[ 鴻巣 県道鎌塚鴻巣線(2024 12 14)]
吹上を過ぎると旧・中山道は鎌塚鴻巣線という県道になり、歩道があったりなかったりの道になります。県道ですが、道路の線形は旧・中山道のまま舗装されたような道で、右に左に緩やかなカーブになっています。
吹上あたりから、鴻巣市や埼玉県による中山道の案内が目に付くようになります。まわりは農地と住宅が混在するどこにでもある風景なので、旧・中山道を歩いていることがわかる案内はありがたいものです。
鴻巣宿だった市街に近づくにつれ沿道の建物が増え、高崎線の踏切を渡ると鴻巣宿に入ります。鴻巣の街中は、地名の由来が書かれた町内会の区域を示す表示板がところどころにあり、一休みしつつ古を知ることができます。
[ 鴻巣 宿場の案内(2024 12 14)]
鴻巣宿の旧・中山道は両側に歩道のある道に整備され、商店街の街路灯が高い密度で設けられているのですが、それ以上に電柱と電線がやかましく感じます。幅16mの都市計画道路になっているので、拡げられる際には電線が地中化されるのでしょうか。
沿道には歴史を感じさせる建物はほとんどありませんが、宿場の南端ある市の観光施設「ひなの里」に明治期に建造された蔵がきれいに残されています。地元の伝統産業である雛人形の展示もあり、3月3日のひな祭りが近づくと駅前のショッピングセンターには巨大なひな壇に雛人形が飾られます。
[ 鴻巣宿(2024 12 14)]
鴻巣市は東京駅から高崎線で1時間かかりますが、駅に近いところでは大規模なマンションの建設が進み、風景が大きく変わりつつあります。
鴻巣駅の周辺は再開発が行われ、中山道沿いには鴻巣宿おおとり公園という新しい広場も造られましたが、冬の午後はマンションが日差しを遮るため寒々とし、公園に集う人は見かけませんでした。
[ 鴻巣 変わる鴻巣宿(2024 12 14)]
鴻巣宿を通りさらに東京方面へ進むと北本市に入ります。北本市は「北本」となった面白い経緯が市のホームページありました。
『明治22年まで市域が14の村に分かれていたころの村名の一つに、「本宿村」がありました。ところが、同じ北足立郡のなかに本宿村という村名が2カ所(現在の北本市とさいたま市)あり、不都合なので、北にある本宿村を「北本宿村」とすることになりました。
この「北本宿」が、昭和3年に開設された駅の名前として使われることになりました。さらに、昭和18年に石戸村と中丸村が合併したときの村名は、この駅名からとられました。その後、昭和34年に町制を施行するときに、「北本宿町」では『語呂が長く呼びにくいので、宿をなくして北本町にした』といわれています。
こうして、現在の「北本」という地名ができました。北本という呼び名は昔からのものではなく、比較的新しい地名です。
[ 鴻巣 北本駅前の中仙道(2024 12 14)]
そもそもの「本宿」は、1602年の江戸幕府による宿駅整備によって宿場が北本から鴻巣に移転し、その名残として生まれたそうです。北本から次の熊谷宿までは、鴻巣からより約5km長くなり20kmを超える距離になるので、宿場間の距離を配慮し移されたのでしょう。
[ 桶川 本宿の案内板(2025 01 11)]
北本駅前を過ぎしばらく行くと、宿場が北本から鴻巣に移転しその名残として生まれた本宿付近に、北本の歴史を案内する掲示があります。そこには大正11年の中山道を写した写真があり、昭和の初期になっても街道の両側に松並木があったと書かれています。さすがに現在は松並木は残っていません。
桶川宿にかけての沿道は、ところどころに兼業農家と思われる比較的敷地の大きな住宅があります。高度経済成長の前は畑や田んぼが広がる風景が見られたのでしょう。
[ 桶川 府川本陣(2025 01 11)]
桶川宿は江戸時代末期に建てられた旅籠や明治期の蔵造り建物が僅かですが残されています。
府川本陣跡は埼玉県内で唯一残されている本陣の遺構だそうですが、遺構は街道から見えず、公開日でないと見学することはできません。
小林家は江戸時代の後期に旅籠として建てられた建物で、その後は材木商の店舗となり、今は一部がカフェとして使われていました。街道を挟んで反対側に建つ矢部家は明治期の重厚な蔵造りで、江戸時代の小林家とは対象的な建物です。
[ 桶川 小林家建物(2025 01 11)]
桶川駅入口交差点付近は道路の拡幅が進めれているので、小林家や矢部家の前の道もいずれは拡幅されそうです。歴史のある建物は取り壊すことなく曳家して残して欲しいものです。
駅入口交差点の南側には1852年に建てられた武村旅館がありますが現在は休業のようです。江戸時代に旅籠として始まり、最近まで旅館として続いていた長寿のお宿なので、ぜひ再開していただきたいものです。
[ 桶川 武村旅館(2025 01 11)]
この付近の中山道は緩やかな曲線が入っていて、昔の街道がそのまま少しづつ広がったようです。
[ 上尾 上尾駅前(2025 01 11)]
上尾宿だったところは古い建物がまったく残されていません。東京に近づくにつれて街道沿いの建物は建替えが頻繁に行われ大きく姿を変えているようです。上尾駅前は再開発によりデパートや高層マンションが建ち、それなりの都市の構えになっています。
本陣があったところもビルが建ち並び、案内板が無ければ通り過ぎてしまいます。
[ 上尾 本陣付近(2025 01 11)]
本陣跡を過ぎ、しばらくは店舗や住宅などの小ぶりな建物が続きますが、上尾陸橋交差点を過ぎると突然大規模な物流倉庫が現れたかと思うと、反対側にはイオンモールが見えてきます。
物流倉庫は翌日配送を社名に取り入れた会社がテナントで入っています。イオンモールは地上と屋上に広い駐車場を備えています。
この辺の中山道は、狭いながら歩道はありますが交差点には満足な右折帯が造れない昔からの2車線の道路ですが、人が歩く道ではなく車が優先して走る道になっています。
[ 上尾 物流倉庫(2025 01 11)]
「BA・BAR オバチャンホンポ」という面白いスナックの看板が道路沿いに出ていました。名前から察するに、ユーモアのある御高齢の女性が仕切っているお店と思われますが、どんなお店なのでしょうか。
[ 上尾 BA・BAR(2025 01 11)]
[ 大宮 大宮競馬場跡(2025 01 11)]
国道17号を渡り新幹線高架をくぐると、建物が途切れることなく続きお店や事務所が増えてきます。
左手に富士重工の工場跡地を開発したステラタウンという一帯があり、その一角にあるさいたま市北区役所の入口近くに「大宮競馬場建設記念碑」と書かれた石碑が鎮座しています。この地に昭和9年3月、面積82,900坪の競馬場が竣工しましたが、その後、戦時体制に突入し富士重工の前身である中島飛行機製作所の工場を建設するため競馬場は廃止されました。最盛期は羽田競馬場、川崎競馬場とともに全国三大競馬場と言われてそうですが、戦争遂行のため竣工から数年で姿を消した競馬場です。
[ 大宮 氷川神社参道(2025 01 11)]
ステラタウンを過ぎ東北線のガードを潜った先に「官幣大社氷川神社是へ」の石柱が立っています。氷川神社参道への入口で、江戸時代初期の中山道はこの参道を通っていました。参拝以外で神社の神域を通過するのは不敬である、遠回りになる、などの理由で地元民が訴え、原野を切り開いて新たな中山道が設けられました。
中山道は大宮駅前に向けて進むにつれ沿道はビルが密集するようになり、高島屋がある駅前交差点は多くの人が信号待ちをしています。街道が拡幅されたり建物の建替えが進み、宿場を感じられる建物は全く残っていませんが、いまだに拡幅に応じない木造の建物が残っていました。住んでいる人もいないので所有者不明の建物のようです。
[ 大宮 所有者不明?(2025 01 11)]
中山道を歩いていると「塩地蔵尊」の案内があったり「火の玉不動とお女郎地蔵」が歩道に残されていたりと、車で走っていては知り得ない中山道の姿に触れることができます。石仏や石碑は道路の外に移転されることが多いようですが、「火の玉不動とお女郎地蔵」は歩道のほぼ半分を占めて残されています。哀れな女郎を思って残されたのでしょうか?
[ 大宮 火の玉不動とお女郎地蔵(2025 01 11)]
[ 浦和 マンションがいっぱい(2025 01 11)]
浦和の市街地に入ると事務所や店舗よりもマンションが多いように感じます。
さいたま市が誕生する前の旧・浦和市は文教都市といわれ、近年は鉄道の利便性も向上したので住宅を求める人の人気が高まっているようです。さいたま市となっても旧・大宮市は商業・業務、旧・浦和市は文教・官庁のすみ分けがいまだに残っているのでしょうか(浦和は県庁所在地ですが、それらしい風格ののある街並みとは言い難い感じです。)。
中山道の宿場だったことを示す案内版や石碑がありますが、街並みは現代的な建物がほとんどで、歩道を設けるために買収が進むと残っていた木造の建物もいずれは建替えの運命です。
[ 鵜浦和 調宮神社(2025 01 11)]
沿道は建物で埋まっていますが浦和駅前を過ぎると、左手に調宮神社があり大木の大きな緑が見えてきます。狛犬の代わりに狛兎が出迎えてくれる神社です。
この辺から中山道は昔の幅で舗装されただけの左右にくねくね曲がる道になり、しばらく行くと焼米坂という大宮台地から下る坂道になります。中山道を通る旅人に焼米を売る茶屋があったことに由来する坂道で、ここの地下はJR武蔵野線のトンネルが通っています。
[ 浦和 焼米坂(2025 01 11)]
焼米坂を下り少し進むと旧・中山道は国道17号を横断し、左右に曲がる昔ながらの線形で住宅地の中を通り、やがて防音壁で囲まれた東京外環道の高架が見えてきます。
外環道の脇に「一里塚の跡」と刻まれた石碑があります。江戸から5番目の一里塚がこのあたりにあったようですが、石碑が無ければ中仙道だったとは思えません。
[ 浦和 一里塚の跡(2025 01 11)]
<参考資料>