[ 鵜沼 再建された脇本陣(2023 06 30)]
鵜沼宿がある各務原市は、歴史的文化遺産の活用による魅力・活気あふれるまちづくりの推進として、様々な事業を進めています。1891(M24)年の濃尾地震で倒壊した脇本陣を、残された平面図や隣の太田宿に現存する脇本陣を参考に、地区のランドマークとして木造で再建しました。
また、濃尾時地震で倒壊し明治期末に再建され、戦後も郵便局として使われてきた武藤家住宅が市に寄付され、改修して観光交流センターとして公開されています。
旧・中山道は、第二次大戦後に進駐した米軍の車両を通すため、街道沿を流れていた水路が暗渠にされ味気ない道路になりましたが、これまでに水路を復元し、電線は地中化、車両の速度を抑制するハンプや狭窄が設けられ、路側は舗装材を変えて歩行空間の創出も行われました。
[ 鵜沼 商家三件並び(2023 06 30)]
鵜沼宿は、濃尾地震を耐え抜いた江戸時代からの建物、地震後に建てられた建物、昭和初期に建てられた建物など古い町並みが残るほか、明治期に創業した菊川酒造の大きな建物も存在感がありあます。
旧・中山道のまちなみ再生は、平成18年度~平成22年度にかけて国の補助も受けて行われました。歴史的な建物のあいだに現代的な住宅が挟まり景観が連続していないなど、すぐには解消できない課題もありますが地元が力を入れている様子がうかがえます。
[ 鵜沼 犬山城が見える(2023 06 30)]
加納宿から鵜沼宿に入る直前は、旧・中山道が木曽川の河岸段丘の高い位置を通っているため、木曽川方面を眺めると対岸の犬山城を見ることができます。しかし、電線や看板などの障害物がたくさんあり、きれいな写真を撮ろうとするとポイント探しに苦労します。「”見たいもの”がきれいに見える」ことが良い景観といわれますが、電線・電柱と看板は”良い景観”を壊す代表選手です。
[ 太田 急峻な左岸(2023 06 30)]
鵜沼宿から太田宿への旧・中山道は、うとう峠を越えると木曽川沿いを進みます。うとう峠越えの道はところどころに石畳が復元されていますが、人通りが少ないのか苔に覆われているため、雨に濡れると一層滑りやすくなり、歩きにくい道です。
木曽川が濃尾平野に流れ出るところは急峻な山が両側から迫り、狭い山間を縫ってチャートといわれる固い岩の上を流れています。この付近の風景はヨーロッパのライン川に似ているということで「日本ライン」と称され、川下りの遊覧船が運行されていた時期もありましたが、2012年に運行が中止されました。
川が見える国道沿いのドライブインなどは廃墟になっています。
観光地としての魅力が他の観光地に比べ相対的に低下した結果のようです。
[ 太田 右岸の堤防(2023 06 30)]
風光明媚で観光資源でもある木曽川ですが、昭和58年9月の台風10号で越水し、美濃加茂市、坂祝町及び可児市等で被害家屋4,588
戸の大きな被害をもたらしたため、平成元年度までに木曽川の太田宿側(右岸側)に5.6kmに及ぶ高い堤防が築かれました。堤防の上は遊歩道になっているので、車を気にすることなく河原に露出する奇岩や対岸の急峻な山並みを見ながら歩くことができます。対岸から見ることができれば城壁のように見える堤防です。
太田宿の中ほどにある中山道会館では、宿場の歴史などの展示のほか太田宿周辺の水害状況が動画で見られます。木曽川の水害といえば、伊勢湾に近い木曽川、長良川、揖斐川河口付近の低平地に設けられた水害対策の「輪中」が教科書に載っていましたが、太田宿のような山間で大きな水害があったことはあまり知られていません。
[ 太田 脇本陣林家住宅(2023 06 30)]
中山道会館の隣にある旧・太田脇本陣林家住宅は1769年に建てられた建物で、立派なうだつが往時の繁盛を物語っています。管理をしている人の話では、激しい夕立の際には雨漏りがあり保存が大変だと伺いました。
このほかにも、歴史のある町家が比較的多く残っていますが、駅や幹線道路から離れているため新たな土地の利活用が難しいのか、駐車場になった区画が目立ちます。
太田宿を過ぎると旧・中山道は渡し船で木曽川を渡っていましたが、現在は渡しがあった場所に1926年に完成したトラスの太田橋が架かっています。
[ 太田 太田橋(2023 06 30)]
太田橋は後から架けられた歩道橋が上流側にあるため、歩道から下流側にある渡し場を見ることはできませんが、木曽川最下流のダムである関西電力の今渡ダムが見えます。このダムも古く1939年に完成した発電専用のダムです。
[ 伏見 国道21号との分岐(2023 07 01)]
太田宿から伏見宿へ向かう旧・中山道は、一部が国道21号バイパスになり4車線の幹線道路に拡げられています。沿道には大型量販店やパチンコ店などが立地し、日本のどこの幹線道路沿いでも見られる風景です。
しばらく進むと伏見宿へ向かう旧・中山道はこのバイパスから分かれ緩い上り坂になり、少し高台になったところに伏見宿があります。
[ 伏見 街道の街並み(2023 07 01)]
伏伏見宿は河岸段丘の上にあります。木曽川やその支川に比べ高い位置にあるので、大雨や洪水の際でも被害はなかったと思われますが、往時の建物は少なく今風の住宅と店舗が混ざった寂しい沿道になっています。
旧・宿場のほぼ中央に一本松公園という一角があり、休憩所とトイレが完備されています。早朝は開いているお店がないので、旧・中山道を歩く人にとってはとても助かる施設でした。
伏見宿を過ぎると旧・中山道はしばらく木曽川から離れ、中津川宿で木曽川に近づきますが、木曽川が見えるようになるのは長野県に入った妻籠宿から三留野宿に至る道中です。この間の木曽川は両岸に急峻な斜面が続く区間があり、現在でも川沿いの道がないところが多くあります。機械の力がない時代に道を切り開くには厳しい地形です。
[ 御嶽 御嶽宿への道(2023 07 01)]
伏見宿から御嶽宿の間は、国道21号とそれに重ならなかった旧道を行ったり来たりします。
季節的に田んぼの稲が青々と風にたなびき緑の絨毯のように見え、伝統的な日本の美しい姿を目にすることができます。
[ 御嶽 名鉄御嵩駅(2023 07 01)]
国道21号の「中」交差点を右折し案内に従って進むと、名鉄広見線の終点である御嵩駅に着きます。関東の人間には「名鉄広見線」といわれても、どこからどこへ通じている路線か全く見当がつきません。国宝犬山城がある犬山から可児駅でスイッチバックして御嵩駅までつながるローカル私鉄線です。
中山道は御嵩駅前から東へ進み、駅前から少し進むと道幅が狭くなり、昔の町家がちらほら見える街並になります。
[ 御嶽 竹屋(2023 07 01)]
古い町家の一つに「商家竹屋」があり、無料で見学することができます。もともとは地元で商社のような仕事をしていたそうで、好景気で羽振りが良かった時期の写真なども残っています。建物は明治初期に建てられ昭和40年代まで使われていましたが、その後、御嵩町に譲渡され町の施設として公開されています。
お話を聞いて初めて知ったのですが、御嵩周辺は亜炭(石炭の性能が劣ったもので褐炭ともいわれる)の産地で、1876年に本格的採掘が始まり、特に戦中・戦後まもなくは貴重なエネルギーであり採掘により地域一帯は活況を呈していたそうです。その後、石油に押され1967年に亜炭が掘られることはなくなりましたが、掘削した跡や坑道がそのまま残されたため地盤陥没の原因となり、現在では迷惑施設の代名詞になっています。陥没しないように行政側で対策を講じていますが、まだ完了していないそうです。
[ 御嶽 陥没の状況 ]
御嵩町防災ハザードマップ
次の日、御嶽宿の江戸寄りの細久手宿付近でも亜炭の採掘があったと、大黒屋のご主人から聞きました。
行って見て初めて知ることがいっぱいです。
[ 細久手 牛の鼻欠け坂(2023 07 01)]
御嵩宿を出てしばらく歩くと国道21号と分かれ、坂の多い道になります。それでも舗装してある現代の道なのですが、山間をさらに進むと民家の入口ではないかと思えるような舗装されてない山道になります。路面が平らに整形されているので、江戸時代よりも歩きやすい道だと思いますが、雨が降った後だったので水たまりを避けながら歩かねばなりませんでした。
[ 細久手 謡坂の石畳(2023 07 01)]
謡坂の石畳といわれる急坂もあり、濡れた石畳はコケもあり滑りやすく難儀します。わらじは滑らなかったのでしょうか?
細久手宿への旧・中山道は山道がほとんどで、沿道にお店はないので「一呑み清水」といわれる名水があるところで昼(持参のパン)を頂きましたが、残念ながら飲める水ではなくアメンボが水面を歩いていました。ベンチくらいあってもいいのにと勝手に思いましたが、来る人も座る人もいないのでしょう。その先にある「唄清水」も飲用禁止の立札があり、期待をそがれてしまいました。
舗装されていない道がつづきますが、東海自然歩道として管理されているので、路面は平らに整えられ道にはみ出してくる雑草もなく快適に歩けます。
上り下りを繰返し途中で「津橋」という集落を通りますが、ここには「ツバシ橋」という橋がありました。
[ 細久手 鴨之巣一里塚(2023 07 01)]
津橋集落から上り坂を歩き切ると峰のピークに付近にある鴨之巣一里塚に着きます。鴨之巣一里塚は、両側の塚がほぼ昔のままの形で残されている、直径が10mほどもある大きな塚で、高さも3mくらいあります。
一里塚に感動しつつ横にあるベンチで一休みしていると、街道を横断する黒い物体が目にとまりました。ベンチから20~30m離れたところをイノシシがゆっくりと旧・中山道を横断していて、写真を撮ろうとしているうちに見えなくなってしまいました。イノシシが横断した場所を見ると、草木が分けられ獣道のようになっていました。
[ 細久手 宿場の街並み(2023 07 01)]
鴨之巣一里塚から、このあたりで唯一自動販売機のある平岩辻の小沢商店まではほぼ平坦な道が続きます。暑い時期は、冷たいものが飲める自販機は救いの神です。
平岩辻から大黒屋までは緩やかな上りになり、仲町バス停付近から宿場町らしい建物が見られます。細久手宿は、建物よりも空き地になっている土地の方が多く、宿場町であったとは思えない寂しさがあります。
[ 細久手 大黒屋(2023 07 01)]
大黒屋は尾張藩の定宿で、現在の建物は江戸末期に建てられたものです。
1階は食堂として使われ、2階が宿泊者の部屋になっています。部屋の障子は下部に板張り部分があり、色あせていますが江戸時代に描かれた松や鳥の絵が残っています。
部屋は床の間付きの8畳間に泊めていただきましたが、床の間には「階下に響くため、静かにお歩きくださいませ」との注意書きがありました。注意書きのとおり、寝返りを打つだけでも軋む状態でした。
[ 細久手 大黒屋(2023 07 01)]
館内図を見ると宿泊は4室4組までのようですが、新型コロナ流行前に宿泊していた外国人団体さんの写真が飾られていました。
この建物は昭和46年まで使われていませんでしたが、その後旅館として復活したとご主人が話していました。
[ 細久手 大黒屋(2023 07 01)]
<参考資料>