chapter-55 道路構造令と街路構造令 
[2012.04]

■ 道路と街路・・・・・
   言うまでもありませんが「道路」とは人、自転車、自動車などが通るところで、幼稚園児でも知っている言葉です。
 「道」、「路」、「途」、「径」も道路とほぼ同じ意味で使われていますが、「道路」は「道」、「径」などよりも自動車が多く通り、幅の広い人為的に造られたものといった感じがします。


[  新しく造られた道路(2012年):さいたま市内の国道463号 ]
   < 広辞苑(岩波書店) >
  道路 = 一般公衆の交通のために設けられた地上の通路。みち。往来。
  道、路、途、径 = 人や車が往来するための所。通行する所。道路。通路。
  街路 = 市街の道路
   「道路」のほかに、建設業界には「街路(ガイロ)」という言葉があり、業界人の間では道路とならびよく使われますが、一般の人にはあまりなじみのない言葉です。
  「街路」という言葉を耳で聞いてもイメージがわきませんが、文字を見れば街なかの道のことだろう、と想像はつきます。しかし道路と街路には大きな違いがありました。
 

[ いかにも街路(2012年):三井本館と三越の間]

■ 2つの構造令・・・・・
  道路や街路のほとんどは国・都道府県・市町村が造りますが、その際に一般的技術基準となるのが道路法に基づき定められた『道路構造令』という政令です。
 地方分権や地域主権の流れによって、一部の条項が地方公共団体の条例に委ねられている部分もありますが、根本的な部分はこの構造令の規定に基づいています。したがって、全国の道路・街路は道路構造令の規定によって造られていると考えて差し支えありません。


[ 山間地の道路(2002年):道路構造令に基づいて造られる ]
  現在の道路構造令は、東京のような都市部の道路も人口の少ない地方部の道路も対象にしていますが、旧・道路法の時代(1919~1952年)には『道路構造令』と『街路構造令』の2つの構造令が存在していました。
 道路構造令[1919]の対象となる道路は、旧・道路法の規定により「一般の交通の用に供する道路にして行政庁において第二章による認定をなしたるもの」で、大臣、知事、郡長、市長、町村長が認定した路線(国道・府県道・郡道・市道・町村道)が対象となっていました。一方、街路構造令は、道路構造令[1919]の第19条「街路の構造については特別の定めをなすことを得」という条文に基づいた政令で、対象となるのは街路構造令第1条に「街路と称するは地方長官の指定する市内及び市に準ずべき地域内における道路」と定められ、道路構造令に比べると限定された地域に適用されていました。



■ 街路構造令の特徴・・・・・
    街路構造令では車道と歩道を区別し、各側の歩道幅は全幅の1/6を下回ってはならない、とされていました。区別しないことが許されるのは一等小路(4間以上)と二等小路(1間半以上)に限られ、幅の広い広路(24間以上)と大路(6間以上)には必ず歩道が造られたのです。
 一方、道路構造令[1919]は、国道の有効幅員は4間以上、府県道の有効幅員は3間以上であり、街路が断然に広い幅を確保していたことがわかります。街路は、人や車を通すという道路としての最低限の機能のほかに、広い空間を確保し街並みを整え質の高い都市空間を創り出そうとする意図がうかがえます。
 

[ 復興事業の内訳:道路が過半を占める ]
   1923(T12)年9月に起きた関東大震災後の復興事業では、短い事業期間に多くの街路の築造が必要だったため、街路構造令を定型化した「歩車道幅員標準図」がつくられ、これに基づき多くの街路が迅速に整備されました。
 当時の人々の努力により震災復興事業は1923~1929年度で完了し、1930(S5)年3月26日に帝都復興完成祝賀会が挙行されました。東日本大震災後の遅々として進まない復興と比べると、帝都復興事業の驚異的な速さが際立ちます。
 

[ 昭和通り(2012年):江戸橋1丁目付近 ]

   震災復興で整備された街路の中でも有名なのは銀座の東側を通る「昭和通り」です。復興計画の当初案では、東京駅と皇居を結ぶ行幸通りと同じ40間約72mという規模でしたが、復興予算の縮小に伴い幅員が大幅に削られました。それでも幅44mの幹線道路として整備され、中央には広い緑地帯があり、車道と歩道の間にも並木を設けたゆとりのある道路でした。
 昭和通りはその後、1964(S39)年開催の東京オリンピックの交通対策として、中央の緑地帯は交差道路との立体交差に使われ、街路樹も歩道部の2列のみになり自動車交通のための道路になりましたが、現在でも幹線道路として十分な機能を果たしています。


[ 昭和通りと首都高(2012年):江戸橋付近 ]
   さらに街路構造令は第二次世界大戦の空襲で焼き尽された都市の戦災復興の際も、戦災復興都市計画街路標準横断図の基礎となり各都市の復興計画に用いられました。
 しかし戦災復興事業は財政難のため、昭和24年6月24日に『戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針』が閣議決定され、その方針のひとつ「幅員のはなはだ大なる街路(概ね30メートル以上)は、その実現性並びに緊要度を勘案して適当に変更する。」に沿って、残念ながら多くの都市で街路の計画が縮小されました。
 戦災復興による街路整備が計画を縮小することなく進んだのは、名古屋などごく少数の都市のみで東京では大幅な縮小・削減となったことは有名なお話です。
 

[ 市役所通り(2007年):熊谷市役所~国道17号 ]
   埼玉県内で唯一戦災復興事業を行った熊谷市も例外ではなく、幅50mで計画していた市役所前通りは1950(S25)年に36mに縮小され現在に至っています。現在は市の郊外に幅50mの17号熊谷バイパスもありますが幅36mの道路は熊谷市街で最も広く、市役所~国道17号の間は中央に広い植樹帯と両側に街路樹のある広い歩道が造られ、国道17号~JR高崎線の間は4車線の車道と大きな街路樹があるゆとりある空間になっています。
 

[ 市役所通り(2007年):国道17号~JR高崎線 ]

■ 交通事故と自動車の激増・・・・・
    街路構造令は歩道を設ける旨の規定がありましたが道路構造令[1919]には歩道に関する条項がなかったため、全国に広がる国道や府県道で歩道が造られたところは多くありませんでした。
 

[ さいたま市内の産業道路(2011年):昔の道路は歩道がない ]
   道路構造令[1919]が制定された当時は自動車台数が1万台弱と極めて少なかったので、地方部では歩道がなくても自転車や歩行者が大手を振って道路を通行できました。
 しかし、経済企画庁が「もはや戦後ではない」と経済白書(1956年7月)に記述した頃になると自動車は200万台を超え、10年後の1968年には5倍の1000万台を突破する増加ぶりでした。
 

[ 交通事故と自動車台数 ]
   また、交通事故は自動車の増加を上回る勢いで増え、1955(S30)年に6,379人だった交通事故死者数は年々増加し、1960(S35)年にはほぼ倍の12,055人となり大きな社会問題になりました。ピーク時の1970(S45)年には16,765人が交通事故により亡くなっています。
 交通事故の原因はドライバーの運転や歩行者の通行の仕方にも問題はありましたが、歩道や信号機の整備が十分でないため、歩行中の死者が最も多くなっていました。


■ 道路構造令[1958]・・・・・
    激変する道路交通の状況に対応するため、1958(S33)年に新しい道路構造令が制定されました。これにより『街路構造令』は廃止され『道路構造令』に統一されました。
 これまでの構造令は道路の種類、造る場所が決まるとほぼ自動的に幅員が決まりましたが、新たな構造令では最新の道路工学の知見を取り入れ、概ね20年後の交通量に関連させて車道の幅員を決定する規定になりました。車道は、自転車交通量の割合が高くなると通行できる自動車数が減り、同じ自動車数を通すためには幅を広げるようになっていて、最近問題視されている自転車の通行スペースへの配慮がされていました。
 

[ 県道練馬川口線 和光市内(旧大和町):1963(S38)年の工事図面 ]
    また、『街路構造令』の対象となっていた道路は、「市街部:市街地を形成している地域又は市街地を形成する見込みの多い地域」にある道路として、「第4種」または「第5種」の規格を適用することになりました。
 改正された構造令の第9条には「第4種の道路には、その各側に歩道を設けるものとする。」とされていたので、「第4種」の規格が適用されれば国道でも都道府県道でも市町村道でも歩道付きの道路整備が進むはずでした。しかし「市街部」の定義のうち、「市街地を形成している地域」は判別が容易なのですが、高度成長期にあって「市街地を形成する見込みの多い地域」の捉え方は難しかったと思われます。
 

[ 県道練馬川口線(旧・浦和田無線):1964(S39)年の開通式の様子  ]
   和光市内の県道練馬川口線は、東京オリンピックに合わせ1964(S39)年8月に開通した道路ですが、開通式典の写真(東輝橋歩道橋下)では歩道が設けられていません。
 この区間は板橋区、練馬区に接していて、道路ができると市街化が進む地域と考えられるのが普通ですが、開通時には歩道が造られず、その後、必要に迫られて狭い道路用地の中に4車線の車道と歩道を入れ込むことになりました。
 少ない予算で多くの道路を整備するためには、歩道のない「第2種」や「第3種」の方が用地買収費も工事費も少ないため、歩道付きの「第4種」や「第5種」の適用は消極的になりがちだったと思います。
 

[ 50年後の県道練馬川口線(2015年):歩道の幅は1m程度 ]

■ 道路構造令[1970]・・・・・
 改正を重ねながら現在も使われている道路構造令で、自転車道と自転車歩行者道の規定が設けられました。しかし時代は自動車優先の道路整備が急務であったため、自転車道がつくられることはほとんどなく、自転車と歩行者が混在する自転車歩行者道による整備が進みました。この結果、交通安全の御旗のもとに自転車の歩道通行可が進み、多くの歩道で自転車が走るという、世界的に見ると特異な状況になりました。
 

[ 中山道桶川市街(2015年):狭い歩道を歩行者と自転車が通る ]
   また、この構造令[1970]になってようやく「市街地」以外の「地方部」でも必要に応じて歩道を造ることができる規定が設けられました。ところが日本は欧米と違って土地利用規制が甘く土地所有者の権利が絶大なのでどんなところでも建物が建ち、人が住めば歩行者がいるので、ある程度の交通量がある道路では歩道を造らない訳にはいきません。日本では、土地利用の規制の甘さとそれに便乗する開発や建築が、道路の整備に余計な負担をかけているのです。


[ 狭山市(2005年):住宅、倉庫、畑が混在]
 良質な都市空間や安全な道路を未来に残るストックとして造り出すためには、「全幅の1/6以上の歩道を各側に設ける」のように、単純で思い切った基準があっても良かったのではないかと思えてなりません。


 

 



おまけ   [ 陸上自衛隊広報センター ]
 国道254号沿いの陸上自衛隊朝霞駐屯地にある広報センターです。民主党の事業仕分けでは有料化が提案され、実施したものの来場者が激減したため無料に戻りました。陸上自衛隊の本物の兵器に触れることができるのでマニアには垂涎の施設です。兵器の他に隊員が使っている本物の鉄かぶとを試着することができ、その重さに戦争の怖さを体感できます。
 
<参考資料>
○街路構造令40年の展開 都市と交通 通巻78・79号 (矢島隆 日本交通計画協会 平成21年11日2日)
○昭和38年度 日高狭山線 道路改良工事 狭山市大字広瀬・根岸地内 (埼玉県)
○昭和38年度 浦和田無線 道路改良工事 北足立郡大和町 第3次変更 (埼玉県)
○和光市史 通史編 下巻 (和光市役所 昭和63年3月5日)
〇交通事故統計資料 HAND BOOK 平成24年度版 (埼玉県警察本部交通部交通企画課)