[ 番場 望湖堂跡から(2023 02 12) ]
鳥居本宿から番場宿へ行くためには、摺鉢峠という小さな峠を越えなければなりません。
高低差80m程の峠を上ると数軒の建物が見えます。この峠は琵琶湖の眺めがよく、望湖堂という大きな茶屋があったそうですが、1991年の火事で焼失していまいました。跡地には建物が建っているので琵琶湖を眺めることができず、跡地の上にある神社から眺めるときも、跡地の建物が眺望の妨げになっています。
建物に邪魔されながらも琵琶湖の対岸までを見ることができるので、峠を上ってきた甲斐があります。
江戸時代の琵琶湖は現在よりも陸地側に広がっていたので、今よりも大きな湖面の壮観な風景を見ることができたと思います。
[ 番場 ハンター(2023 02 12) ]
摺鉢峠を下ると道路わきに軽トラが数台止まっていました。よく見ると、銃を持ったハンターが猟犬とともに有害獣を駆除しに行くところで、軽トラには動物を入れるケージが載せられていました。近くには、有害獣の駆除が土日に行われる旨の看板が出ていたので、イノシシなどの出没が多いようです。
全くの山間で人家らしき建物は見当たりません。
峠からの下り坂が名神高速道路にぶつかると、そのあとはしばらく高速道路と並行した道を進み番場宿に入ります。
[ 番場 本陣跡石碑(2023 02 12) ]
番場宿は大きな民家が並び穏やかな生活ができそうでうらやましく感じますが、お店はほとんどなく飲料の自販機があるのみです。
本陣跡は北国街道との分岐点近くにありますが、小さな石碑があるだけで本陣があった面影は全くありません。
番場宿は鉄道からも国道からも外れ、新たに造られた道は名神高速道路だけなので、生活の道は今でも旧・中山道しかありません。家屋こそ建て替わっていますが、町の形は江戸時代そのままのひっそりとした宿場です。
今では車で簡単に移動できますが、江戸時代は平地の少ない狭い山間での生活は大変だったと思われます。
[ 醒ヶ井 地蔵川(2023 04 14)]
醒ヶ井宿は街道沿いに地蔵川という川が並行して流れています。宿場の南側にある山地に浸み込んだ地下水が醒ヶ井宿付近で湧き出て地蔵川となり、天野川に合流して琵琶湖に注いでいるのです。
地下水が湧き出ている場所は数か所あり、宿場内は4~5m幅の川となり清らかな水が流れています。流れの中には梅花藻といわれる花を咲かせる水生植物が一面に生え、流れによってゆらゆら動いています。
川沿いには水面に近づき流水が使えるような階段がしつらえられていますが、さすがに現在では水道が普及しているので生活に川の水を使う人は見かけませんでした。
後方に見える建物は江戸時代の問屋で、現在は資料館として使われています。
[ 醒ヶ井 街並み(2023 04 14)]
地蔵川には「ハヨリ」という絶滅危惧種の魚が生息しているため、地域で保全に気を配っています。
醒ヶ井宿は旧・中山道、地蔵川、名神高速道路が隙間なく狭い土地に並行していて、急斜面に造られた名神高速道路の工事で地下水に影響が出なかったのが不思議なくらいです。
清らかな水が流れ静かで落ち着いた雰囲気の宿場で、路面も土に近い色のカラー舗装がされているのですが、電柱と電線が地中化されていないのが残念です。
[ 醒ヶ井 旧醒井郵便局(2023 2 12)]
醒井宿と醒ヶ井駅を結ぶ道には、明治・大正期の建物が残されています。
1893(M26)年に竣工し醒井小学校として使われた建物の玄関部分が、名神高速道路の工事の際に現在の場所に移築され保存されています。反対側には1915(T4)年に完成した旧醒井郵便局で、豊郷小学校旧校舎を設計したヴォーリズによる設計です。モルタル張りに改装したためコンクリート造のように見えますが、木造2階建ての建物です。
醒ヶ井宿には江戸時代の問屋があり、明治、大正の建物も残り、静かな中にも見どころがあります。
[ 柏原 融雪装置がある道(2023 04 14)]
醒ヶ井宿から柏原宿への旧・中山道は、一部国道21号になる部分もありますが多くは昔の道が残っています。
柏原宿は取り立てて個性的な施設があるわけではありませんが、両側に古い町家が残っていて宿場らしく感じられます。
醒ヶ井宿と同様に土色のカラー舗装がされていますが、醒ヶ井宿と異なっているのは雪国で見られる融雪装置が道路の中央に設けられていることです。西隣の醒ヶ井宿にも東隣の今須宿にも融雪装置はありません。柏原だけ雪が深いのか、気温が低いのか、気象とは異なる別の力が働いているのか?真相は不明です。
[ 柏原 融雪装置ある街道(2023 04 14)]
柏原宿は江戸時代の街道を思わせる建物が多く残っているのに、観光客と思われる人は皆無、町を歩く人もほとんど見かけませんでした。柏原駅も街道に近く交通の便が悪い訳ではありません。
観光客の満足度を高める食べ物とお土産がないのは確かですが、柏原宿と同様に静かに旧・中山道を歩きたい方には便利なところです。
柏原宿を出ると、近くに東海道線が走りその先には伊吹山が見えました。中山道を歩いているのに、並行して走る鉄道は東海道線や東海道新幹線なので、よく考えると不思議な感じです。
[ 今須 寝物語の里(2023 04 14)]
京都から東京に向かい、滋賀県と岐阜県の境を越え1kmほどで今須宿があります。柏原宿から3kmほどしか離れていないにもかかわらず、近江と美濃の国境を挟み極めて近い距離で二つの宿があります。
この県境には「寝物語の里」の碑があります。国境に近いため、隣のお国の話を寝ている際に聞くことができたので、このような名前で呼ばれたそうですが所説があるようです。
[ 今須 今須宿の街並み(2023 04 14)]
東京側にある今須峠は難所だったそうで東海道線はトンネルで抜けていますが、旧・中山道を現在歩いてみると大きな高低差があるように感じられません。
伊吹山と鈴鹿山脈に挟まれたところで、冬は大雪のため新幹線や名神高速が遅れや規制が出るところなので
、季節によっては難所だったのでしょう。
この辺は旧・中山道に東海道線が並行しているので、鉄道施設を間近に見ることができます。東海道線が渓流や道を横断するところにある橋梁や暗渠は、小さなものはレンガのアーチ橋で越える構造になっています。これらの施設が東海道線が開通した当時からあるのか、その後の再整備されたものか不明ですが、長らく大事に使われています。
[ 今須 東海道線のアーチ橋(2023 04 14)]
[ 関ヶ原 開戦の地(2023 01 08)]
1600年に石田三成が率いる西軍と徳川家康が率いる東軍が関ヶ原で激突し、勝利した家康が江戸幕府を開き200年を越える太平の世を築くことになりました。この合戦は日本史の一大エポックであり、関ケ原は誰もが学校で習う地名の一つです。
関ヶ原は北の伊吹山地と南の鈴鹿山脈に挟まれた隘路にある平地で、東西両軍合わせて15万人~20万人の軍勢が戦うにはあまりにも狭い印象を受けます。
[ 関ヶ原 三成陣地から(2023 01 08)]
戦場となった関ヶ原は、各軍勢が布陣した位置に表示板が建てられ、回遊できるように駐車場が設けられているところもあります。狭い範囲に多くの大名が布陣したので、徒歩でもいくつかの陣を巡ることができます。
旧・中山道と並行した国道21号の脇には、徳川家康が最初に陣を置いた桃配山があり関ヶ原を見渡すことができますが、石田三成が陣を置いた笹尾山からの眺めは、桃配山よりも関ケ原を広く見渡すことができる感じです。
関ヶ原町役場の近くには、岐阜関ヶ原古戦場記念館や関ヶ原町歴史民俗学集館など、関ヶ原の合戦を主題にした施設があり、観光客をひきつけています。
[ 関ヶ原 古戦場会館(2023 01 08)]
岐阜関ヶ原古戦場記念館は県が設けた比較的新しい観光施設で、CG映像で戦いの流れを見たあとに最上階の展望室から古戦場一帯を見渡すことができます。
関ヶ原は「宿場町」としてよりも「合戦の地」として、県と町が積極的に売り込んでいるようです。
[ 関ヶ原 桃配山(2023 04 14)]
桃配山の100m程ほど東側の国道21号沿いに、そば処幸山というお洒落な蕎麦屋があります。道路沿いに看板が出ていますが小さな字で店名が出ているので、国道を車で通過する場合はほとんど認識できないと思います。
蕎麦屋らしくない平屋の建物で、内装は白を黒を基調とした洋食店のようで、テーブル席には背もたれの高い椅子が置かれています。奥の方にはピアノがあり、小さな披露宴ができそうな感じです。
注文した一番人気の天ざるはお値段は少々高いのですが、季節の地元野菜の天ぷらを前面に押し出し、海老天を後ろに置くといった面白い盛り付けでした。そばは腰があり、特製の蕎麦湯は液体のそばを飲んでる感じでした。
[ 関ヶ原 そば幸山(2023 04 14)]