chapter-75 遺跡の卵 
[2014.03]

■ 遺跡・・・・・


[  大戸貝塚(2012年):海のないさいたま市にある貝塚 ]
   一般的に遺跡とは「過去の人類の生活・活動の跡」だそうですが、分類の仕方によっては考古学の資料や文化財としての保護対象になって、はじめて遺跡に分類されることもあるようです。
 人間の生活・活動の跡で価値がないものは、廃構、廃屋、廃品・廃物など「廃」の字を冠して呼ばれますが、古代人のゴミ捨て場であっても貝塚として遺跡扱いされる幸運なケースもあります。
 年月を経ても遺跡になれないかわいそうな施設は世の中にたくさんあります。多くの場合はそのまま残されることはなく、解体・破壊されるため原形を留めていることは稀です。
 しかし、なかには解体・破壊する手間さえ惜しまれることもあるようです。うまくすれば遺跡になれるかもしれません。


■ 地下軍需工場・・・・・


[ 吉見百穴(2011年): 昔の人のお墓 ]
   吉見町にある吉見百穴は、古墳時代に造られた横穴墓地が群集しているところで1923(T12)年に国指定史跡となっていました。
 太平洋戦争の後半なり日本軍が劣勢になると米軍の空襲が激しさを増し、地上の軍需工場は簡単に焼き払われてしまうので、発見されにくく空襲にも強い地下に移転するようになりました。
 史跡だった吉見百穴でも、軍需工場を移すために横穴が掘られたのです。
 現在のさいたま市北区にあった中島飛行機大宮製作所を移すための地下工場でしたが、稼働して間もなく終戦を迎えました。大宮製作所はエンジンの部品を作っていたそうですが、現在は富士重工のビルが一角にあるものの、跡地の大半はヨーカ堂系のショッピングモールになっています。
 吉見百穴の墓穴は斜面に掘られたせいぜい1m前後の大きさですが、軍需工場のために掘られた横穴はそれに比べると大きな穴です。しかしここで一生懸命に部品を作っても米軍の物量にはとてもかなうものではありませんでした。
 

[ 地下工場(2011年):縦、横にトンネルが掘られている ]
   300円の入園料を払えば吉見百穴の見学のほかに、軍需工場の横穴にも入ることができます。横穴の内面は岩肌が露出していて、空気はひんやりとしているので夏の暑さを避けるにはいいところです。
 見学できる部分は工場として使われた部分の一部ですが、格子状にトンネルが掘られているため、照明が消えると迷子になってしまいそうです。
 トンネルの幅は3~4m程度で歩くのには適度な幅ですが、ここに飛行機の部品を作るための大きな機械は入れられないので、手作業による工作が中心の工場だったとしか思えません。
 この地下軍需工場跡は、時たまテレビドラマなどのロケ地としても使われています。
 

[ 坑口(2011年):岩肌が露出している ]

■ 道路の場合Ⅰ・・・・・
 

[ 八丁湖(2011年):谷筋に土手が造られて誕生したため池 ]
   吉見百穴が掘られている斜面の上は、丘陵地が広がっており雑木林のほか、畑、宅地として使われています。さらに、谷筋には堤防を設けて灌漑用のため池が造られています。
 ため池は吉見町のみならず、比企丘陵といわれる地域に数多く点在しているので珍しいものではありません。比較的大きなため池には名前が付けられていて、吉見百穴付近では、八丁湖、大沼、天神沼、和名沼などの名前を国土地理院の1/25,000地形図に見ることができます。
 これらのため池は、江戸時代から昭和初期にかけて築造されたものが多く、土地改良区や水利組合が管理しています。
 

[ 大沼(2011年):ため池のなかでも比較的大きい ]

   そのため池のひとつである大沼は、丘陵地の南端にある面積が約49,000㎡の大きなため池です。
 この大沼の南岸に沿うように未完成の道路が横たわっています。幅10m程度の道で歩道と車道を分離するコンクリート構造物はきちんと造られているのですが、路面は舗装されておらず砂利道のままで、交差する道路から入れないようにバリケードが置いてあります。
 交差する道路の北側は数十m先に雑木林があり、人が歩ける程度の道につながっていますが、どこに向けて道路が造られていくのか皆目見当がつきません。 


[ 未完成の道路 北側(2011年):この先どこへ向かうのか ]
   一方、南側の道は大沼の脇をきれいなカーブを描いており、行き止まりになっている所まで見通すことができません。相当な長さがあります。
 舗装されていない砂利道には雑草が生えているのですが、人がよく歩くところには生えていないので、とりあえず道として地元の人に使われていることがうかがえます。
 完成すれば両脇の歩道を歩くことになるのですが、現在は道路の真ん中を人が歩ける人間最優先の道路です。
 

[ 未完成の道路 南側(2011年):人が歩いたところに草はない  ]
   南側の道は空中写真や地形図でみると、あと少しで県道に到達するのですが、その部分は樹木に覆われています。
 空中写真や地形図を年代順に追ってみると、この道は2000年前後に造られたようですが、なぜか完成しないまま放置されすでに20年以上が経過しています。一向に開通する気配はありません。
 いつになったら通れるようになるのでしょうか。まさか、道路として使われることなく遺跡になってしまうのでしょうか。
 

[ 未完の道路(赤線):もう少しで県道につながる ]

■ 道路の場合Ⅱ・・・・・


[ 通行止めになった旧道(2012年):いつまでこの姿でいられるのでしょうか ]
   この道路は2007(H19)年以降、車両通行止めになっています。
 道幅が狭く歩道もなかったため約600mのバイパスが造られ、もとの道の約900mが旧道となったのですが、まわりに人家がなかったため通行止めになったのです。
 市街地であれば、バイパスができても旧道沿いには建物がありそれなりに使われるので、通行止めになることは考えられません。利用する人がいない山間部の旧道は、維持・管理に費用が限られる自治体にとっては、通行止めにせざるを得ないようです。
 旧道といえどもアスファルトで舗装されているので、しばらくは草も生えず道の形態を保つことができますが、そのうちにひび割れた隙間から木や雑草が生えたり土砂が覆いかぶさり、地形だけが道路であった記憶をとどめることになります。
 こんな道が、都心から1時間程度のところにあるのです。
 

[ バイパス建設中(2005年):新しい道は旧道の2倍の幅員11m ]
   下の写真もバイパスが造られ旧道となった区間です。
 この旧道は峠を越えるところに、1910(M43)年に完成したレンガ造りの「畑トンネル」があるのですが、幅は狭く冬になると巨大なつららが天井からぶら下がるため、東側の山を切り開き1987(H62)年にバイパスが完成しました。
 バイパス完成後もしばらくは旧道も通行できたのですが、土砂崩れが発生したりトンネル本体も老朽化したので、現在は通行止めになっています。
 道路のような簡単な構造物であっても、維持・管理を止めると短い時間で使えなくなってしまうのです。
 

[ 旧・青梅飯能線(2013年):この先にレンガ造りの「畑トンネル」がある ]

■ 船の場合・・・・・
 

[ 退役潜水艦わかしお(2014年1月):横須賀港で解体を待つ ]
   埼玉県に海はないので船といっても池や湖に浮かぶボートぐらいしか想像できませんが、世界の海を航海する船は巨大で末路は様々です。
 最近の小型船はFRP(繊維強化プラスチック)製が多いので、古くなった船の放置が問題になるようですが、鉄で造られている船は廃船になっても再び鉄として利用することができるので、放置されることは少ないようです。
 自衛隊の艦船も例外ではなく退役後は解体されるそうで、横須賀基地の「軍港めぐり」では解体を待つ潜水艦がプカプカと浮かんでいる姿を見ることができました。
 

[ 沈船防波堤(2013年):駆逐艦を沈めて防波堤にした ]
   ところが戦後の混乱期には、鉄でできた軍艦が解体されることなく、そのまま第二の人生を歩むこともあったようです。
 戦争を生き残った軍艦は、武装を撤去して海外に在留していた邦人の復員船として使われ、その後は解体されるケースが多かったのですが、中には第二の人生が与えられた船もありました。
 福島県南部にある小名浜港では、1948(S23)年に「澤風」、「汐風」という2隻の駆逐艦が沈められ、港の防波堤として第二の人生を歩みました。
 

[ 小名浜港1号ふ頭(2013年):この下に駆逐艦がある ]
 戦後の日本は、食料や物資の輸送のため港の整備が急がれたのですが、材料であるコンクリートが不足していたため、コンクリートの代わりに船を沈めて使うことが考えられたのです。  
 1957(S32)年から「汐風」は岸壁としても使われ、石炭を輸送する1万トン級の船が接岸できる岸壁として戦後の経済発展に貢献しました。1920(T9)年に進水した「汐風」は駆逐艦でしたが、それでも長さ102.57m、幅8.92mもある船だったので、防波堤としても岸壁としても立派に最後の使命を果たしました。
 「汐風」は1号ふ頭に埋められたままになっていて、今は広場のブロックが船の位置を示しています。
 

[ 汐風の位置(2013年):一号ふ頭に船体の一部が埋まっている ]
   現在の1号ふ頭は、船が接岸する岸壁の機能から、魅力あるウォーターフロントを創出する親水緑地空間として再開発され、いわき市の観光物産センター「いわき・ら・ら・ミュウ」がつくられ観光の拠点となっています。観光のついでに「汐風」の跡を見学できます。


■ 鉄道の場合・・・・・
 

[ 旧・信越線(2013年):横川~軽井沢 ]
   鉄道といえば、廃線となった跡地が遊歩道や公園となって、鉄道があったことを記憶にとどめていますが、市街地から外れると、家が建てられたり道路敷地の一部になって跡形がまったく残っていないこともあります。
 群馬県と長野県を結ぶ信越線の横川~軽井沢間は、谷あいにあるレンガ造りのめがね橋と周りの山々が美しい景観を作り出しているので、廃止になった後はレールが取り外されトンネルの中や橋の上を歩ける遊歩道に改装され、多くの観光客が訪れています。
 

[ カメ号(2003年):東武妻沼線を走っていた気動車 ]
   一方、1983(S58)年に廃線となった東武鉄道妻沼線(正式には熊谷線)は田んぼの中を通る鉄道で、跡地の利用方法といってもこれといった使い途がなく、今では大部分が道路になっています。
 妻沼線は、熊谷駅から群馬県にある中島飛行機工場へ工員や資材を運ぶために軍の命令により戦時中に造られた鉄道で、計画では利根川を渡り東武小泉線の西小泉駅まで造られる予定でした。結局、利根川を渡ることなく終戦になり、盲腸のような路線で細々と営業していましたが赤字が続き、群馬県まで延伸するには莫大は費用もかかるため、廃線となったのです。
 

[ 小さすぎるガード(2013年):軍事上の必要性で造られたJR川越線 ]
   JR川越線も妻沼線と同様に軍事上の必要性で造られた路線なので、採算性は度外視され人気の少ない所を通っていましたが、埼京線の開通に伴い新宿へ直通電車が走るようになって沿線はずいぶん様変わりました。
 このガードは川越駅と南古谷駅の間にあるのですが、鉄道が廃線にならずとも消滅しそうな運命にあり、とても遺跡にはなれそうもありません。
 ガードは高さ・幅ともに1mほどしかないので、通り抜ける時はしっかりと腰を屈め橋桁に頭をぶつけないように注意しなければなりません。それでも、踏切まで行かずに線路を横断できるので地元の老若男女が利用しています。
 

[ マンションの脇(2013年):水路敷が歩けるように階段が付いている ]
 ガードだけ見ているとどうしてこんなに小さなガードを拵えたのか不思議ですが、北側に建っているマンションの脇を見ると疑問を解くヒントがあります。
 そこには階段が付けられて人が歩けるようになった水路敷があるのです。現役の水路だった頃は、川越線のガード下につながり水が流れていたようです。水路が使われなくなり、ガード下の部分は道路の高さまで埋められたので、現在のように極端に高さのないガードが誕生したのです。
 こんなガード下の通行を黙認しているJRは、少しは地元のことにも気を使っているようです。
 

[ ローテンブルグ(1989年):ロマンチック街道にある古い街 ]
   欧米では古い建物や建造物が大切に使われ、壊れても(壊されても)修繕・復元して使っています。遺跡の中で生活しているようなところもあります。
 古くなれば壊して新しく建替えることが当たり前の日本では、後世への遺産となり得る建物や建造物であっても意識して残さない限り、いつの間にか姿を消してしまいます。
 地震多発国である日本では大地震が起きればすべてが壊され、壊れずとも使い物にならなくなります。頻繁に起きる地震が、新しく建替えることへの抵抗を希薄なものにし、建替え好きな国民性を育んだのでしょうか。


 

 



おまけ [ 四里餅 ]
 埼玉県飯能市内で売っている和菓子で、柔らかい餅であんこを包み込んだ逸品です。あんころ餅というには大きすぎの小判形で、こしあんと粒あんがあり焼印の向きで区別されています。四里餅は柔らかいうちに食べるのが独特の食感が味わえ最高なのですが(消費期限は製造日当日のみ)、固くなってしまった時は少し焼けば違ったおいしさが味わえます。
 
<参考資料>
○小名浜港湾事務所ホームページ (http://www.pa.thr.mlit.go.jp/onahama/port/onahama/history.html)