chapter-002 武州鉄道の跡

[ 2005.07~ ]

■地下鉄7号線の延伸 ・・・・・



[ 武州鉄道の跡(2015年):蓮田駅東口 ]


2001(H13)年3月に埼玉県内で初めての地下鉄が開業しました。
この地下鉄は目黒、麻布十番、駒込、王子を通り赤羽駅の北で荒川をくぐり、旧・鳩ヶ谷市、川口市を経てさいたま市の浦和美園駅に至る埼玉高速鉄道です(都内は東京メトロ南北線に乗り入れ)。
現在の終点は浦和美園駅ですが、2018(H28)年4月の交通政策審議会答申では、「地域の成長に応じた鉄道ネットワークの充実に資するプロジェクト」として、浦和味美園から岩槻を経て蓮田までの延伸が掲げられています。
事業性に課題があるため、沿線開発や交流人口の増加に向けた取組等を着実に進めた上で、事業計画の十分な検討が必要とされています。
埼玉高速鉄道のルートは、戦前まで蓮田~神根(川口市)間を営業していた武州鉄道とルートが似ています。



[鉄道の痕跡:縦の道路が鉄道跡地]
(国土画像情報 国土交通省 CKT20192_C13_49より)


■武州鉄道・・・・・


武州鉄道の前身だった中央軽便鉄道は、1910(M43)年11月に川口町~鳩ヶ谷町~安行村(川口市)~春岡村(旧大宮市)の免許を受けました。
免許は貨客運輸のほかに電灯事業も営むこととしていましたが、免許を受けた翌年に電灯事業は除外されました。
当時は電気供給会社が多くあり、鉄道会社が鉄道経営のほかに電気供給も行っていたのです。
武州鉄道は1924(T13)年10月に蓮田~岩槻間が、1928(S3)年12月に岩槻~武州大門が開業し、1936(S11)年には川口市の神根まで延伸されました。
しかし営業は苦しく、利益を生じたのは昭和9年下期、昭和10年上期のみでした。
惨憺たる営業の末、1938(S13)年8月に武州鉄道は解散となったのです。
解散前年の旅客数は83,355人で、当時の県内鉄道輸送の0.5%にも満たない状況でした。



[ 橋の残骸(2002年):橋台が残っていたが区画整理で消滅 ]


武州鉄道の跡地は処分され、現在では工場が建っていたり住宅が建っています。
それでも空中写真を見ると、部分的に鉄道の跡を見ることができますが、区画整理などの開発が行われた所では、跡形は全く残っていません。
浦和美園駅の近くでは、珍しく武州鉄道の施設の一部であった橋台を見ることができましたが、ここも区画整理が進み水路はなくなり、橋台は取壊されてしまいました。
綾瀬川より南側の跡地は、ほとんどが東北道の下敷きになり、痕跡すら見ることができません。
近くにはFIFAワールドカップのために造られた、6万人を収容できる巨大なサッカー専用スタジアム『埼玉スタジアム2002』が威容を誇っています。



[ 埼玉スタジアムと車両基地(2002年) ]


武州鉄道は東武野田線よりも早く岩槻に乗入れていたので「岩槻駅」があり、東武野田線の「岩槻駅」は武州鉄道が廃止された翌年まで「岩槻町駅」という名称でした。
岩槻は武州鉄道の路線の中で最も栄えていたところで、岩槻駅は大きな敷地だったようですが、いまでは駅の跡地に小学校や中学校が建っていて、当時の面影は全く残っていません。



[ 昭和7年岩槻町全図:赤が武州鉄道、緑が東武線 ]


■埼玉高速鉄道の未来・・・・・


埼玉高速鉄道は都心に相互乗入している点で武州鉄道と大きく異なりますが、ルートはよく似ています。
2001(H13)年3月28日に開業したものの、翌年度の2001年度は赤字。
安定的な鉄道経営のためには、浦和美園駅周辺の大規模な都市開発が頼みの綱ですが、区画整理事業は終わったものの人口の定着はなかなか計画どおりに進むことはありません。
しかも、都心部で国際競争力を高める都市再生など、住宅を含む再開発が行われ都心回帰が進むとこの先さらに暗雲が垂れ込めそうです。
武州鉄道は赤字続きの状態で線路延伸を行いましたが、予想通りには収入が伸びず解散に追い込まれました。
埼玉高速鉄道も岩槻方面への延伸が常に叫ばれていますが、武州鉄道と同じ運命を辿らないことを祈るばかりです。



■おまけ・・・・・


[ ほてい家 ]

武州鉄道がかつて通っていたさいたま市岩槻区にある料亭です。
岩槻駅を降り駅前通りを南に行くと左手に黒い門が見えます。
江戸時代から続く料亭だそうで、門構えを見るとお値段の張る料理しかないように思えますが、季節のランチは1500円前後でいただけます。





<参考資料>