[ 長久保 横町のたつのや(2024 04 15) ]
和田宿から長久保宿までは、依田川に沿って国道142号になった旧・中山道を歩きます。
長久保宿の手前で国道から分かれ宿場に入りますが、浜田屋旅館のある角まで(横町と言われるところ)は歴史的な建物で残っているのは旅籠辰野屋だった竹重家だけですが、浜田屋旅館から東に延びる街道沿い(竪町と言われるところ)は江戸時代の建物が点在しています。
本陣や旅籠だった古い建物が公開されている宿場はありますが、長久保宿の竪町では吾一庵という馬を扱っていた農家の建物を見学することができます。
[ 長久保 竪町の吾一庵(2024 04 15) ]
庶民的な感じの建物で、二階を含めると現在の庶民の戸建住宅より広いのですが、天井や鴨居が低いのでどうしても狭く感じてしまいます。保存状態はとても良く一階、二階とも無料で見学ができます。
竪町を貫く街道は7%近い勾配のある坂道で、本陣だった石合家もこの坂道沿いにありますが見学できるのは門とその横に再現された高札場だけです。外から眺めるだけでも大きな屋敷だったことがわかります。
[ 長久保 本陣石合家(2024 04 15) ]
本陣などの主だった建物が坂道の竪町に多くあるのは、依田川沿いに設けられていた宿場が大洪水によって流失したため1631年(寛永8年)に高台の現在の地に移転してきたためです。
現在の依田川は宿場を押し流すような川には見えませんが、昔の宿場は河岸段丘の下の面にあったのでしょうか。
江戸方の笠取峠への道は国道142号と一部ショートカットする山道を進みます。
現在の笠取峠は1984年に国道の改修によって切り下げられ、自動車がかなりのスピードで通行できるので、「交差点注意」など交通安全を促す標識が目に付きます。
[ 長久保 学者村別荘地(2024 04 15) ]
峠付近は「学者村別荘地」が広がっています。
この別荘地は長和町の直営別荘地で、HPによると、バブル期よりも以前の1968年から開発が進められ、役場には建設水道課に別荘係があり、借地権の契約更新に伴う再販売と転売の斡旋を行っているそうです。
「学者村別荘地」は面積1221ヘクタール、総区画数1985もある大規模な別荘地で、建築済の区画は約6割ですが、開発から半世紀以上が経過し建築物や道路などのインフラ劣化が危惧され、カラマツ等の成長により販売当初と異なる景観阻害が見られるなど、課題が多いようです。
[ 芦田 笠取峠一里塚跡 桜と土筆(2024 04 15) ]
笠取峠からも国道142号を歩くことになりますが、国道脇の笠取峠一里塚跡では新緑の緑の中に枝垂桜とコブシの花が咲いている華やかな姿を見ることができました。この時期ならではの特典です。
また、歩道の側溝とアスファルトの線状の隙間には、数十mにわたり土筆が一列に頭を出してる珍しい光景もありました。
アスファルトとコンクリートで固められた国道ですが、歩いてみると車では気づかない光景を目にすることができます。
[ 芦田 笠取峠の松並木(2024 04 15) ]
笠取峠を越え芦田宿が近くなると松並木が見られます。この辺りの山は赤松が多くあり並木も赤松です。
東海道では、大磯、舞坂、御油、藤川などで松並木を見ることができますが、中山道で整った松並木が見られるのは関ヶ原と笠取峠の並木くらいです。
笠取峠の松並木は、地元の小学校も雑草を取ったり清掃したり、地域の協力もありきれいに保たれていました。
松の木は倒木の惧れがあるものは伐採されていましたが、小さな苗木が補植されていたので将来にわたり松並木が残りそうです。
[ 芦田 金丸土屋旅館(2024 04 15) ]
松並木を過ぎると芦田宿に入りますが、宿場だったことを意識していないと通り過ぎてしまいそうなところです。
江戸時代もあまり評判の良い宿場ではなかったようですが、江戸時代から現在まで旅館を営んでいる金丸土屋旅館や本陣だった土屋家住宅などが、ぽつぽつと残されています。
芦田宿の江戸方にある茂田井間の宿のほうが、宿場らしい雰囲気が残っているように感じます。
街道は水路を残し昔のままの4mほどの幅しかなく、両側に比較的大きな古い建物が多く残っていて、新しい建物は格子や白壁を使い景観に配慮した建て方になっています。
[ 芦田 茂田井間の宿(2024 04 15) ]
出梁造りの旅籠こそ見られませんが、大澤酒造と武重本家酒造という2軒の造り酒屋があり、街道に沿って重厚な白壁を見せ往時の雰囲気を味わうことができます。
茂田井間の宿は立派な酒蔵がありながら観光客は少なく、ひっそりとした中山道らしい街道歩きができます。
お酒を土産にすると重い荷物になってしまうので、歩き旅では購入に二の足を踏んでしまいます。
[ 芦田 武重本家酒造(2024 04 15) ]
茂田井間の宿を過ぎると、太陽光発電のパネルが並んでいますが銅線が不足しているようで、集電のための結線がされておらず発電には至っていないようでした。
太陽光発電のパネルは中山道沿いのいろいろなところで見られますが、空き家と違い山の斜面に設置されているところもあるので、放置されると災害を招きかねません。
[ 望月 脇本陣(2024 04 15) ]
茂田井間の宿から小さな丘を上りピークを越え、段丘を下っていくと望月宿の中心部に入ります。
途中に、別荘地としてではなく普通の住宅地として開発された〇〇ヒルズと銘打った住宅地があり、小さな驚きを感じます。
さすがに区画は広いようで、まわりに高い建物がなく見晴らしも良いのですが、通勤通学やお買い物はどこへ行くのでしょうか?
望月宿は脇本陣だった建物や旅籠だった建物が点在しています。
旅籠の対面には映画「犬神家の一族」で那須ホテルとしてロケ地になった、木造3階建ての井出野屋旅館がありますが、郵便受けに廃業した旨の張り紙がありました。
[ 望月 ライト食堂(2024 04 15) ]
沿道には昭和レトロを感じさせる店舗もありますが、多くはシャッターが下りたままになっています。
その中でも、ガソリンスタンドを改装して営業している洋食屋があり、お昼時にはほぼ満席になる状態でした。
望月宿で目に付くのは、街道より一段高い場所に建っている佐久市役所望月支所です。
2005年に佐久市に合併する前の望月町役場だった建物で、3階建てですが段丘の上に建っているので街道から見るとかなり高い位置になり、5,6階建ての建物のように見えます。
[ 望月 小粋な造り(2024 04 15) ]
宿場から少し外れた鹿曲川に架かる橋の袂に、2階の縦格子を支える梁に小粋な造りがありました。
構造上は全く必要のない支えに、彫り物を施して取付けて通行する人の目を楽しませています。
鹿曲川を渡ると旧・中山道は瓜生坂と言われる急坂を上りますが、急坂を上りきっても見晴らしが良くなる訳ではなく疲れがたまるだけでした。
八幡宿へ向かう途中に、百沢集落という狭い街道に面して建物が建っている集落があり、昔ながらの雰囲気があるのですが、空き家が目立つようでした。
[ 八幡 八幡宿の道(2024 04 15) ]
八幡宿の手前で旧・中山道は国道142号から分かれますが、宿場内の道は昔の幅から拡げれられたようで、桝形のあった八幡神社まで7mほどの均一な幅が続きます。
センターラインはあるものの歩道のない道ですが、電柱が民地に立っているため意外と広く感じます。
交通量が多い道ではないので、あえて歩道を設けずとも歩行者にとって不便のない道です。
[ 八幡 本陣跡(2024 04 15) ]
八幡宿の本陣だった建物は残っていませんが、小松家本陣跡は現在でも塀が大きな敷地を囲み、当時の規模の大きさを物語っています。
両側に残る古そうな建物は、道が拡げられた以降に建てられたと思われますが、道沿いにブロック塀がある家屋もあり情緒が半減してしまいます。
八幡宿の名になった八幡神社は江戸方の桝形の手前にありますが、桝形付近の車道はきれいに直線化されているので、道が左右に不規則に広がっているところに注目して歩いていないと、桝形跡を見つけられません。
[ 八幡 八幡(はちまん)神社(2024 04 15) ]
八幡神社は祭礼の準備中のようで、提灯が吊り下げられ入口には幟が掲げられ、地元の皆様がちょうど掃除を終えたところでした。
八幡神社前に佐久平方面へ向かう千曲バスのバス停があり、平日のみの数本の運行ですが三方に壁があるしっかりとした待合所で、ちょっと休憩させてもらいました。
[ 塩名田 旧・中山道と千曲川(2024 04 15) ]
塩名田宿は千曲川沿いにある宿場で、八幡宿からは下り坂が続きます。
千曲川を渡る橋は昭和になり現在の高い位置に架けられましたが、昔は橋を架けても流されることが多く徒歩か渡し船で渡河することが専らだったそうです。
旧・中山道に出るためには右岸側の橋の袂から階段で下り、橋の下をくぐり川沿いに歩きます。
曲がり角にはこの辺りの名物である川魚料理のお店竹廻屋があり、道を直角に曲がりさらに旧・中山道を進むと、左右に木造の三階建て建物がいくつか見えてきます。
「三階建て住居群」の案内板が角屋にあるのですが、三階建ての住居が多いのは、狭い土地だったためか、洪水時の浸水対策のためか、はっきりした理由は記載されていませんでした。
[ 塩名田 河原宿の角屋(2024 04 15) ]
三階建て住居のある地域は、塩名田宿河原宿と言われ河岸段丘の下に広がっていますが、本陣跡は段丘の上にあるので角屋から坂を上らなければなりません。
本陣跡のそばにある岩村田宿案内図には、「花街塩名田」の案内がありました。
塩名田宿は小さな宿場でしたが、明治30年代になると八幡から料理人が移転して料亭を開業し、商家も移転してきて、製糸工場も建てられました。
「塩名田座」という劇場まで出現したそうですが、昭和10年代になると世相は一変し、三味線の音もなくなったそうです。
小さな宿場ですが、一風変わった栄枯盛衰があったようです。
[ 塩名田 本陣跡付近(2024 04 15) ]
段丘上の旧・中山道は直線の道路に拡げられているので、塩名田の一風変わった栄枯盛衰が感じられる面影はほとんど残っていません。
<参考資料>