chapter-95 首都高速道路  
[2016.8 ]

■ 便利になった首都高・・・・・・・・・・
 

[ 江北JCT(2016年):首都高中高環状線と首都高川口線の接続部 ]
   首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の整備が進みましたが、埼玉に住んでいる人は、東京、横浜、浦安方面に行くときに、首都高速道路(首都高)を使うことが多々あると思います。
 東北道や常磐道から都心に向かうと東京外環道の先は首都高に入り、都心に向かうことができます。このほかにさいたま市方面から美女木JCT、高島平を経て都心に向かう首都高も造られ、人口の多い中山道沿いの地域からの利用も結構便利になりました。都内でも、2015(H27)年3月に中央環状線の東名道(大橋JCT)~湾岸線(大井JCT)が完成し、全線が開通したことで都心環状線が渋滞している時間も減りました。
 

[ 関越道練馬IC(2015年):首都高につながらず目白通りに接続 ]
   土曜日・日曜日に遊びに行くときに首都高を使う程度の埼玉県民にとっては、首都高の渋滞が減り不案内な都内の一般道を走らずにすむのであれば、首都高の料金も納得がいきます。便利になった首都高ですが、まだ不便な点がいくつかあります。
 関越道が首都高とつながっていない、東北道からは長々と中央環状線を経由しないと都心部に行けない、2車線と2車線が合流しても2車線など、たまにしか首都高を使わない埼玉県民でも、「なぜ?」と思うところがあります。



■ 首都高の誕生・・・・・・・・・・・・・・
   東京は関東大震災後の帝都復興事業として、台東区、中央区、墨田区、江東区など焼失区域の8割の地域で土地区画整理事業により65地区2,970ヘクタールが整備され、幹線道路(幅員22m以上:国施行)52路線119km、補助線街路(幅員11m以上)122路線139km、区画整理街路605kmが生み出されました。しかし、第二次大戦後の戦災復興事業は、ドッジライン(緊縮財政)による計画見直しによって、広幅員街路は大幅な縮小見直しが行われ、土地区画整理事業の区域は20,165ヘクタールから1,652ヘクタールに激減し、増大する自動車交通需要に対し貧弱なまま高度経済成長期を迎えます。
 

[ 池袋消防署前(2013年):戦災復興事業で整備された都市計画道路 ]
   このため、戦後の復興期から高度成長期にかけて急増する人口、都市の膨張に道路交通の将来も危ぶまれるようになりました。首都建設法に基づき設置された首都建設委員会は、1953(S28)年4月28日に首都建設委員会公告第12号として「首都高速道路に関する計画」を示しました。首都高速道路は往復車線を分離し片側2車線を原則とし、最高速度60km/h、最低速度40km/h、一般道路と交差しない自動車専用道路として、5路線49kmを掲げていました。
 
路線 起点 終点 主なる経過地 摘要 延長
1号 角筈3丁目 岩本町 永田町2丁目
銀座東
 新宿線分岐線、
 浜離宮分岐線 含む
11.6km
2号 玉川 永田町2丁目 上目黒 永田町2丁目にて
1号線に接続
13.1km
3号 西大崎1丁目 駒形橋 赤羽橋
浅草橋
大手町1丁目にて
3号線に接続
12.8km
4号 池袋1丁目 大手町1丁目 八千代橋  東京駅分岐線を含む 8.3km
5号 銀座東8丁目 市場通中橋 数寄屋橋   3.2km
[ 首都建設委員会公告第12号:5路線49kmの概要 ]
   この計画について、昭和28年2月26日の参議院建設委員会において町田保・首都建設委員会事務局長は、「首都高速道路は東京・神戸間の弾丸道路を都内に導くこと、都心部の行き詰っている街路交通の救済、の2つを目的にしている。都心の重要交差点を救済するためには立体交差にしなければならず、すべての交差点を立体交差にすることは結局高架道路又は半地下の道路を設けることになる」と説明しています。さらに、「49kmの総事業費368億円は有料道路とし交通量の伸びを考慮すれば採算も成り立ち、都心における街路交通を救済する方法はこれ以外にない。東海道の弾丸道路を受け入れるためにも都内に高速道路が必要である。」と力説しています。
 

[ 日本橋付近(2015年):神田川の上空を通る首都高速道路 ]
   また、1955(S30)年に東京都建設局計画部長に就任した山田正男氏は、1956(S31)年に『東京都市計画の道路の現状と将来』という白書を作成し、昭和40年に都心部の交通はマヒすると訴えた昭和40年危機説を唱え、打開策として都市高速道路の建設を取り入れたのです。
 1957(S32)年7月に建設省が決定した「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」の概要はつぎのとおりです。

都の周辺部と都心部とを結ぶ平面交差のない自動車専用道とし、できるかぎり有料とする。

都心部と環状6号線とを結ぶ放射線とし、各路線は一体として総合的な高速道路網を構成する。

路線の経過地は極力不利用地、河川上などを利用し、やむをえない場合には、広幅員(40m以上)の道路上に設置する。

構造は高架式または掘割式とし、設計速度は原則として60km/h、車線数は4車線とする。
 同年8月には東京都市計画地方審議会は東京都市計画高速道路調査特別委員会を設置し、都心部から外周へ向かう8本の放射線と都心部を回る環状線で構成される最終案を11月に決定しました。
 
交差点名 昭和32年10月 昭和31年9月 昭和30年9月 昭和29年9月 昭和28年9月
祝田橋 95,565 96,698 63,523 63,537 59,293
日比谷  80,043 84,408 55,445 50,529 51,098
岩本町 71,115 77,273 52,206 50,095 37,027
江戸橋 71,926 71,035 70,100 53,336 57,011
桜田門 70,670 77,634 44,200 43,677 38,292
[ 交通飽和地点上位5か所の交通量(台/日):昭和33年の首都圏整備計画から抜粋 ]
   その後、1958(S33)年7月4日の首都圏整備委員会告示第2号の「首都圏整備計画の基本計画及び整備計画」では、『既成市街地における都市高速道路整備計画』として8路線、延長91kmの路線を選定しています。また、自動車交通量や交通事故の現況を掲げ都市高速道路の必要性を示し、2,3,4,5,6,7号線の環状7号線までの延伸区間や環状形高速道路などを至急調査考究すべき調査路線としていました。
 このような経緯を経て、1959(S34)年8月18日建設省告示第1533号で、首都高の最初の都市計画決定がされました。決定されたのは『既成市街地における都市高速道路整備計画』で掲げられた路線のうち神奈川県分を除き、分岐線2路線を含め10路線、71.03kmでした。



[ 1959年の最初の都市計画決定:現在の首都高路線図に重ねて図示 ]

■ 首都高の都市計画決定・・・・・・・・・・
   最初に都市計画決定された首都高を見ると、各路線は羽田空港、五反田、渋谷、新宿、池袋、上野、浅草、錦糸町といった副都心や主要地と都心を結んでいます。羽田空港を除けばいずれも東京駅から10Km足らずであり、首都中心部の交通の混雑緩和と円滑化のために必要な区間であることが分かります。
 
路線 起点 終点 幅員 延長
1号線 大田区羽田旭町 台東区入谷町 16.5m 20,270m
2号線 品川区西戸越1丁目 港区芝海岸通1丁目 16m 8,220m
2号分岐線 港区新広尾町1丁目 港区麻布谷町 16m 1,390m
3号線 渋谷区大和田町 千代田区隼町 16.5m 6,300m
4号線 渋谷区幡ヶ谷本町1丁目 中央区八重洲6丁目 16.5m 11,070m
4号分岐線 中央区日本橋本石町1丁目 中央区日本橋兜町1丁目 16m 1,200m
5号線 豊島区池袋4丁目 千代田区竹平町 18m 7,810m
6号線 墨田区寺島町3丁目 中央区日本橋兜町1丁目 16.5m 6,240m
7号線 江戸川区小松川4丁目 墨田区東両国1丁目 16.5m 5,970m
8号線 港区芝汐留 中央区宝町3丁目 16m 2,560m
[ 1959(S34)年8月18日建設省告示第1533号の路線:最初の首都高速道路71.03km ]
   都心部と環状6号線(山手通り)とを結ぶ8路線と分岐2路線が放射線と都心環状線を構成しています。出入路(ランプ)は放射状部分には2~4箇所、都心部は1kmごとに1箇所を配置し92箇所が計画されていました。
 都市計画決定された路線の整備は、東京高速道路(株)が建設した区間を除き首都高速道路公団の事業とされ、事業費は914億円(首都高853億円+街路工事61億円)という大規模なものでした。昭和34年度の国の一般会計予算は1兆4950億円しかない時代です。また、当時の大卒国家公務員の初任給10,200円、平成27年の初任給181,200円から現在の金額に換算すると1兆6200億円に相当する巨大プロジェクトです。
 

[ 首都高1号線(2014年):1962(S37)年12月20日最初の開通区間 ]
   この巨大プロジェクトの後押しとなる、国家的イベント第18回オリンピック大会の東京開催が1959(S34)年5月に決定し、大会時に選手・関係者に加え外国からの観客を円滑に輸送するため首都高1号線、4号線などの工事が急ピッチで進められることになりました。
 首都高は河川や広幅員街路の上を通る計画ですが、街路が狭いところ、無いところは用地買収が必要でした。首都高を上空に通すための関連街路事業は、用地買収61,430坪(約20万㎡)、物件補償1501棟に373億円が予定され、限られた時間で完了させるのはまさに難事業でした。
 予算不足に加え、移転者の希望に合う代替地の不足、借家人の移転難航などにより、当初予定していた昭和37年度内の買収・補償の完了は遅れたものの、1964(S39)年10月のオリンピック開会時には、4路線32.8kmが開通しました。首都高の完成によって羽田空港、日本武道館、国立競技場、選手村(代々木)が60km/hで走れる道路で結ばれたのです。首都高がない場合は、羽田空港から国立代々木競技場まで2時間以上かかったそうです。


■ 拡がる首都高・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   昭和30年代後半の経済成長期は東京の人口増加に加え隣接3県でも人口が増加し、さらに自動車の普及は加速度的に進み、道路への負荷は増大する一方でした。また、東名道などの都市間高速道路の建設が進みこれらの道路と首都高の接続、さらには都心部に集中する交通を分散させる環状道路の具体化が急がれました。
 

[ 1都3県の人口:国勢調査 ]
   各路線の延伸や環状線の必要性については、最初の都市計画決定の頃から議論をよび、東京都の首都交通対策審議会、建設省の大都市再開発問題懇話会でも議論され、複数の環状線を設け放射路線を延伸しそれらを結ぶ高速道路網の形成に力がおかれていました。
 また、建設省も数年にわたる調査を行い一応の結論を出し、東京都市計画地方審議会の東京都市計画高速道路調査特別委員会はこれを受け、1967(S42)年度末に首都高の延伸及び環状道路の案をとりまとめ提案しました。
 

[ 東京都市計画高速道路調査特別委員会の提案:総延長は378km ]
   東京都市計画高速道路調査特別委員会の提案は、都心に向かってくるすべての高速道路を首都高で迎え入れ、中央環状線さらに都心環状線に結びつけています。内環状線は半円しかない中途半端な形ですが、その外側にある中央環状線は現在とほぼ同じ形です。外環道は都内分のみの記載でそのほかは埼玉県、千葉県を通っているためか記載がないのが残念です。
 この提案に沿ったかたちで延伸部分の都市計画決定がされていきます。その中で埼玉県民がよく使う5号池袋線、6号三郷線、川口線の都市計画変更は下図のとおりです。
 

[ 首都高の延伸:延伸部の都市計画変更 ]
   当初決定の首都高から外環道に向けて都市計画が延びていきます。東北道や常磐道との接続が急がれる川口線と6号三郷線は、昭和40年代に外環道までの都市計画が決まっています。5号池袋線は都内部分の都市計画決定は早かったのですが、荒川を越えて埼玉県まで都市計画決定されたのは昭和50年代になってからでした。
 首都高は1985(S60)年1月24日に常磐道と、1987(S62)年9月9日には東北道路とつながり都心まで高速道路で結ばれました。遅ればせながら5号池袋線が荒川を越え埼玉県内に入ったのは1990(H2)年11月27日です。
 首都高のHPにある「首都高の歴史(http://www.shutoko.jp/fun/history/)」に区間ごとの開通時期が詳しく載っているので、興味のある方は是非ご覧ください。
 

[ 5号池袋線三園2丁目(2015年):この先は埼玉県 ]

■ 首都高速道路公団の将来計画・・・・・・・



[ 東京都市高速道路将来計画:現在の首都高路線図に重ねて図示 ]
   特別委員会の提案のほかに、同時期に首都高速道路公団が検討した東京都市高速道路将来計画があり、首都高速道路(株)が出している『事業レポート2015』の4ページに小さく載っています。公団の将来計画は環状線の形成により重点がおかれ、外環道を最も外側の環状道路として、その内側に中環状線(首都高中央環状線に相当)と内環状線の2つの環状線を新たに配置しています。 
 内環状線はまったく日の目を見ることの無かった環状線ですが、赤坂見附付近から外堀・神田川・隅田川・浜離宮の南側を通り赤坂見附付近に至る環状ルートで、縦長に歪な現在の都心環状線を矯正するように配置されています。首都高速公団は内環状線が構想の段階であっても実現に向けた配慮をしていたようで、5号池袋線が外堀の上空を通る飯田橋付近では、内環状線と接続できるように道路が広く造られているところがあります。
 

[ 5号池袋線飯田橋付近:上下線とも道路が徐々に広がっている ]
(国土地理院 航空写真 CKT20092-C58-13から一部切取り)
   もし内環状線が実現していたら、内環状線は都心環状線が近いため短い距離で分合流が頻繁に生じ、ルートを熟知していないドライバーにとっては便利さよりも不安と怖さが大きくなっていたかもしれません。
 将来計画にある外環道と中環状線は、東側部分が現在の路線より内側に入り込んでいて、それぞれ環状7号線(環7)、環状6号線(明治通り)付近に配置されていました。環状線が外側に膨らんだのは、環状7号線や環状6号線の沿道も市街化が進み費用や環境面の問題が大きかったようです。


■ 関越道のお迎えは?・・・・・・・・・・・
 

[ 関越道(2012年):新座市内]
   ところで、関越道につながる首都高はどうなったのでしょうか?。関越道は、1963(S38)年7月20日の関越自動車道建設法で、起点を東京都、終点を新潟市とし、主たる経過地を川越市附近及び前橋市附近とする路線を基準とすると決められていました。また関越道の練馬IC~川越IC間は1971(S46)年12月に開通しており、東名道よりは遅かったものの中央道、東北道、常磐道に比べ外環道付近までの完成は早かったのですが、受ける側の首都高は都市計画決定さえされていません。
 東京都市計画高速道路特別調査委員会の提案では10号線が関越道を迎えに行くはずでした。しかし外環道が開通すれば関越道からの交通を4号新宿線や5号渋谷線で都心に導くことができるので、外環道や中央環状線の整備が優先され、残された放射状道路の計画は見捨てられた感があります。
 

[ 5号池袋線早稲田出口(2005年):10号線の一部? ]

   関越道は新潟県長岡市出身の某総理大臣のために造られたという”都市伝説”がまことしやかに語られてますが、伝説が事実であれば首都高10号線が建設され長岡市まで首都高と関越道で行けるようになっていたはずです。
 10号線の不幸は、5号池袋線に合流しないと都心環状線に向かえない点です。10号線との合流予定地付近、東京カテドラルが見えるあたりは、2010(H22)年の調査によると1日に9.5万台もの車が走っています。国道17号新大宮バイパスからの交通で混雑が著しい5号池袋線は、10号線の交通まで負担するのは無理と考えられたのでしょうか。
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 [ 目白御殿(2013年):今は静か ]

   10号線も内環状線も家屋の建て込んだ区部を通る道路であり、新たに用地買収して高速道路を建設することはもってのほかです。さらに外堀や神田川の上に首都高を通すことも、日本橋上空の首都高を何とかしようというご時世にあっては、時代の流れ逆行することになります。地下に造るとしても、地下鉄や下水道、ビルなどに影響を及ぼさないような深い位置に築造するには膨大な費用がかかるうえ、既存の首都高との接続も難しそうです。
 2006(H18)年9月の首都圏整備計画は、首都高練馬線(10号線のこと)と首都高内環状線が調査を推進する区間として記載されていましたが、2016(H28)年3月の首都圏整備計画にはどちらの路線も記述されていません。
 

[ 小菅JCT(2013年):中央環状線と6号三郷線の接続部 ]


 


 おまけ   [ 渋谷コンコンブル ]
 渋谷駅東側の宮益坂からちょっと入ったところにある小さなビストロ。石積み風の壁に小さな入り口。知らないと入るのを躊躇していまいますが、ワンプレートランチが1000円から食べられるお店です。お客さんは女性が多いのですが、結構ボリュームがあります。ランチタイムは12時すぎになるとほぼ外で待つことになるほどです。

 
<参考資料>
○首都高速道路公団三十年史 (首都高速道路公団 1989.6)
○首都高速道路公団三十年史 資料・年表 (首都高速道路公団 1989.6)
○事業レポート2015 (首都高速道路株式会社 2015.5)
○首都高ドライブMAP 2015春 ((一財)首都高速道路厚生会)
○首都高速道路に関する計画 (昭和28年4月28日 首都建設委員会公告第12号)
○首都圏整備計画の基本計画及び整備計画「既成市街地における都市高速道路整備計画」
(昭和33年7月4日 首都圏整備委員会告示第2号)
○首都圏整備計画 平成18年9月 国土交通省
○首都圏整備計画 平成28年3月 国土交通省
○土木学会誌 第45巻第8号「東京都市計画都市高速道路計画の計画諸要素について」
(山田正男・鈴木信太郎 土木学会 1960.8)
○土木学会誌 第48巻第1号「東京オリンピック道路-その経過、路線の決定と建設概況-」
(竹ヶ原輔之夫 土木学会 1963.8)
○日本が世界銀行からの貸出を受けた31プロジェクト「東京オリンピック成功に貢献した首都高速計画」
(世界銀行ホームページ http://worldbank.or.jp/31project/shutokou/index.html#.V6qp8reCjDc)
○第15回国会 参議院建設委員会会議録第15号 (1953.2.26 参議院)
○災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月 1923 関東大震災【第3編】
(内閣府 防災情報のページ http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923-kantoDAISHINSAI_3/index.html)