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57垂井宿~53加納宿

[ 2023 04 14~ ]

■57垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)



[ 垂井 亀丸屋(2023 04 14)]


垂井宿は関ヶ原の山間から濃尾平野へ向かう位置にあり、宿場内の街道は大垣方面に向けて緩い下り坂が続きます。
垂井の街中の旧・中山道もほかの宿場同様に狭いままです。ところどころ古い町家が残り、東の桝形があるところには1777年に建てられた旅籠亀丸屋がありますが、外壁がトタンで覆われているので古い建物の良さが見られなくなっています。
相川橋を渡ると宿場からはずれ、新しい住宅地が広がりスーパーもあります。
訪れたのが4月中旬だったので、相川の上には鯉のぼりをつるしたロープが渡されていましたが、風がなかったので鯉のぼりは元気なく垂れ下がっていました。



[ 垂井 相川の鯉のぼり(2023 04 14) ]


スーパーより少し東に行くと、車道と歩道を分けるフェンスにイチョウのデザインが取り入れられています。色はチャコールグレイですが、緑色にすれば東京都が都道で使っているものと同じです。東京都の木がイチョウなのでフェンスなどでも使われています。
垂井町の木はケヤキなので、イチョウは単なるデザインとして使っているのでしょうか。それとも垂井町と東京都に何か関係があるのでしょうか。



[ 垂井 イチョウのフェンス(2023 04 14) ]



■56赤坂宿(岐阜県大垣市)



[ 赤坂 お茶屋屋敷(2023 04 15)]


赤坂宿は将軍専用の宿泊施設が、「お茶屋屋敷跡」として公園のように整備されて残されています。バラやさつきなどの花壇や竹林がよく手入れされ、無料で一般に公開されています。旧・中山道から少し入った、狭い道しかないところにあるので、知る人ぞ知るといった施設です。
お茶屋屋敷跡の入口から北側の山並みを見ると、煙をもうもうと吐いている煙突と削られた山肌が見えます。



[ 赤坂 煙の出る山(2023 04 15) ]


削られているのは金生山という全山が石灰石の山で、海だった頃の化石を含む大理石もあり、明治初年から石灰や大理石が産出されたそうです。今でも石灰の産出が盛んなようで、赤坂宿の旧・中山道沿いには石灰関係の会社が見られます。
金生山からは鉄道でも石灰石が輸送され、西濃鉄道市橋線を通り美濃赤坂駅からJR東海道線に入ります。
石灰石運搬の貨物列車はゆっくりと走っているので、運が悪いと踏切で結構な時間待たされることになります。



[ 赤坂 石灰運搬貨物(2023 04 15)]


石灰運搬貨物が通るJR東海道線は本線から分岐した支線で、大垣駅から途中の荒尾駅を経て美濃赤坂駅まで5分ほどで着いてしまう盲腸路線です。もちろん美濃赤坂駅は無人駅で交通系カードも使えず、大垣駅を出ると車掌が切符を回収に来ました。
赤坂宿は陸路のほかに、杭瀬川を使った水運があり赤坂宿東端にある湊が使われていました。伊勢湾から直線で40km以上離れていますが、美濃赤坂駅付近は標高が十数mしかない平地なので、川を使った水運が使えたようです。水運は明治期に最盛期を迎えましたが、鉄道に主役を奪われ現在では湊の跡地が残るのみです。



[ 赤坂 赤坂湊(2023 04 15)]


■55美江寺宿(岐阜県瑞穂市)



[ 美江寺 街並み(2023 04 15)]


美江寺宿は揖斐川と長良川に挟まれた標高10m程の平地にあります。氾濫平野に浮かぶ自然堤防の上に造られた宿場で、江戸時代はたびたび洪水に見舞われたため、宿場としては荒れた状態と言われています。
古い町家が点在していますが、空き地や駐車場として使われているところもあり建物が連続していないので、閑散とした印象を受けます。



[ 美江寺 輪中堤防(2023 04 15)]


赤坂宿から美江寺宿へ向かう途中で、高い堤防を越えます。この堤防は江戸時代初期に完成した大垣輪中堤で、木曽三川(揖斐川・長良川・木曽川)の氾濫から大垣を中心とする西濃地区を守ってきました。輪中堤の高さは二階建ての住宅を超えるほどあり、現在の揖斐川の堤防と同じくらいの高さです。堤防の天端が道路として使えるほどの幅があるので、厚みもある堤防です。



[ 美江寺 地理院地図 青は旧・中山道 ]


木曽三川はオランダ人技師ヨハネス・デレーケの指導を受け、明治20年に木曽三川の分流工事に着工、明治45年に完成しています。
大正時代になると、揖斐川の幅が狭く湾曲の激しい箇所の改修が進めれ、旧・中山道の渡しがあったところは、無堤防だった揖斐川の両側に堤防が造られ直線的な川になりました。
今でこそ、揖斐川、長良川、木曽川の3河川はしっかりとした堤防が造られ洪水は減りましたが、輪中堤は今日まで残されています。
江戸時代は人が住み耕作するところを堤防で囲っていましたが、最近は川の水が流れるところを堤防で固定するために河川工事が行われています。



[ 美江寺 大垣の湧水(2023 04 14)]


輪中堤で守られていた大垣は自噴水地帯にあり、昔は地下水がこんこんと湧き出る井戸が各家庭にあったそうで、今でも市内の各所に自噴井戸があります。
富士山の裾野である三島市の柿田川湧水は有名ですが、自噴の井戸が大垣市内のあちこちで見られるとは、訪れて初めて知りました。


■54河渡宿(岐阜県岐阜市)



[ 河渡 一里塚跡(2023 04 15)]


美江寺から河渡宿までの旧・中山道は、街道の雰囲気が感じられない田畑や住宅地の中を通ります。目立ったのが規模の大きな「さぼてん村」と掲げられているビニルハウスで、大規模なサボテンの生産・販売会社の施設のようでした。
河渡宿は長良川の右岸側にある宿場で、大水による川止めの際は旅人が足を止めていましたが、それ以外は素通りされる宿場だったそうです。今では宿場らしい建物はほとんどなく新しい建物に替わっています。宿場の少し北に長良川を渡る河渡橋があり、岐阜市街へ向かう幹線道路になっているので、河渡宿は人通りも車の通行もほとんどなく寂しいほどです。



[ 河渡 長良川(2023 04 15)]


河渡橋から見る長良川は、水量が多く水深もあるように見えるので、川渡しは大変だったと思います。
川の水は意外ときれいで、川底の砂利が良く見えました。
揖斐川も長良川も堤防が高く造られていますが、堤防が築かれても宅地が低平地にあることに変わりないため、水害への備えは怠ることができません。



■53加納宿(岐阜県岐阜市)



[ 加納 河原町(2023 04 16)]


加納宿はJR東海道線岐阜駅の南側にありますが、岐阜の中心は岐阜駅北側の織田信長が居住していた金華山と長良川に挟まれた地域に広がっていました。県庁は昭和41年に東海道線の南側に移転しましたが、市役所は金華山近くにあり法務局や警察などの公共機関も固まってあります。
美川憲一が歌った「柳ヶ瀬ブルース」で知られることとなった、柳ヶ瀬の繁華街も駅の北側に広がっています。



[ 加納 宿場の家並み(2023 04 16)]


旧・中山道が通る岐阜駅の南側は、戸建の住宅が多く街道沿いも住宅が建ち並んでいます。
加納宿の旧・中山道は昔のままの幅と形状で、中央から両側の宅地に向けてなだらかに傾斜しており、街道に雨水が滞留しないようになっています。建物だけが建て替わり今日を迎えているようです。1891(M21)年の濃尾地震や太平洋戦争の空襲により、江戸時代からの古い建物は一掃されたのでしょうか。
加納宿の旧・中山道は、岐阜と名古屋を結ぶ尾張街道と重複する区間があります。尾張街道は長良川で獲れた魚で作った鮨を名古屋に運ぶルートだったため、御鮨街道とも呼ばれていました。



[ 加納 金華山からの眺め(2023 04 16)]


信長の居城でもあった岐阜城は、標高329mの金華山にありコンクリート造で再建されています。最上階からの見晴らしは昔と変わらず360度の展望を楽しめ、城から周囲を見渡すとこの山頂に城を築いた理由がよくわかります。が、徒歩で登ると1時間もかかる大仕事なのでロープウエィがお勧めです。
金華山の麓には織田信長が安土桃山城に移転するまで使っていた居館跡があり、現在も発掘調査が行われています。そんなに広いエリアではありませんが、再現したCGを見るとお金のかかった居館だったようです。最近のドラマや映画では、金華山の麓にあった居館をイメージした映像が出ていました。



[ 加納 信長居館跡(2023 04 16)]


岐阜駅前には黄金の信長像が立っています。信長は尾張、岐阜、安土と拠点が少しづつ京都に近づいていきましたが、信長ゆかりの建造物で現在まで残るものはありません。残っていれば、戦国武将の中で人気が高い人物なので、著名な観光地になっていたはずです。
各務原市には、那加信長町という町名がありました。




<参考資料>