[ (都)町谷本太線と大宮支線 ]
さいたま市役所の南側を東西方向に走る都市計画道路町谷本太線は、2005(H17)年4月、2018(H30)年1月に未開通区間が開通し、国道17号から17号新大宮バイパスまでがつながりました。
2005年に開通した区間は、旧浦和市と旧与野市を結ぶ部分で、1963(S38)年の都市計画決定から40年以上を経てようやくの開通でした。
これも浦和・大宮・与野の3市合併の効果だったのでしょうか。
ここは、もともと別所沼に流れ込む沢筋で、周辺は水田として利用されていましたが、昭和に入り耕地整理によって道路と宅地が整えられ、住宅地としての利用が進んだところです。
開通した区間はおよそ500mですが、ほとんどが橋梁形式となっています。
[ (都)町谷本太線と大宮支線の横断図 ]
橋梁形式となったのは、(都)町谷本太線と交差するように武蔵野線と東北線を結ぶ支線(正式には「大宮支線」と言うらしい)が通っており、地表に道路を新設できなかったためです。
大宮支線の北半分は住宅地の下をトンネルで通過していますが、(都)町谷本太線と交差する付近は標高が低いため地上に出てくるのです。
[ 大宮支線(2010年):大宮支線のトンネルへ ]
しかし、地上に出てくるといっても騒音対策のためかコンクリートの箱に閉じこめられているので、線路を見ることはできません。
列車に乗っていると、トンネル区間なのかコンクリートの箱の中を走っているのか、まったく区別がつきません。
(都)町谷本太線は、大宮支線を包み込んでいるコンクリートの箱を越えるため橋りょう形式で造られ、橋の名前は「鯛ヶ窪橋」となっていますが、橋名の由来はよくわかりません。
[ 大宮支線(2005年):コンクリートの箱の中 ]
埼玉県内には旧国鉄や私鉄によって、東京から県内各地へ向かう放射状の鉄道網が形成されていましたが、東西方向に横断する鉄道路線は不十分で、過去にも東西方向の鉄道建設が叫ばれたものの、その度に挫折していました。
戦後も県は東西方向の鉄道建設を国に繰り返し要望し、1957(S32)年4月3日の鉄道建設審議会で玉葉線(武蔵野線のこと)が決定されました。
しかし、具体的なルートが決まってなかったので、各市町村の思惑により様々なルートの要望活動が行われていました。
[ 武蔵浦和駅(2021年):埼京線との乗換駅 ]
一方、当時の国鉄は、山手貨物線の飽和状態を緩和するための貨物専用線を計画していたようです。
また、1967(S42)年8月8日新宿駅構内で山手貨物線の火災事故が起きたため、米軍向けのジェット燃料が都心を通って輸送されていることが一般に知れ渡り、都心から離れた貨物線の建設が急務となっていました。
このような経緯を経て1973(S48)年4月1日に武蔵野線の新松戸駅~府中本町間が開通しました。
貨物輸送が優先で旅客輸送は見返り的な要素が強く、開通当初の旅客列車の運行本数はローカル線並みの少なさでした。
それでも駅名に「東、西、南、北」や「新」などの冠がつかない「吉川駅」、「三郷駅」は、その自治体にとって初めての鉄道駅であり、今後の発展・開発に対し特に大きな期待があったことと思います。
余談ですが武蔵野線の開業により、「浦和」には東・西・南・北を冠した駅がすべてそろいました。
[ 武蔵浦和、越谷レイクタウン、吉川美南、新三郷は開通後に新設 ]
武蔵野線のルートは1964(S39)年7月に決定されました。
そのころは経済成長率が10%前後という高度経済成長期で、大都市への人口集中が進み虫食い状の宅地開発、いわゆるスプロールが大きな社会問題としてクローズアップされたころです。
首都圏近郊で新しく駅ができれば、駅周辺が乱開発されるのは時間の問題でした。
このような状況に対抗するためか、国や県から指導があったためか、武蔵野線と同時に開業した駅周辺の多くは土地区画整理事業が行われました。
しかも面積は最近の区画整理事業に比べて大きく、武蔵野線のルート決定後、数年の間に都市計画決定され事業が始められています。
[ 東所沢駅周辺(2021年):約200haの区画整理 ]
唯一、新座駅周辺だけが開業後20年以上経ってから都市計画決定されていますが、新座駅は市の中心部(新座市の中心部は東上線志木駅周辺)から離れた畑のど真ん中に造られたため、当時の状況では区画整理など必要ないと感じたのでしょうか。
沿線の各自治体は駅周辺の整備を進めますが、土地区画整理事業の事業開始(事業認可)から事業完了(換地処分公告)まで20~30年以上かかっている所もあります。
ルートが決定した当時、朝霞、新座、吉川、三郷はまだ「町」で、大規模な土地区画整理事業の実施は財政面などで大きな負担がありました。
[ 武蔵野線周辺の土地区画整理事業 ※武蔵野線開業と同時に設置された駅のみ ]
土地区画整理で造られた駅周辺の市街地は、“まち”としての歴史がないところに、区画整理の標準的な基準・規格によって道路や公園が造られたため、決して個性のある“まちづくり”とは言えませんが、開発の勢いに任せるよりは格段に整った市街地が造られました。
西浦和駅周辺は、土地区画整理事業が都市計画決定されたものの、反対により事業が進まず、バスが転回できる程度の駅前広場が2003(H15)年にできましたが、カーナビに案内してもらわないとたどり着けません。
[ 西浦和駅周辺(2009年):小さな広場だけ ]
武蔵野線が開業した頃は、貨物輸送の主役が鉄道からトラックに移りつつあり、貨物列車は減少の一途でしたが、沿線の開発に伴い人口が増えたこともあり、今では朝夕は1時間に10本前後の電車が運転されるようになりました。
武蔵野線の開業後に埼玉県内で新しく造られた駅は、武蔵浦和駅、越谷レイクタウン駅、吉川美南駅、新三郷駅の4つの駅です。
武蔵浦和駅は、新幹線に並行して走る埼京線との交点に1985(S60)年9月30日に開業しました。
駅周辺は、住宅、工場、倉庫などが田畑の中に建っている状態でしたが、埼京線を使えば池袋まで20分程度という利便性のためマンション群に代わり始めました。
耕地整理で造られた水路を埋め立て道路を広げていますが、さすがに駅の周辺約30haは再開発事業などを導入して新しい道路を造り区画を整備して、高層ビルが建てられています。
1998(H10)年に完成した武蔵浦和第2街区の市街地再開発を皮切りに、これからも開発が進んでいきます。
[ 武蔵浦和駅周辺(2011年):4街区 ]
[ 新三郷駅(2012年):駅を降りるとすぐららぽーと ]
新三郷駅は武蔵野操車場の跡地に1985(S60)年3月14日に開業しましたが、上り線と下り線の間に操車場跡地があったためホームが300mも離れた駅でした。
その後、操車場跡地を売却・開発するために線路の一体化が行われましたが、駅利用者が多い三郷団地から遠い北側で上下線の一体化がされたため、駅が300mも遠くなりました。
操車場跡地は旧国鉄の債務返済のため早期に売却することにされていましたが、線路の一体化はバブルの崩壊後だったので、高値で売れる絶好の時機を逸していました。
[ 新三郷駅周辺(2012年):コストコ、ららぽーと ]
操車場跡地の面積は約80ヘクタールもあり、東京ディズニーランドと同じくらいの大きさです。
2006(H18)年7月に公開競争入札により三井不動産グループが約34haを取得し、家具・インテリア販売の「IKEA新三郷」、大型会員制の倉庫店「コストコ」、ショッピングモールの「新三郷ららシティ」が次々と誕生し、大規模な商業集積地に変身しました。
越谷レイクタウン駅は、都市再生機構(旧都市整備公団)が土地区画整理事業を行った、面積225.6ヘクタール、計画人口22,400人の越谷レイクタウンの中に2008(H20)年3月15日に開業しました。
水辺のあるまちづくりが特徴で、これまで沿線で行われた区画整理に比べ大きなセールスポイントではありますが、従来からあった田園風景は消えてなくなりました。
越谷レイクタウンは、鉄道の新駅の他に国道4号のバイパスである東埼玉道路が通っているため、自動車でのアクセスも便利なところです。
[ 越谷レイクタウン(2009年):人工池と住宅地 ]
この利便性に目を付けたのがイオングループで、2008(H20)年10月2日にイオンレイクタウンが、2011(H23)年4月29日にはイオンアウトレットモールがオープンし日本最大級のショッピングセンターが誕生しました。
イオンレイクタウンは駅の正面に入口があり、駅から出た人はほとんどイオンレイクタウンの入口に吸い取られてしまうので、駅の周辺に他の店が進出しても太刀打ちできません。
[ イオンレイクタウン(2023年):駅前に入口 ]
イオンレイクタウンとイオンアウトレットをあわせると24万㎡の敷地に700を超える店舗があり、各階を歩くだけでも大変で、とても一日ですべてを見て回ることはできません。
建物の中に巨大な商店街が誕生したと言っても過言ではありません。
100円ショップから自動車店まであり、普通の人が生活するのに十分な品揃えなので、他のお店に立ち寄る必要はありません。
これでは越谷レイクタウン周辺に他のお店ができるとは思えません。
吉川美南駅は、2012(H24)年3月17日に開業です。
この駅周辺では住宅地としての区画整理が進められています。
西のイオンレイクタウン、東のららぽーと新三郷に挟まれた立地なので、住宅地としての開発は賢明だったのかもしれません。
[ 吉川美南駅周辺(2012年):住宅地の開発 ]
吉川美南駅の南側は、土地区画整理が終わり住宅がいつでも建てられる状況になっていますが、北側にはまだ水田が広がり、これからもさらに市街地が大きくなる可能性があります。
日本の人口が減少に転じ年金制度などに暗い影を落としつつありますが、武蔵野線の東側ではこのような大きな開発がまだ進んでいます。
[ なまず料理 ]
中川沿いには川魚の料理を食べさせてくれるお店が多くあります。
なかでも吉川市は福寿家、糀家など歴史のある料亭が今も営業を続けています。
これらのお店では、うなぎのほかになまず料理を食べることができます。
味は淡白で美容にもいいとか。
こんなこともあり吉川駅の南側には金のなまずが鎮座しています(純金ではありませんが)。