[ 岩村田 商店街のビル(2024 06 01) ]
旧・中山道は岩村田宿に入る手前でJR小海線を渡り、200mほど先の相生交差点を北に向けて左折します。
北へ向かう道沿いは岩村田商店街になっていて、道路が拡幅された昭和40年代に両側の建物も一斉に建替えられたようで、旧・中山道の面影を残す建物は一切ありません。
相生交差点からその先の岩村田交差点まで約350mほどの区間は、両側に2,3階建てのビルが並び、特に東側はビルが城壁のように連続し、ビルが建てられた頃の勢いを感じさせます。
しかし建築から既に半世紀以上が経過し、デザインの古さは否めず老朽化も始まっているようで、外壁にひび割れが見られるところもあります。
[ 岩村田 佐久インター東交差点(2024 06 01) ]
岩村田宿は本陣や脇本陣がない商人の宿場町でしたが、現在では上信越道の佐久インター(1993年供用)周辺や北陸新幹線の佐久平駅(1997年開業)周辺が開発され、工場や物流施設に加え広い駐車場を備えたショッピングモールや飲食店が立地しているため、岩村田商店街は営業を止めた店舗もあり寂しくなる一方です。
佐久市では商業や業務が岩村田から動くことを見据え、商店街の東側にバイパスとして計画されていた都市計画道路荒宿上の城線を、平成30年度の都市計画見直しで廃止しています。
旧街道から高速道路、新幹線へ人の流れが変化し、都市計画もそれに対応して変化しているようです。
[ 岩村田 佐久平駅のケンシロウ(2024 06 01) ]
新しい市街地である佐久平駅の南、旧・中山道の沿いに、佐久市出身で「北斗の拳」の原作者である武論尊氏が、2024年に「さくまんが舎」を開設しました。佐久平駅周辺では「北斗の拳」に登場するキャラクターのマンホールが出迎えてくれます。
宿場町の名残が少ない岩村田宿ですが、江戸時代から残る数少ないものに、岩村宿北端にある住吉神社に樹齢400年と言われる欅の大木があります。それほど高さのある木ではありませんが、幹の太さは樹齢を感じさせるものがあります。ただ、幹は裏側にまわると火災による空洞があり黒い炭になっているところもあります。
[ 岩村田 住吉神社の欅(2024 06 01) ]
高速道路と新幹線で佐久平の風景は大きく変わりました。
[ 小田井 街道と水路(2024 06 01) ]
小田井宿は、大名の姫君など女性の宿として使われることが多かったので、姫の宿と呼ばれていました。
明治期に信越本線(現・しなの鉄道)が通ることに反対し、主要な道路も宿場からはずれたため往時の姿を色濃くとどめています。
旧・中山道は昭和の初めの工事によって、道の南側に水路が流れる形になっていますが、昔は道の中央に用水路が流れていたので、道路の形状のみならず沿道の風景も大きく変わっています。
宿場の両端にあった桝形も昭和の工事で滑らかな道路になましたが、追分宿側に立つ案内板の場所にわずかながら桝形の跡が感じられます。
[ 小田井 本陣跡(2024 06 01) ]
小田井宿の沿道にある建物は、間口が広く大きな敷地に建物がゆったりと建っている感じで、狭い間口で奥行きのある家屋がひしめき合うように建っている宿場とは異なった風景です。
本陣を務めた安川家は江戸時代からの建物が残っているそうですが、個人の住宅なので内部を見学できまでんが主屋を取り囲む塀や門から豪壮さが伺えます。
[ 小田井 問屋跡と高札場跡(2024 06 01) ]
高札場跡の左隣にあるのは、本陣と同じ安川家が営んでいた上の問屋で、出梁造りの建物で1階と2階の連格子が特徴的な江戸時代の建物です。
さすがに屋根は板葺きからトタンになっているようですが、岩村田宿では全く見ることができなかった古の建物が、小田井宿ではごく当たり前のように残されています。
[ 小田井 御代田村道路元標(2024 06 01) ]
高札場跡には小田井宿の案内板のほかに、御代田村道路元標もあります。
旧・道路法によって道路の起終点を示すため大正時代に置かれた石柱で、当時はこの地が御代田の中心であったこと示しています。
[ 追分 御代田の一里塚(2024 06 01) ]
旧・中山道がしなの鉄道と交差する付近に、街道から外れた畑の中に一対の一里塚が残されています。
道路拡幅や耕作で取り壊される一里塚は多くありますが、御代田の一里塚は現在の中山道から外れた場所にあるため、良好な状態で今日まで保存されています。
一里塚は残っていますが旧・中山道がどこを通っていたのかは、周りは畑になり住宅が建っているので見当もつきません。
[ 追分 別荘地開発(2024 06 01) ]
追分宿が近づくにつれて、沿道に別荘地として使われている土地が増えてきます。御代田町ですが「西軽井沢」という呼び名を使う別荘や保養所が多くあります。別荘としての利用のほか移住先として、二地域居住として、使われているような建物もあるようです。
「軽井沢」のネームバリューにあやかって「西軽井沢」が使われていると思いますが、軽井沢町では、令和3年3月29日に『「軽井沢」名称の適切な使用についてのお願い』を出しています。この中で町外事業者に対し『企業名
及び商品名 に「軽井沢」を使用する場合は、軽井沢町
に事業所等が所在しないこと及び事業活動の実態がないことを消費者等に対して一般的に認知可能な手段を通じて広く周知していただくようお願いします
。』とあります。軽井沢町の大字町名に中軽井沢、軽井沢東はありますが、西軽井沢はありません。
西軽井沢と言われるところは、軽井沢町の本当の軽井沢の別荘地に比べると樹林の密度が低いように感じますが、森林の湿気を嫌う方には良いかもしれません。
[ 追分 セブンイレブン(2024 06 01) ]
国道18号を越え追分宿に入る手前にセブンイレブンがあります。緑・赤・オレンジ・白の4色を使っている店舗・看板がおなじみですが、ここは白地に茶色の2色しか使われていません。
長野県景観条例によって浅間山麓重点地域という景観計画区域の指定を受けているため、使える色彩に制限があるので、見慣れないセブンイレブンになっています。
「(ア) けばけばしい色彩とせず、できるだけ落ち着いた色彩を基調とし、周辺の景観又は周辺の建築物等と調和した色調とすること。 (イ)
使用する色数を少なくするよう努めること。」という景観育成基準に従っているようです。
18号沿いにあるガソリンスタンドも同じように、いつもと違う見慣れない色が使われていましたが、規制を受けない立て看板や窓に貼られた広告・ポスターには派手な色が使われていました。
[ 追分 宿場内の道(2024 06 01) ]
追分宿だったところは国道18号からはずれたため、現在でも道幅は5,6m程度しかないので、路側はブロックを敷いて歩行者用として使われるように誘導しています。訪れた日は工事中で車道部分のアスファルトが削り取られた状態でした。
追分宿の沿道は、街道だった頃の建物も点在していますが、木々の緑が多くその中に現代風の住宅も建っているので、宿場の雰囲気が残っているものの他の宿場とは異なった景観です。
追分宿の旧・中山道は電柱と電線が地中化され、街道だった頃の緩やかな曲線の沿道に緑もあるので、江戸・明治と現代がうまく調和して気持ちよく歩ける道になっています。
[ 沓掛 18号と旧・中山道(2024 06 01) ]
追分宿から沓掛宿への道は、国道18号に拡げられた道と旧・中山道を行ったり来たりします。
国道18号は軽井沢方面へ向かう車が多く追分付近でも混雑しています。軽井沢町では軽井沢駅方面への車での来訪を減らすため、「パーク アンド レイルライド」と称して信濃追分駅近くに駐車し、しなの鉄道で軽井沢駅へのアクセスを推奨しています。信濃追分駅前の駐車場は小規模で鉄道の本数も多くはないので、効果は限定的なものかもしれません。
信濃追分駅前交差点近くに標高1003mと書かれた表示があり、この辺りが軽井沢を通る国道18号の最高点であることを示しています。ちなみに碓氷峠は960m程度です。
[ 沓掛 中軽井沢駅(2024 06 01) ]
沓掛宿の旧・中山道は国道18号としてきれいに整備され、1951年に大火があったこともあり宿場だったとは思えない街並みになっています。昔の主だった建物跡を示す案内もありません。
最寄りの駅であるしなの鉄道の中軽井沢駅は、駅舎、地域交流施設、図書館が一体になったきれいで大きな建物です。駅が開業したときは沓掛駅という名称でしたが、1956(S31)年に中軽井沢駅に改称されました。
沓掛宿周辺も大規模資本が入り「軽井沢」を使った別荘地開発が広く進められ、地名よりも開発業者が使う地域名が主流になり駅名が改称されたようです。
住所に中軽井沢が誕生するのは1960年になってからです。
[ 沓掛 浅間山(2024 06 01) ]
沓掛宿を過ぎ旧・中山道が国道18号と交差する付近に、首相を三度経験した近衛文麿が別荘として使った洋館が軽井沢町によって公開されています。
大正時代に洋風住宅建築会社『あめりか屋』が建てた建物を当地に移転したもので、最後の所有者が町に寄贈したものです。
高級な別荘が多い軽井沢にあっては、特に目立つ建物ではありませんが、著名人が使った別荘なので軽井沢の歴史民俗資料館と同じ敷地にあります。
ここは、背後に離山があり西に目を向けると浅間山と外輪山の剣が峰が良く見えます。
[ 軽井沢 ショー記念礼拝堂(2024 06 02) ]
別荘地・避暑地として有名な軽井沢ですが、江戸時代は中山道の宿場の一つでした。
天明3年(1783年)の浅間山の大噴火により壊滅的な被害を受けた軽井沢宿ですが、1843年の中山道宿村大概帳によると本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒があり451人が住んでいました。
明治になり1884(M17)年に国道18号が、1893(M26)年に旧・信越本線が現在の軽井沢駅付近を通るようになると、町の中心は駅周辺に移り「新軽井沢」と言われる一方で、軽井沢宿周辺は廃れていきます。
救世主となったのがカナダ人宣教師のショー氏です。
ショー氏は1888(M21)年に軽井沢でに最初の別荘を建て、別荘地・避暑地の適地であることを内外に紹介したのです。その後、外国人を中心に別荘が増え1893(M27)年には日本人初の別荘も造られ、外国人向けのホテルの開業も続きました。
[ 軽井沢 別荘地(2024 06 02) ]
大手資本が参入すると、厳しい生活の農家は耕作に向かない土地をこぞって手放し、広く別荘地が開発されていきます。1915年に営業を開始した草軽電気鉄道は、1926年には新軽井沢(軽井沢駅付近)から草津温泉まで全長55.5kmが開業し、沿線でも開発は盛んに行われてました。
戦後になっても波はあるものの上信越道、北陸新幹線の開業により、軽井沢の別荘地開発は衰えることなく続いています。
開発が続く軽井沢は、旧・中山道の宿場だった頃の建物や面影は残っていませんが、別荘や店舗は趣向を凝らした意匠の建築物が多く、建築に関心のある人にとっては興味が尽きないところです。
最近は猫も杓子も軽井沢を訪れるようになり、軽井沢は別荘地・避暑地から行楽地・観光地へ様相が変化しつつあります。
[ 軽井沢 六本辻交差点(2024 06 02) ]
2012年11月から軽井沢の六本辻交差点は、ラウンドアバウトと言われる環状交差点に変わりました。
道路交通法の改正により環状交差点の通行方法が定められたのは2013年6月なので、六本辻交差点は法改正より前から試行的に運用されていたようです。環状交差点は環状部分を走行する車両が優先され、進入する車両は徐行がしなければならないとされていますが、ここの交差点は見通しが悪いためか一時停止が求められています。観光シーズンはこの小さな交差点での交通処理は厳しそうです。
驚いたのは、六本辻交差点を含む旧・中山道は都市計画道路になっていて、六本辻交差点の西側は幅員24m、東側は18m、15m,13m、6.5mと幅員を徐々に減じて群馬県境まで都市計画決定されています。
ただし、軽井沢駅前通り交差点から東側は都市計画の廃止、そのほかも幅員等の変更が行われる予定だそうです。
[ 軽井沢 熊野皇大神社と熊野神社(2024 06 02) ]
旧軽井沢の軽井沢銀座と言われる旧・中山道を進むと、標高が高くなるにつれ別荘も少なくなりますが、標高1000mを過ぎても点在しています。
峠には熊野皇大神社が長野県と群馬県の境に鎮座しています。参道の石畳には両県の境が彫られ賽銭箱も両県に分けられて、賽銭箱には長野県側は熊野皇大神社、群馬県側は熊野神社と書かれています。県境を境に二つの神社が存在しているようです。
地理院地図を見ると、旧・中山道が越える峠は松井田町峠と書かれ、碓氷峠という名は国道18号の峠に使われています。塩尻峠と同じように時代が変わると地名も変わっています。
生憎の天候のため、峠からの風景を楽しむことはできませんでした。峠を越えると坂本宿への長い下り坂が始まります。
<参考資料>