[ 坂本 林道との分岐(2024 06 02) ]
旧・碓井峠から坂本宿への道は、一部林道になっているところもありますが、多くは登山道のような道を歩きます。
旧・中山道であったことを示す案内板がほとんどなく、旧・松井田町観光協会が立てた史跡説明の案内板を見て、間違ったルートでないことが確認できる程度です。旧・松井田町は2006年に安中市と合併しているので、観光協会の案内板は20年以上前のものです。
踏み跡がしっかりしているので分岐点以外で迷うことはないと思いますが、旧・中山道を歩いているのか、それ以外の山道を歩いているのか、安心できる情報が欲しかったです。
[ 坂本 案内板と熊はぎ跡(2024 06 02) ]
案内板には明治期にはこの地に小学校があったと説明されていますが、まわりの木立の中に樹皮を剝がされた木があります。こんな山の中に小学校があったことに驚かされましたが、あとで調べてみると木の皮が剥がされていたのは、「クマ剥ぎ」と言われる熊が樹木の形成層部分を食べた跡だそうで、さらに驚かされました。
”熊”注意の看板は、旧・中山道が山間部を通るところでは何度か見かけましたが、碓氷峠周辺ではほとんど見かけませんでした。「クマ剥ぎ」の木に「クマ出没の証拠・クマ注意」のような警告を付ければ効果的かもしれません。
碓氷峠は暖かくなるとヒルが出ると言われましたが、案の定、左手首に食いついていたヒルを無意識のうちに潰したようです。血が止まらず上着のいたるところに血痕をつけてしまいました。
熊に遭遇しなかったのは幸いでしたが、ヒルには血を吸われてしまいました。
[ 坂本 旅籠つたや(2024 06 02) ]
坂本宿の旧・中山道は両側に歩道のある国道18号になり、往時は中央を流れていた水路が、西側の歩道寄りに再現されています。
沿道にいくつかの古い建物があり、その中の一つに「つたや」という旅籠だった建物が残っています。
旅籠「つたや」の説明板によると、峠を越える鉄道(旧・信越本線)の開通により宿泊者が減り坂本宿は廃れ、1908(M41)年に旅籠は「つたや」だけでした。
坂本宿の南側では上信越道が上空を横断しています。
[ 坂本 アプト式(2024 06 02) ]
旧・信越本線が碓氷峠を越える区間には66.7パーミルという急勾配があり、開業当時の機関車では上れないため、のこぎり状のレールに機関車の歯車を噛み合わせてのぼる「アプト式」を採り入れ、1893(M26)年に開業しました。この区間の開通により、日本列島を横断し太平洋側と日本海側を結ぶ鉄道が全通しました。
1911(M45)年には蒸気機関車の煤煙対策と輸送力強化のため、電気機関車への転換が始められました。
その後、機関車の改良が進み一部の区間で新線が造られると、アプト式による運行は1963(S38)年に廃止されました。さらに、1997(H9)年10月1日に北陸新幹線が開通すると、信越本線の横川駅~篠ノ井駅間は廃止され、軽井沢駅~篠ノ井駅はしなの鉄道として運行されていますが、横川駅~軽井沢駅間は前日の9月30日で鉄路が廃止されました。
今では信越本線開業時の線路跡が「アプトの道」と言われるハイキングコースになり、レンガの眼鏡橋やトンネル内を歩くことができます。
[ 坂本 アブト式レールの再利用(2024 06 02) ]
峠の釜めしで有名なおぎのやの横川本店前には、道路を横断する水路にアプト式のレールを再利用して造られた蓋がかかっています。
アブト式のレールを見たことが無ければ、まず気付くとこはないと思いますが、これも「アプトの道」です。
[ 松井田 アプトレール(2024 06 26) ]
横川から松井田へ進むにつれ、右手に見えるギザギザした山の端が特徴的な妙義山が、少しづつ見え方を変えていきます。尾根に岩が直立しているところはノコギリの歯のような鋭さがあり、どのような大きさ・形の岩が立っているのか、近くで見たい欲求が高まります。
旧・中山道は国道18号になったり、ほぼ昔のままの道が舗装されただけのところもありますが、高齢者マークの車がごく普通に通れる道になっています。多少の上り下りはありますが、碓氷峠に比べれば格段に歩きやすい道です。
旧道が信越本線を渡る踏切に、アプトのレールを再利用した水路の蓋を見つけました。ここのアプトレールは機関車の歯車がかみ合う部分が大きく変形し溝が広くなっているので、勾配のキツイところで使われ、レールに大きな負担がかかっていたようです。
[ 松井田 五料の茶屋本陣(2024 06 26) ]
旧・中山道はほぼ信越本線、碓氷川と並行していて、碓氷川を見下ろすと茶色い鹿が歩いているのが見えました。野生の動物が緑の多い川を伝って、人口密度の高い地域でも姿を現すとこが多いようですが、ここでも河川敷の緑が、動物の移動経路になっているようです。
横川宿と松井田宿のほぼ中間に、五料の茶屋本陣という江戸時代後期に建てられた2棟の休息所が残され、見学できるようになっています。柱や梁に使われている木材は長く太く、今日同じ建物を建てようとすると、材料探しが大変そうです。お西といわれる建物の二階には、江戸時代から昭和にかけての様々な展示物を見ることができます。
その中にあった碓氷峠に汽車が走る前に営業していた馬車鉄道の写真をみると、碓氷峠のような急な山でもほとんどはげ山に近い状態でした。石油・石炭が燃料の主流になる前は、材木が建築材料や燃料として使われたので、今日よりも木材の需要が高く伐採が進んでいたようです。
歌川広重の東海道五十三次を見ていると、山に描かれている樹木が少ないように感じますが、本当に少なかったのかもしれません。
[ 松井田 松井田の街(2024 06 26) ]
松井田宿を東西に貫く旧・中山道は、国道18号だった時代に拡幅されているので、往時の建物は残っていません。沿道は営業しているお店も半分ほどあるようでしたが、都市の商店街というには寂しいものがあります。それでも関東地方に入った感じがします。
商店会の街路灯に、中山道の宿場町だった頃の小さな案内版がついていますが、気が付く人は少ないのではないでしょうか。
[ 松井田 磯部温泉の幟(2024 06 26) ]
松井田宿を過ぎて、磯部温泉で休憩です。磯部温泉は旧・中山道から碓井川を渡り1㎞ほど南にあり、信越本線の磯部駅から歩いても行けます。大きな有名旅館の周りに小規模な旅館が点在する小さな温泉街で、外国人観光客も訪れる箱根や草津に比べるとひっそりとした温泉街です。
磯部温泉は1661年に江戸幕府が出した文書の付図に、温泉を示すために二つの「♨」印があったので、温泉マーク発祥の地となったそうです。
旅館では日帰り入浴を受け入れていないので、市が営業している「恵みの湯」で汗を流すことに。
磯部温泉を流れる碓井川は、鮎を採る簗があったそうですが2019年の台風19号以降は簗は設けられてませんが、鮎を料理するお店は営業してました。
[ 松井田 磯部温泉で鮎(2024 06 26) ]
[ 安中 道路元標と旧・中山道(2024 06 26) ]
安中宿への旧・中山道は、昔の道幅のまま、両側にコンクリートの側溝を設けて舗装しただけといった感じで、車の速度を抑制するためところどころにポールがおかれています。多くの車は国道18号を使うので旧道を通るのは地元ナンバーの乗用車がほとんどですが、慣れているのか結構なスピードで歩いている真横を通過していきます。
安中市原市には、旧・原市町の道路元標が交差点の一角に残されていました。隣の旧・松井田町も道路元標が残されていたので、群馬県は道路法に道路の附属物として規定されているものの、必要性のなくなった道路元標を大事に扱っているようです。
[ 安中 杉並木(2024 06 26) ]
旧・原市町の道路元標を過ぎしばらく進むと、安中原市の杉並木が見えてきます。杉並木の高さがあるのでかなり手前から並木の存在がわかります。樹木の本数は少ないのですが、直径が1mはある大木が残っているので壮観な眺めです。群馬県民ならだれもが知っている「上毛かるた」の「な 中山道しのぶ安中杉並木」として登場しています。
1884年には732本、1932年には321本の杉並木でしたが、現在では13本しか残っていません。前橋市の臨江閣別館の建築資材などとして伐採されたとのことです。
旧・中山道をさらに東へ進み国道18号を横断し、安中総合学園を過ぎ安中消防署の前に来ると、昭和9年に建てられた花崗岩の石柱があり「天然記念物安中原市ノ杉並木」と彫られています。昔はこのあたりまで杉並木があったようですが、現在は低木の植樹帯はありますが杉並木は皆無です。
[ 安中 武家長屋(2024 06 26) ]
安中は城下町でもあったため、武家長屋や奉行役宅が復元・修復され見ることができます。武家長屋は中流武士の住まいですが、二間に便所と小さなお勝手があるだけの狭いものです。奉行役宅はそれなりに広く客間もついていました。
城下町といっても天守がある城はなかったのですが、安中藩は江戸末期の藩主板倉勝明が武士の鍛錬のために、安中から碓氷峠の熊野権現までを競争させたことで、日本マラソン発祥の地と言われています。碓氷峠の旧・中山道では「安政遠足」と書かれた立札を見かけましたが、これは「あんせい
とおあし」と読み、往時のコースを示していたようです。
また、同志社大学を創立した新島襄が安中藩士の子として生まれ育ったこともあり、武家長屋や奉行役宅と同じ通りに大谷石で造られ1919年に完成した安中教会新島襄記念会堂があります。
[ 安中 新島襄記念堂(2024 06 26) ]
安中の街中は、城下町だったことや新島襄という歴史上の有名人にゆかりのある建物が安中市の観光名所としてクローズアップされていますが、安中宿は旧・中山道の宿場町としての面影が薄いため、観光の面ではあまり力が入っていないようです。
信越本線の安中駅が近くなると、駅南側の斜面に大きな工場が見えてきます。現在の安中を象徴する東邦亜鉛安中精錬所です。
[ 安中 東邦亜鉛(2024 06 26) ]
[ 妙義山(2024 09 23)]
安中宿から板鼻宿へ向かう途中に碓氷川を渡りますが、旧・中山道の位置に架けられていた橋は橋台を残すのみで、旧・国道18号の橋を渡ります。橋の上で振り返ると荒船山をはじめとする妙義山がきれいに見えます。
板鼻宿の中心部は道が少し広くなり、歩道はないものの交通量が少ないので安心して歩けます。街道沿いに往時の建物はなく、本陣があった場所は公民館になっており、本陣跡を示す柱が建っているだけです。碓氷川の渡しが近くにあり江戸時代は旅籠の数も多くにぎわいがあったようですが、碓氷川には橋が架かり鉄道の駅もないため、現在は静かな町になっています。
[ 板鼻宿本陣跡(2024 09 23) ]
板鼻宿を出ると、旧・中山道は碓氷川と並行して左岸側を高崎宿へ進みますが、平成に入り国道18号は4車線に拡幅されたため、街道の面影は全くありません。
碓氷川の対岸には達磨で有名な少林山達磨寺があるので、この付近には「高崎だるま」を製造販売しているお店がぽつぽつとあります。その中でも大門屋は作業場も売場も広く、多彩な達磨を見ることができます。掌に載る小さなだるまから大人一人では持てそうもない大なものまで勢ぞろいです。さらに昔ながらの色使いにとどまらず「白、黒、抹茶、あずき、コーヒー、柚子、桜♪」などさまざまな色の達磨が並んでいます。最近はインバウンドのお土産としても人気があるようです。
[ 大門屋(2024 09 23) ]
「高崎だるま」と表示できるのは、大小の製造所が50件ほどが加わる「群馬県達磨製造協同組合」の組合員のみだそうです。
国道18号が拡幅される以前、だるま市が開かれる時期は、18号が動かないほどの大渋滞を起こしていましたが、現在はどうなのでしょうか。
[ 17号と18号の分岐(2024 09 23)]
烏川を渡ると高崎市街に入ります。新潟方面へ向かう国道17号と長野方面へ向かう国道18号が分岐するところなので、一般道ではありますが高速道路並みのジャンクションになっています。
高崎宿は大名の宿泊場所である本陣、脇本陣はなかったそうです。城下町でもあったため、大名といえほかの大名の城下町での宿泊は堅苦しく敬遠されたのでしょうか。
[ 国道354号沿いの建物(2024 09 23) ]
旧・中山道は高崎城を迂回するように通っていますが、現在は拡幅されほとんどが4車線の広い道路になっているので、宿場町の雰囲気は全く残っていません。ただ、間口が狭く奥行きのある地割が残っているようで、地割に合わせた幅の狭い建物がところどころに見られます。
高崎城跡は市役所があり市庁舎の21階が展望室になって、市役所が休みでも見学できます。群馬県民が誇る妙義山、榛名山、赤城山の山並みが望めるいいところです。
[ 市役所からの眺める中山道(2024 09 23)]
高崎宿から倉賀野宿へ向けては、バイパスの効果なのか交通量が少ない国道17号の旧道をひたすら進みます。戦後4人もの総理大臣を輩出している群馬県だけあって、国道などの幹線は整備が進んでいるようです。
旧・中山道が国道にならなかったところも僅かですが残っています。幅2,3mほどのくねくねした道でほとんど人通りはありません。人が歩いて自然にできた道は、どんなに平らなところでも直線ではなくランダムな曲がりのある道になっています。
[ 旧17号と旧・中山道(2024 09 23)]
<参考資料>