[ 妻籠 馬籠峠(2023 09 17)]
馬籠宿から妻籠宿へ向かう道は、中間の馬籠峠まで緩やかな坂道が続きます。ところどころ2車線の県道となっている区間もありますが、多くは3~4m程の市道だったり山中の遊歩道です。街道沿いのところどころには江戸末期から明治初期に建てられた住宅もあり、鉄道などの交通機関がない時代の旅の風情が感じられる道です。
馬籠宿から妻籠宿の間は8kmほどですが、この区間を歩く外国人観光客はかなりいて、3割以上は外国の人だったと思います。
岐阜県と長野県の県境である馬籠峠には、小さな売店があり埼玉県で作っているガリガリ君も売っていて、熱くなった体を冷やすのに助かりました。
[ 妻籠 一石栃立場茶屋(2023 09 17)]
馬籠峠から妻籠宿にかけての旧・中山道は、しばらくは林の中のハイキングコースのような道です。途中にある江戸時代に建てられた古民家が無料休憩所として使われ、外国人にも人気がありました。ほとんどの外国人が足を止めていたようで、とても中に入れる状態ではありませんでした。
さらに下ると旧・中山道から少し外れていますが男滝女滝があります。歩いた日は旧・中山道が工事中のため県道から男滝女滝を通るルートが迂回路になっていました。滝の落差は大きくないのですが近くまで寄ることができるので、全身に涼しさを感じられマイナスイオンをたっぷりと浴びることができます。
大妻籠の手前では路肩が崩落して通行止めになっているところがあり、民家の庭先を通るような迂回路もありました。
大妻籠付近まで来ると舗装されたしっかりとした道になり、沿道に建ち並ぶ家屋も増えてきます。うだつのある大きな古民家の民宿や飲食店もあり、宿場町らしい雰囲気になり妻籠宿への期待が膨らんでいきます。
[ 妻籠 妻籠宿寺下の家並み(2023 09 17)]
町営第三駐車場を過ぎ、関西電力の発電所あたりから妻籠宿の街並みが始まります。発電所から200m程は片側にしか建物がありませんが、両側に軒をそろえた建物が連なる光景が見えると、江戸時代にタイムスリップした感じになります。妻籠宿の中でも寺下と言われる光徳寺の門前にあった街並みは、妻籠宿の中で最初に復元と保存活動が始まったところです。
寺下の建物は江戸時代の建物が大半を占め、明治、大正、昭和初期の建物もありますが、不釣り合いな看板などは撤去するなど、地元の努力で歴史的な景観が創り出されています。
[ 妻籠 板葺き石置きの屋根(2023 09 17)]
桝形の跡付近は道に高低差があるため、板葺き屋根を見ることができます。木曽地方の一般的な家屋は、板葺きの屋根を石で押さえるものでしたが、耐久性がないため近年はトタン張りや瓦に変えられています。
桝形を越え北に進むと復元された本陣や脇本陣、町の観光案内所もあり人通りが多いところです。寺下の街並みと違うのは、1階よりも2階が張り出している出梁造り、延焼防止のためのうだつのある建物が多いように見受けられます。宿場の中心なのでそれなりに大きな建物が多いのでしょうか。
[ 妻籠 本陣付近の街並み(2023 09 17)]
妻籠宿は昭和51年に伝統的建造物群保存地区の指定を受け「売らない、貸さない、こわさない」の原則のもと地域の努力により街並みが保全されきました。京都からここまでの旧・中山道で最も往時の雰囲気を感じられる宿場です。
木造の建物が連なり、高さ、形状、格子、木の風合いなどが揃った古風な街並みは、見ていても気持ちいいものです。もちろん電柱、電線はありません。多いと思うのは消火栓です。木造建築が多いので、火災への備えは欠かせません。
時代劇に出てくる情景が古き良き日本の姿だと考えている外国人にとっては、妻籠宿はイメージ通りの観光地でなないでしょうか。
[ 三留野 本陣跡(2023 09 17)]
三留野宿は南木曽駅の北側にあります。本陣や脇本陣は記念碑があるのみで往時の建物はほとんどなく、空き地もあり宿場だった雰囲気は感じられません。手前の妻籠宿の保全状態が良いので、同じ中山道の宿場とは思えない寂しさです。
明治の大火により昔の建物は焼失し、中央線の駅は宿場から外れた南側に開設され、国道からも離れているため、三留野宿だったところはお店もほとんどなく静かな通りです。
現在の町の中心は南木曽駅周辺と国道19号沿道のせまい土地で、ひしめくように建物が建ってしますが、なかには空き家もあるようです。
[ 三留野 桃介橋(2023 09 17)]
あまり見どころのない三留野宿ですが、大正に入り関西電力の前身の会社が読書発電所を建設するため、工事資材の運搬を目的とする吊橋が木曽川に架けられました。主塔が3基ある4径間の珍しい形式の吊橋で、主塔はコンクリートで造られていますが、橋桁は木製のトラス構造で橋面も木製です。
1978年に老朽化のため通行止めとなりましたが、1993年に修復され通行できるようになりました。建設時は資材運搬用のレールが敷かれていましたが、修復後は主塔部のコンクリート部分に鋼製のレールが残るのみで、そのほかの部分は歩行者が歩きやすいように平坦な木製の橋面になっています。
[ 三留野 桃介橋(2023 09 17)]
桃介橋の由来となった電力会社社長の福沢桃介は、埼玉県吉見町の出身で福沢諭吉の婿養子となり、木曽川の電力開発に力を注いだ人です。木曽川は関西電力の発電施設が多く、ダム、送水管、発電所がいたるところにあります。
三留野宿から野尻宿へ向かう途中に、読書ダムから読書発電所への送水路が木曽川の支川を横断するため水路橋になっているところがあります。この水路橋も桃介橋と同じ時期に造られた、幅6.8m、高さ5.5mの水路断面を支えるコンクリートアーチ橋で、建設後100年を経過しても重厚な姿を見ることができます。
[ 三留野 柿其水路橋(2023 09 18)]
[ 野尻 野尻宿西のはずれ(2023 09 18)]
三留野宿から「十二兼」という変わった名前の駅前を通り、中央線と国道19号と絡み合うように進みむと、読書ダムが見えるところに至ります。ただし、街道脇の木が茂っているのでダムが見えるポイントはわずかです。このダムから柿其水路橋を経て直線で8kmほど下流の読書発電所まで発電用水を送るための施設がつながっています。
読書ダムを過ぎ中央線とほぼ並行して左に右に曲がる旧・中山道を北進します。狭い街道の両側に家屋が並び始め建物の密度が高くなったところに、「はずれ」という屋号の建物があり野尻宿の西端に着きます。
曲がりくねった街道が野尻宿の特徴で「七曲り」と言われ、1894年に大火があり沿道の建物のは建替えられていますが、道は昔のままの幅とカーブで残されいます。
[ 野尻 曲がりがある道(2023 09 18)]
「七曲り」は桝形と同様に敵の侵入を防ぐために造られたもので、歩いて通るには大きな支障にはなりませんが、道幅は狭く自動車が走るためには不便なものです。旧・中山道は物資の輸送よりも、人馬の通行だけを考えていたようです。
野尻宿を過ぎて国道19号に合流すると道の駅大桑があり、お昼を戴くことにしました。少々早い時間ですがまわりに飲食店がほとんどないので、確実に食べられる道の駅は有難い存在です。木曽牛、信州そばなどのメニューの中から、めったに見ない「信州サーモン丼」を注文。期待していませんでしたが、弾力ある歯ごたえがあり臭みも全くない逸品でした。
[ 野尻 水田(2023 09 18)]
大桑駅入り口を過ぎると旧・中山道は山側に入り三角形の2辺を遠回りするようなルートになります。木曽川沿いに崖状の厳しい地形があり、当時の技術では安全な街道を確保するため迂回することになったのでしょう。現在では中央線はトンネルで、国道19号は橋梁で崖状の部分を通過しています。
遠回りになるルートからは棚田状に整備された水田が見え、平地の少ない木曽地方は農業に使える土地が限られているので、これだけの水田が見えるのは稀です。
[ 須原 岩出観音(2023 09 18)]
野尻宿から須原宿への途中、木曽川の支川である伊奈川に架かる橋から、懸崖造りの岩出観音が川沿いに茂る樹木の間から見えてきます。
岩出観音はそれほど大きな建造物ではありませんが、数mの石垣の上に造られているので遠くからもよく見え人目をひきつけます。懸崖造りの舞台からは伊奈川沿いの狭い平地しか見えず、眺望はいまひとつです。
[ 須原 桝形からみる須原宿(2023 09 18)]
須原の町に入ると旧・中山道は県道からはずれた寂しい道になり、しばらくする街道とは思えない水路沿いの狭い道を上ります。50mほど水路沿いの道を進むと県道にぶつかり、左に曲がると建物が連担する須原宿が見えてきます。県道にぶつかるところは須原宿の西端の桝形だそうで、貧相な案内が立っていました。
須原宿は木曽川の氾濫により流されたため、1717年に現在の木曽川から高い位置に位置に移転したそうです。
[ 須原 宿場内の街道(2023 09 18)]
宿場内の街道は、両側の建物の間隔が比較的広く広く見え開放感のある感じです。道の両側にあった素掘りの水路がコンクリート水路に造り替えられ、家屋の前に平場が作り出されたところもあり、道幅が広く見える一因になっているようです。
須原宿は水が豊富な地域で、街道沿いには丸太をくりぬいて作った水船に水を湛え、通行人が自由に使えるようになっています。ただ、すべての水船が飲める水ではないようなので要注意です。水船は旧・中山道以外の道にも置かれ常時水が流れています。宿場内の水船に流れる水は相当な量になると思いますが、山の湧水なのでしょうか。
[ 須原 水船(2023 09 18)]
須原駅周辺は、国道沿いに比較的大きいスーパーとドラッグストアがありますが、旧・中山道沿いは酒屋、床屋、小さな衣料品店が営業しているくらいで、静かな住宅地になっています。「百貨店」と銘打っている店がありますが、雑貨店またはよろず屋といった感じのお店でした。
街道沿いも現代風の住宅に建替えられた家屋も点在しつつあるので、旅籠風の建物が軒を揃える街道らしい姿が見られるところは減りつつあります。
国道沿いのスーパーは都市部では見慣れた大きな看板を出していますが、木曽谷で見ると異常に大きく感じられ周りの風景とマッチしない存在でした。
[ 上松 民家の前の旧・中山道(2023 11 17)]
須原駅から上松宿にかけての旧・中山道は、国道19号になった区間もありますが19号になり損ねた区間は、舗装されていない個人宅への入口のような道もあります。ガイドブックがないと足を踏み入れるのを躊躇するような道で、民家の軒先をかすめて歩くところもあります。このような道沿いにある住宅は半分以上が空き家、廃屋になっているようです。
天気が悪かったこともあり、人通りはほとんどなく生活感もあまり感じられません。
[ 上松 小野ノ滝(2023 11 17)]
上松には「寝覚ノ床」という観光地がありますが、その少し京都寄りに落差20mくらいの小野ノ滝があり、滝つぼまで歩いて行ける道が付いています。子供でも行けそうな道なので、夏の暑いときは滝から出る水しぶきを浴び、涼む人がいると思います。
小野ノ滝は滝つぼの手前を中央線が渡っているので、昔の風景と変わっていますが、滝の姿は変わらずにそのまま残っています。
[ 上松 「寝覚ノ床」(2023 11 17)]
旧・中山道をさらに進み滑川を渡り上松中学校を過ぎると、左手に旅館「越前屋」の看板を掲げた建物が見えてきます。寿命そばで有名な蕎麦屋だったそうで、現在は国道19号沿いに店舗が移転しこの建物では営業していませんが、「寿命そば」の看板は出ていました。
旅館越前屋を左折して坂道を下ると越前屋の現在の店舗があり、19号を渡ると寝覚ノ床への近道の臨川寺があります。「寝覚ノ床」は木曽川の流れに削られた白い花崗岩の奇岩が並ぶ名勝ですが、河原まで下りようとすると国道から川までの高低差がかなりあるので、往復すると太ももが引きつるほどです。
木曽川は河原に白い花崗岩の露頭が点々とありますが、その中でも寝覚ノ床では奇岩・巨岩を見ることができます。
[ 上松 上松一里塚付近(2023 11 17)]
上松宿の旧・中山道は京都寄りの南半分ほどが旧・国道19号になり拡幅されていますが、上松一里塚跡付近は拡幅されることなく昔のままの幅で街道が残っています。ただ、建物は建て替わっているものが多く街道の面影はわずかです。
上松を過ぎると国道19号の旧道を歩きますが、中央線をくぐるところは歩道のないガード下を歩かなければならず、大型車がひっきりなしに通るのでちょっと度胸が必要です。
そのあとは、木曽川沿いの旧・19号を歩きますが、車の通行はほとんどなく川音を聞き、河原に転がる奇岩を眺めながら歩けます。
[ 上松 棧温泉(2023 11 17)]
川沿いを歩き赤いアーチ橋が見えると、対岸の橋のたもと近くに棧温泉旅館が見えます。赤い橋は「かけはし」という橋名です。
棧温泉旅館の温泉は、鉄分を含む単純二酸化炭素泉と言われる鉱泉を加温しています。24時間入浴可能で、鉄分を含むためお湯は薄茶色、浴槽は加温した湯舟と源泉そのままの湯舟があります。寒い時期はさすがに源泉に肩まで浸かるのは厳しいですが、夏は気持ちいいかもしれません。
食事は一汁四菜のライトプランでしたが、お酒をいただきながらの夕食としては十分な量で、おいしくいただけました。
女将さんは13歳でこちらに来たそうで、今日まで旅館のまわりはほとんど変わりがないそうです。
お買い物に行くときは、車で松本のイオンまで行くこともあるそうです。
[ 上松 木曾の棧(2023 11 17)]
棧温泉の対岸にある「木曽の棧」は、断崖絶壁に架けられた木製の棧が焼失し落ちてしまったので、尾張藩により石垣と木橋で造られた街道です。最終的にはすべて石垣になり、国道19号の改修で石垣の多くは消滅しましたが、一部が見えるように残されました。
石垣の積み方を見ると、海外の石造りの建造物比べ日本には江戸時代になってもこの程度の技術しかなかったのか、と悲しい気持ちになります。
棧温泉旅館には国道19号が改修される前の白黒写真があるので、興味のある方には貴重な資料です。