[ 日本橋 東京駅(2025 02 05)]
日本橋を南下し日本橋交差点を右折して東海道と別れ、呉服橋交差点を経て東京駅の自由通路で丸ノ内側に出ます。
平日の早朝は会社に向かう勤め人が速足で歩いているのと対照的に、のんびりとレンガ造りの東京駅を眺めることができます。建設当時の1,2階と復元した3階のレンガの違いや案内版の解説にもゆったりと目を向けられます。近くで見るレンガの色、質感の違いに東京駅の歴史が感じられます。
[ 日本橋 日比谷濠(2025 02 05)]
甲州街道は和田倉門から堀に沿って皇居の南側をほぼ半周するように半蔵門まで歩くことに。
昭和初期に建てられた明治安田生命や第一生命の建物の周りに高層ビルが整然と立ち並び、丸ノ内のオフィス街らしい風景が続きます。敷地が大きくビルの規模が大きいので、高層化されても落ち着いた感じがします。
都道はイチョウがデザインされた濃緑色のフェンスが目立ちますが、お濠沿いの歩道にある柵はとてもシンプルな意匠で、遠くから見ると柵があるように感じません。皇居外苑を管理している環境省が景観を配慮してこのような柵にしたのでしょうか。
[ 日本橋 桜田濠(2025 02 05)]
日比谷公園を過ぎると、官庁街が始まり遠目に国会議事堂も見えてきます。
左手のビル群とは対照的に右手には皇居を囲む石垣があり、桜田門を過ぎると緑に恵まれた斜面が続き、都心に居ることを忘れさせます。
半蔵門は警察がしっかり守り立ち入り禁止なので遠くから見ることしかできません。
ここで左折し麹町に入り、新宿御苑まで国道20号になっている甲州街道を進みます。
[ 新宿 四谷大木戸跡(2025 02 05)]
麹町、四谷、新宿は丸ノ内に比べると建坪の小さなビルが増え、庶民的な雰囲気になります。
町名が四谷から新宿になる四谷4丁目交差点から新宿通りを進み、伊勢丹新宿店が鎮座する交差点あたりまでが内藤新宿ですが、大都会の新宿に昔の宿場の面影は残っていません。
四谷大木戸の石碑がぽつんと立っているくらいで、ビルに挟まれた通りから昔の街道を想像するのは至難の業です。
[ 新宿 バスタ新宿(2025 02 05)]
甲州街道が山手線を越えるところに長距離バスターミナルの「バスタ新宿」があります。
鉄道に比べ安いためか、便利なのか分かりませんが、バスの待合室にいるのはほとんどが外国人で、英語と中国語のアナウンスもあり海外旅行気分が味わえます。長距離バスは終点さえ間違えなければ、途中駅で下車しなければならない鉄道よりも便利なのでしょう。
新宿パークタワーを過ぎると甲州街道に首都高速道路が覆い被さり、この先下高井戸まで首都高のために日陰になった街道が続きます。
[ 新宿 首都高(2025 02 05)]
街道を覆う鬱陶しい首都高ですが、中央環状線との交差部は高架が3層に重なり、きれいな曲線を見せています。
狭い交差点の中で高さもある入り組んだ構造なので、ペンキを塗り替えるだけでも大変な作業です。首都高羽田線などで大規模な老朽化対策工事が行われていますが、首都高は用地買収を減らすため幹線道路や河川の上空に造られたところが多く、どこで工事をするのも高い技術とお金が必要です。
[ 下高井戸 十号通り商店街(2025 02 05)]
高架下の面白みのない甲州街道ですが、街道の右に直交して六号通商店街や十号通り商店街があり、小さなお店が並び賑わっています。甲州街道とほぼ並行し京王線が走り、駅もこまめにあるので駅前商店街といった雰囲気があります。
”六号”や”十号”は、淀橋浄水場に流れる玉川上水に架かる橋が浄水場から数えて六番目、十番目だったことに由来するそうです。
[ 下高井戸 玉川上水跡(2025 02 05)]
明治大学泉キャンパスを過ぎると、玉川上水跡が緑地として残されています。せっかくの緑地ですが寒い季節の平日だったためか、散歩している人も少なく遊んでいる子供もいませんでした。
玉川上水跡はしばらくは甲州街道の隣にありますが、西に向かうにつれて街道から離れてしまい、甲州街道は両側のビルに挟まれ首都高の高架に蓋をされた空間になります。歴史ある街道ですが歩きたいと思える状態になっていないのが残念です。
[ 下高井戸 京王線高架(2025 02 05)]
この辺の甲州街道は国道20号になり、今では中央自動車道と首都高が大動脈の役割を担っています。
甲州街道と並行する京王線も一昔前は地上の線路を走っていましたが、今では地下に入ったり高架になったりと変わりつつあります。下高井戸宿の最寄り駅である桜上水駅は、笹塚駅~仙川駅間で鉄道高架の工事が進められているため、駅の近くに造られつつある鉄道の高架が見えます。
東京の変貌は恐ろしく早く進みます。
[ 上高井戸 一里塚跡(2025 02 24)]
下高井戸宿から2kmほどしか離れていませんが、首都高速道路の高架が玉川上水跡に沿って離れていくので、上法に空が広がり閉塞した空間から開放され歩く気分も変わります。
上空が開放された甲州街道は、1964(S39)年の東京オリンピックを記念して植えられたケヤキの並木が連続するようになります。すでに還暦を迎えている並木で、ケヤキの幹は太くなり枝も広く張り、根が歩道のアスファルトを押し上げているところもあります。葉が茂ると歩道に大きな木陰ができそうなので、日差しの強いころは有難い存在ですが、その分、落ち葉が多く大変かもしれません。
[ 上高井戸 ケヤキ並木(2025 02 24)]
環状八通りとの交差を過ぎると、甲州街道は国道20号から分かれ歩道のない道になります。
交通量が多くないので、路側を緑色のペイントがしてあるだけで十分なようです。
この道は街道がそのまま舗装されて現在に至ったような道で、ところどころ緩やかなカーブがあります。
人が歩き自然に造り出される道は、平坦な地形でもまっすぐにならないようです。
[ 上高井戸 キューピー(2025 02 24)]
仙川を渡り国道20号を進むと左手にキューピーの建物が見えます。建物の外側はキューピーマヨネーズの袋にデザインされている網目模様が取り囲んでいます。
この先甲州街道は国道20号と別れ、滝坂の旧道に入ります。
今では緩やかな勾配になっていますが、人の力と馬の力しかない昔は上り下りに難儀したそうです。滝坂の付近には大正時代まで商店が並び賑わいがあったようですが、今は静かな道になっています。
坂の途中にある内田平和堂という印刷屋さんが、手作りの「七十年前の滝坂」案内板を店先に掲示して昔の滝坂の様子を教えてくれます。
[ 上高井戸 滝坂(2025 02 24)]
滝坂を過ぎ国道20号を1.5kmほど進むと、また20号から別れ布田五ケ宿に入ります。
布田五ケ宿といっても本陣や脇本陣があったわけではなく、五つの集落が交代で宿場の仕事を担ってました。
調布駅近くのマンション、事務所、お店が並ぶにぎやかな沿道に、一里塚跡の石碑が立体駐車場の隅にひっそりと立っていました。この一里塚には、樹齢200年と推定されるエノキの大樹がありましたが、危険なため1965(S40)年頃に伐採されました。
高度経済成長期にこのあたりの姿も大きく変わったようです。
[ 布田五ケ宿 一里塚跡(2025 02 24)]
中央自動車道の高架が見えてくると、「新選組 局長 近藤勇 生誕の地 上石原」と書かれたのぼりが掲げられるようになります。
近藤勇は布田五ケ宿のひとつである上石原村で生まれ、幕末の京都で新選組局長として幕府のため治安維持に働きましたが、その後官軍と戦うも破れ板橋で刑死。甲州での戦の前に休息で立ち寄った西光寺に、地元のヒーロー近藤勇の座像が置かれています。
近藤勇、土方歳三、沖田総司らが活躍した新選組は今でも人気があるようです。
[ 布田五ケ宿 近藤勇(2025 02 24)]
布田五ケ宿は調布駅前を中心に東西に広がっていましたが、駅前を過ぎ甲府方面に向かうと戸建て住宅の割合が増える感じがします。
街道沿いの戸建て住宅の中には、農家だったと思われる大きな住宅が目立ちます。住宅まわりの広い土地は持て余すのか、個別に開発されアパートが建てられたり分譲住宅になっています。高層や大規模なマンションは少なくそれなりに落ち着いた雰囲気になっています。
[ 布田五ケ宿 開発中(2025 02 24)]
調布には陸軍の飛行場があり、敗戦後はアメリカ軍に接収されていました。東京オリンピックに際しては、代々木にあった米軍住宅が移転し「関東村」と呼ばれ、国土地理院の地図にも「カントウ村」と表記されていました。
甲州街道から少し外れたところに陸軍の飛行場だったことを物語る施設が残っています。戦時中は、空襲から飛行機を守るための掩体壕が飛行場の周辺に数多く造られ、そのうちの一つを見ることができます。戦闘機1機がやっと入れる大きさで、見るからに粗悪なコンクリートで造られており、戦時中の貧弱な日本の国力を思い知らされます。
[ 布田五ケ宿 掩体壕(2025 02 24)]
<参考資料>