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12倉賀野宿~08熊谷宿

[ 2024/09/23~ ]

■12倉賀野宿(群馬県高崎市)



[ 倉賀野 松並木(2024 09 23) ]


高崎宿から倉賀野宿への旧・中山道沿いは昭和になっても並木が残っていたそうで、その並木を再生しようと新たに500mほど松が植えられたところあがあります。歩行者に木陰を提供するには まだまだ小さな松ですが、並木が成長すれば日傘をささずに歩けそうなので、将来が楽しみです。
日本の夏は温暖化の影響で厳しさが増す一方なので、歩道には直射日光を遮る木陰がもっと欲しいものです(管理は大変でしょうが)。



[ 倉賀野 脇本陣(2024 09 23)]


倉賀野宿の脇本陣跡は、明治期に再建された旅籠風の建物があり、わずかながらですが昔の面影が感じられます。 そのほかの建物は今風の建物で、宿場だったことを意識していないと歩いて通り過ぎてしまいそうです。
旧街道を歩くというよりは、旧国道を歩くといった感じです。



[ 倉賀野 例幣使街道分岐(2024 09 23)]


倉賀野には中山道と日光例幣使街道の分岐点があります。日光例幣使街道は、江戸時代に朝廷が家康を祀る日光へ捧げ物を運ぶための道で、朝廷にとっては屈辱的な道でもあります。倉賀野宿の東端に分岐があり常夜灯も置かれていました。栃木県日光市内には日光例幣使街道の杉並木が残っていて、日光街道の杉並木とともにギネスブックに掲載される長さがあるそうです。残念ながらこの辺には並木は残っていません。
現在の倉賀野宿周辺は大きな工業団地があり、ラスクで名を馳せたガトーフェスタ ハラダの高崎工場が旧・中山道を歩いていても見えます。関越道、上信越道、北関東道などの高速道路が結束するところなので、自動車交通の便は良いところです。



■11新町宿(群馬県高崎市)



[ 新町 烏川の柳瀬の渡し(2024 09 23)]


新町宿は烏川と神流川に囲まれたところにあります。新町は高崎市と合併したため藤岡市を挟んで高崎市の飛地になっています。
江戸時代はじめの中山道は倉賀野宿から玉村を経由して本庄宿へ向かうルートでしたが、加賀前田藩が現在のルートを開拓したため新町宿が誕生しました。中山道で最も新しくできた宿場です。古いルートは烏川を渡るだけでしたが、新しいルートは烏川と神流川を渡ることになります。渡河が多くなってもメリットがあったのでしょうか?



[ 新町 ハラダ本社工場(2024 11 13) ]


新町宿の旧・中山道は、国道17号だった時代にきれいに整備され往時の建物は残っていません。
今日、新町で有名なところといえば、ガトーフェスタ ハラダの本社工場ではないでしょうか。旧・中山道が国道17号と合流するところに白亜の本社工場が鎮座しています。工場だけでなくお店もあります。 フランスパンを焼いたお菓子で、こんな大きな建物が建つくらい儲かるのかと感心してしまいます。



[ 新町 新・神流川橋(2024 11 13) ]


新町宿を過ぎると神流川を渡り埼玉県に入りますが、神国道17号では新しい橋が架けられています。2024年11月に歩いたときは先代の橋も見ることができましたが、通行止めになり取り壊される工事を待っています。
神流川は幅の広い川ですが水量が少なく、橋が無くても何とか渡れそうな川に思えます。河原には木が生い茂り自然豊かな雑木林の様相ですが、大雨が降ると川幅いっぱいに水が流れるようなので、河原の樹木は障害物でしかありません。


■10本庄宿(埼玉県本庄市)



[ 本庄 賀美村道路元標(2024 11 13) ]


神流川を渡り埼玉県に入り、1kmも行かないうちに左手に上里町立賀美小学校があります。特に変わった小学校ではありませんが、校内に建っている道路元標が道路から見えます。
賀美村は合併で上里町になり、中仙道を挟んで小学校の反対側にあった旧・賀美村役場は、今は公民館になっています。そこに道路元標が置いてあるほうが自然だと思いますが、何か問題があったのでしょうか。
群馬県内では歩道の隅っこに道路元標が置かれているのをよく見かけました。



[ 本庄 中山道の宿場名(2024 11 13) ]


埼玉県に入ると中山道を示す案内はほとんどありません。
本庄宿の手前にある金鑚神社近くの歩道に、突然、中山道の宿場名をはめ込んだ歩道に出くわしました。中山道の宿場は東海道に比べると知名度が低いので、興味のない人には意味不明の歩道かもしれません。
金鑚神社を過ぎると本庄宿なのですが、沿道は閉まっている店が多く寂しい限りです。江戸末期、1843年の中仙道宿村大概帳によると本庄宿は家数1212軒、本陣2、脇本陣2、旅籠70軒、人口4554人と中山道で最も大きな宿場だったそうですが、全くその面影はありません。



[ 本庄宿(2024 11 13) ]


本庄は明治に入っても生糸、繭の集積地として賑わっていました。一時は中仙道の南にある通りが「親不孝通り」と言われるほどの賑わいを見せていた時期もあったそうですが、最近は人口が減少し、かつての繁華街はゴーストタウンのようになってしまいました。
さらに2004(H16)年に高崎線本庄駅の南側に、上越新幹線の本庄早稲田駅が開業し、新たな市街地が誕生したことも中山道沿いの凋落に拍車をかけているようです。



[ 本庄 三交通り(2024 11 13) ]


本庄市は新幹線の駅が新設され国道17号バイパスの整備も進んでいますが、これらがストローのように人々、特に若者を吸い出しているようです。地に根を下ろした産業がない現在では人口の流出は止まらず、お年寄りだけの町になってしまいそうです。


■09深谷宿(埼玉県深谷市)



[ 深谷 滝岡橋(20241 11 13) ]


本庄宿から深谷宿へ向かう途中で、利根川の支流の一つである小山川を渡ります。江戸時代は徒歩で川を渡ってましたが、現在では1931(S8)年に架けられた滝岡橋を渡ります。滝岡橋は花崗岩でできた大きな親柱が特徴的で、緑が多い田園地帯の中ですが赤い橋桁は映える存在です。
橋を渡り17号深谷バイパスを横断すると段丘を上る坂道になり、平地が多いこのあたりの中山道にあって唯一昔の街道らしい雰囲気が残っているところです。また、ところどころにこの地域名産の深谷ネギの畑があり、丁寧に育てられている畑を見ることができます。



[ 深谷 京都側の常夜灯(2024 11 13) ]


深谷宿の本庄宿寄りは桝形が残っていて、1840年に造られた大きな常夜灯があります。常夜灯の高さは4mあり中仙道では最大級の大きさだそうです。
このあたりに来ると、レンガで造られた造り酒屋の煙突が見えます。深谷産のレンガは東京駅にも使われたことで知られていますが、中山道沿いある3軒の造り酒屋の煙突はどれもレンガで造られています。
深谷宿の中ほど、駅に近いところでは区画整理が行われ、中山道が拡幅されつつあります。滝沢酒造は区画整理区域から外れているので、当分はこの姿で残りそうですが、すでに建物を建て替えた造り酒屋もあります。藤橋藤三郎商店は建物だけ建替えられましたが、レンガの煙突は道路拡幅に当たらず生き残ることができました。



[ 深谷 滝沢酒造(2024 11 1) ]



[ 深谷 藤橋藤三郎商店 (2024 11 13) ]


街道沿いにレンガを使った面白い建物があります。妻側の壁とうだつがレンガで造られた木造の町家ですが、中山道の拡幅に当たっています。すでに隣は移転して空地になって、いずれは移転しなければならない運命のようです。
このままの形態で曳屋ができればいいのですが、レンガ造りの建物の曳家は難しそうです。レンガの生産地0*0だったかつての深谷を象徴するような建物ですが、区画整理事業が進むと風前の灯です。
深谷宿では残されてきた個性的な街並みが、都市整備の名のもとに壊されていくようです。



[ 深谷 レンガのうだつ(2024 11 13) ]


■08熊谷宿(埼玉県熊谷市)



[ 熊谷 「従是南忍領」の碑(2024 12 14) ]


深谷宿から熊谷宿への中山道は、大部分が国道17号や県道になっているので、昔の面影が残っているところはほとんどありません。
それでも国道や県道にならなかったところに、ひっそりと一里塚が残されていたり、幕府の直轄領と忍藩の境を示す石碑があったりで、歩いていると江戸時代をちょっと感じさせるものを目にすることができます。
中山道を案内する表示はほとんどないので、街道を外れないように。



[ 熊谷 八木橋デパート前(2024 12 14) ]


熊谷宿は第二次大戦で空襲を受け、戦後の戦災復興事業で大きく姿を変えています。札ノ辻や本陣があったところは、戦災復興によってほぼ直線で4車線の国道17号になり、沿道に並ぶ建物も戦後の建物です。ところどころに小さな碑がありますが、中山道の宿場だったとは思えない風景です。
旧・中山道の上に建つ八木橋デパートの店舗前には、罪滅ぼしのように「旧中山道跡」と刻まれた大きな碑があります。
熊谷宿の江戸寄りで旧・中山道は南に向かってほぼ直角に曲がり、しばらくすると元荒川を渡ります。元荒川は江戸時代の初期に付け替えられた荒川の昔の流れで、ムサシトミヨという絶滅危惧種が世界で唯一生息する川です。ムサシトミヨはきれいで冷たい湧き水があり、水草が茂る細い川に生息するそうですが、今の元荒川は隣接して家屋が立っているので、ムサシトミヨが生きていくのは大変そうです。



[ 熊谷 元荒川最上流(2024 12 14) ]


しばらくすると旧・中山道は荒川の堤防に一度上りますが、すぐに下りて久下の集落に入ります。
昔は久下に対岸との渡船がありましたが、1955(S30)年になって久下橋が架けられました。この橋は大水になると川に水没する幅2.7mしかない冠水橋で、旧・中山道から堤防を越え普段水が流れている部分だけ橋で渡っていました。
2003(H15)年に冠水橋の下流にコンクリート製の新たな久下橋が架けられ、旧・中山道の上空を横断するようになりました。新しい久下橋は荒川の堤防と同じ高さなので、堤防が人家より格段に高いことがわかります。



[ 熊谷 久下橋(2024 12 14) ]


久下の集落を抜けると吹上まで荒川の堤防の上を歩くことになります。
江戸時代の堤防はもっと低いものでしたが、その後の大雨やカスリン台風での決壊を受け高く広い堤防に成長しています。荒川の堤防上を中山道としていたのは、年間を通して安定的に通行できる道だったからでしょう。
高い荒川の堤防上からは、富士山、榛名山、赤城山、男体山、筑波山といった山々がよく見え、中山道を歩いていた人が見た風景を今でも見ることができます。
荒川の堤防を下りると間の宿だった吹上に入ります。吹上では1825年文政8年創業の衣料品店が2023年末で休業したはり紙を見ました。100年の時間流れと人の流れの移り変わりを見るようです。



[ 熊谷 荒川(2024 12 14) ]





<参考資料>