だった交通量が、全線が舗装された後の1958(S33)年には2085台/日になり、中心部に入り込む交通も増え貧弱な道路の状況が露呈ました。
 

[ 松江町交差点(2019年):昔はこの先に道はなかった ]

■ 少し昔の都市計画街路・・・・・
 

[ 合併の変遷 ]
   戦後、中学校や消防の設置、社会福祉、保健衛生などが市町村の新たな事務となり、事務処理のためには規模(8000人程度)の合理化が必要とされ、川越市は1955(S30)年4月1日に周辺9村を吸収合併し、約17平方キロメートルから一気に110平方キロメートルに広がったのです。
 また、東京区部の過密化を抑制し衛星都市に人口と産業の分散を目指す首都圏整備法が1956年4月に施行され、川越市では市街地開発区域の指定を目指し新たな計画策定の機運が高まっていきます。
 川越市は新たな市域全体の隆盛を図るため、1960(S35)年に「川越市都市計画立案報告書」を作成しました。現状のままでは1975(S50)年の人口は12.7万人にとどまるが、工業団地及び周辺開発により20万人に増加すると予測し、川越狭山工業団地や市街地を取り囲む環状道路を示唆するものでした。
 

[ 1974年までに完成した歪な環状道路 ]
    川越市と狭山市の境では、日本住宅公団によって248ヘクタールに及ぶ土地区画整理が行われ158ヘクタールの工場用地と47ヘクタールの住宅地が生み出され、1964(S39)年から企業の入居が始まり本田技研、ロッテなどが進出しました。都市計画街路の見直しも行われ、合併によって拡大した地域への対応とともに中心部への交通流入の抑制を図るため不完全ながら環状道路を採り入れた計画が、1962(S37)年3月19日に告示されました。
 この計画を載せた「川越市都市計画街路網図」は、都市計画路線のほかに構想路線も記載されている珍しい図面でした。
 川越市内の交通事故は1959年~1961年~1963年にかけて2年ごとに件数・負傷者が倍増していたこともあり、環状道路を構成する道路の整備は積極的に進められたようです。
  ・1966(S41)年度 県道川越日高線月吉陸橋
    陸橋部分は幅8mで開通
  ・1967(S42)年度 国道254号(山田~小仙波)
    都市計画幅員16m、4車線で開通
  ・1969(S44)年9月 国道16号川越バイパス(脇田新町~小仙波)
    都市計画幅員18,20m、4車線で開通
  ・1972(S47)年  市道 西バイパス(県道川越日高線三光町~国道254号神明町)
    都市計画幅員12m、2車線で開通
  ・1974(S49)年9月 市道 川越環状線(国道16号脇田新町~県道川越日高線)
    都市計画幅員16m、2車線で開通 
 川越市はここまでの環状道路の整備によって、市街地を通過する交通をすべてバイパスできるようになったと考えていたようです。
 

[ 川越市人口と埼玉県自動車保有台数 ]
   しかも1960(S35)年以降、川越市の人口は激増し1975(S50)年の人口は目標の20万人を大きく上回る22.5万人に達しました。自動車の増加はさらに激しく同時期に13倍に増加しています。このような状況では、漸くつながった環状道路では市街地の交通改善に至らず、1989(H1)年に市街地を4車線道路で囲む新たな道路が都市計画決定されました。
 新たな道路は、1974(S49)年に2車線で完成している川越環状線を北へ国道254号まで約4.3km延伸し、4車線の車道と両側に歩道を設けられる幅員25mとする川越北環状線を計画したのです。
 2019(H31)年3月の開通部分は延伸され区間のうちの約1.3kmで、1974(S49)年の歪な環状道路が北西側に広がり洋梨型の環状道路としてつながりました。しかし、残念なことに1974(S47)年に2車線で開通していた区間約1.2kmはそのままです。
 

[ 川越北環状線(2019年):幅16mが25mに都市計画変更された区間 ]
   洋梨型の環状道路を構成する国道254号、県道川越北環状線、国道16号は、それぞれ川越志木線、川越北環状線、川越環状線という都市計画道路ですが、幅員が異なるうえ同一の路線でも幅員の異なる区間があります。2019年時点の都市計画幅員は下のとおりですが、1962(S37)年の都市計画決定から計画幅員が拡げられた路線もあります。
 ・国道254号:(都)川越志木線
    福田交差点~山田交差点 25.0m
    山田交差点~博物館入口交差点 23.5m
    博物館入口交差点~小仙波交差点 20.0m
    小仙波交差点~小仙波(南)交差点 立体交差部分
 ・県道川越北環状線:(都)川越北環状線
    福田交差点~脇田新町交差点 25.0m
 ・国道16号: (都)川越環状線
    脇田新町交差点~新宿町(北)交差点 18.0m
    新宿町(北)交差点~小仙波(南)交差点 20.0m   
 国道254号の幅20mの区間は、新河岸川と並行しているため片側の歩道がいらないので、幅23.5mの区間とほぼ同じ水準の道路です。国道254号は昔の都市計画幅員16mで造られた道路で、少しずつですが幅が広げられ右折帯や歩道が造られています。 
 

[ 国道254号(2019年):都市計画幅員20mのところ ]
    一方、国道16号は狭い都市計画の幅に無理やり4車線の車道と歩道を詰め込んでいます。
 幅18mの区間は、戦前に川越耕地整理事業が実施されたところで、耕地整理で造り出した矩形の街区を壊さないように計画されたため、曲線ではなく直線が折れて曲がる道路になっています。幅18mでは中央分離帯を設けることもできず歩道の幅は2mしかありません。幅20mの区間は中央分離帯を入れ込んだ分だけ広くなった形です。
 どちらも現在の基準からみると狭い道路で、右折帯のない交差点は渋滞の名所になっていますが、都市計画が変更されていないので当分はこのままの状態が続くようです。  
 

[ 国道16号(2019年):都市計画幅員18mのところ ]

■ これからは?・・・・・
 

[ 脇田新田交差点(2019年):16号が直角に曲がる ]
   環状道路のうち2車線で残っている脇田新町交差点~県道川越日高線の区間は、都市計画幅員が16mから25mに変更されているので今後拡幅される可能性があります。ただし、国道16号が直角に曲がる脇田新田交差点は、現在でも四六時中渋滞しているので4車線に拡げる際には、立体交差化などの工夫が必要です。しかしまわりは建物が建て込んでいるうえに近くには西武線立体交差があるので、交差点の立体交差化の実現は厳しそうです。
 拡幅に時間がかかると全線が4車線になる前に、人口の減少やドローンの普及等で交通量が減っているかもしれません。


   

 


 
おまけ[ みどりやのやきそば(2013年) ]
 県立川越高校の近くにあるやきそばやです。入口を見ると駄菓子屋の雰囲気なのですが、奥にテーブルと椅子があり、店内でやきそばを食べられます。メニューは焼きそば特大・大・中の3種類のみ。昔と変わらぬ超シンプルなソース味の太麺やきそばです。写真はやききそば大で400円でした。


 
<参考資料>
○新編埼玉県史 通史編 (埼玉県 1988.3)
○第166回埼玉県都市計画地方審議会 平成11年3月11日 議案・資料 (埼玉県 1999.3.11)
○大宮国道30年史 (建設省関東地方建設局大宮国道工事務所 1988年11月)
○川越市史第4巻近代編 (川越市 昭和53年3月31日)
○川越市史第5巻現代編Ⅰ (川越市 昭和47年3月31日)
○川越市史第5巻現代編Ⅱ (川越市 昭和56年12月15日)
○町割りから都市計画へ (川越市立博物館 平成9年3月22日)
○資料でたどる川越市の歩み (川越市立博物館 平成14年10月5日)
○埼玉県統計年鑑 (埼玉県)