[ 荒川(2024年):熊谷市久下付近 ]
埼玉県の中央部を流れる荒川は延長173kmの河川で、埼玉県の2/3が荒川の流域に含まれています。
荒川は地上に降った雨を海に流すだけでなく、東京都民や埼玉県民に水道水を運ぶ水路としての役割も担っています。利根川の上流にあるダムに貯められた水は、利根川を流れ行田市にある利根大堰で分かれて武蔵水路を流下し、鴻巣市で荒川に流れ込み志木市にある秋ヶ瀬取水堰で取水され東京都や埼玉県の浄水場に届きます。
荒川は埼玉県のみならず都民にとっても生活と深いかかわりのある川です。
この荒川を英語表記すると「Ara River」だと思っていたら、荒川を渡る橋の横に『荒川 Arakawa
River』と書かれていました。河川名の英語表記はまちまちで、仙台市街を流れる広瀬川は「Hirosegawa River]、関東平野を流れる利根川は「Tone
River」とありました。
[ 武蔵水路(2024年):鴻巣市 ]
東松山市から鴻巣市へ至る県道東松山鴻巣線を走っていると、三国コカコーラの工場を過ぎたあたりから荒川の堤防が見えてきます。
堤防への坂道を上り、荒川の堤防を越えてもしばらくは“橋”ではなく盛土上の道路を走ることになります。
堤防を越えても一向に水面は見えず、左右には畑や水田があり、さらに進むと住宅や資材置き場、バス停、信号機まであるのです。
信号機のある交差点を過ぎると、ようやく “橋”(御成橋)が見えてきて渡り終えると鴻巣市側に辿り着きます。
[ 信号機(2011年):荒川の中とは思えない ]
普段は気にも留めないことですが、よくよく考えると堤防を越えた川の中に家や信号機までもあるのは不思議なことです。
このあたりの土地は利用制限があると記されている看板が所々に立てられているので、普通の土地とは違い川の中であることが辛うじてわかります。
川の外とほとんど変わらない生活ができるので、このような看板でもないと川の中で生活していることを忘れてしまいます。
[ 河川法の制限(2011年):川の中では規制がある ]
伊勢湾に流れ込む木曽川、長良川、揖斐川の三川が合流する地域は川の中に家がありますが、これは地理の教科書にも載っている、堤防に囲まれた“輪中”と言われるところです。
荒川の中にある家は堤防にも囲まれず川の中に建っているのです。
川の中に家があるのは、人間の手によって荒川の流れが大きく変えられた結果です。
荒川は、徳川時代に江戸の洪水防御、舟運の確保などの目的で大々的な付け替えが行われました。
もともと荒川は、秩父山地を下り熊谷から現在の「元荒川」を流下し、蓮田、岩槻、越谷を流れ、当時東京湾に流れていた利根川(現在の中川)に合流していました。
江戸時代に入り荒川は熊谷市久下で締め切られ、和田吉野川、市野川、入間川筋を流れ、隅田川を下り東京湾に流れ込む川となりました。
[ 荒川の付替え:江戸時代の事業 ]
(荒川放水路変遷史 荒川下流河川事務所)
明治に入っても荒川では大洪水が頻発し、中でも1910(M43)年の大洪水では埼玉県の24%が浸水または冠水し、破堤945、堤防損壊1,402という凄まじい洪水でした。
このため、岩淵水門(隅田川と荒川の分岐点)から下流は1913(T2)年から1930(S5)年にかけて長さ22㎞、幅500mの放水路が新たに開削されました。
さらに岩淵水門から上流部は、1918(T7)年に改修計画が策定され1954(S29)年にかけて川を広げる工事が行われ、ほぼ現在の荒川の姿となったのです。
荒川には“自然”が沢山残っているように思えますが、本当の自然の姿はあまり残っていません。
[ 1928(S3)年度の工事年報:横堤の様子がわかる ]
岩淵水門の上流部は、従来あった遊水機能を保全するため広い川幅で計画され、川の水が流れる部分と堤防を造る部分だけ土地を買収したため、現在でも堤防の川側(堤外地という。堤防で守られている土地は堤内地。)に田んぼや畑が残っていて、家までが残っているところもあります。
川幅の広い部分には、川の流れに直交するように“横堤”と言われる堤防が26箇所も造られ、下流に流れる水を留め洪水を軽減させる役目を果たしています。荒川の広い部分は、ダムに近い働きをしているのです。
[ 横堤と御成橋(2011年) ]
県道東松山鴻巣線は横堤の上を通る道路なので、水を下流に流すのに必要な幅だけが橋となっています。このあたりは荒川の最も広い場所で、川幅は2.5kmもあり日本一の川幅だそうですが、広いだけあって堤外地には民有地も多くあります。東松山鴻巣線以外にも県道さいたま東村山線(秋ヶ瀬橋)、国道463号(羽根倉橋)、JR川越線なども横堤の上を通り荒川を渡っています。
川幅の広い部分は調節池に造り変える計画があり、下流部ではすでに第一調節池(彩湖)が2004(H16)年に完成しています。現在はJR川越線~羽倉橋~開平橋の間で第二調節池、第三調節池の工事が進められています。
開平橋の上流も広い河川敷を有効活用するため貯留・遊水機能の確保が検討されているので、日本一の川幅がある吉見町の荒川もいずれは調節池に姿を変えるようです。
[ 川幅日本一(2011年):御成橋に掲げられている ]
[ 福沢桃介生誕の地(2024年) ]
荒川上流の大改修が行われている頃、吉見町出身の福沢桃介氏が埼玉県から遠く離れた地で、川に関連する事業で手腕をふるっていました。
旧姓は岩崎ですが慶應義塾卒業後に福沢諭吉の婿養子となり福沢桃介となりました。いろいろな事業にかかわっていましたが、株式投資で得た資金をもとに名古屋電燈株式会社の大株主となり、1914(T3)年には社長に選出され経営に参画し、その後大同電力の社長として木曽川の電力開発に力を注ぎ込みます。福沢桃介氏は「一河川一会社主義」を主張し岐阜県・長野県を流れる木曽川に、賤母発電所を皮切りに7か所の水力発電所を建設しました。
・賤母発電所:1919(T8)年7月完成 ・大桑発電所:1921(T10)年3月完成
・須原発電所:1922(T11)年5月完成 ・桃山発電所:1923(T12)年11月完成
・読書発電所:1923(T12)年12月完成 ・大井発電所:1924(T13)年12月完成
・落合発電所:1926(T15)年12月完成成
[ 桃山発電所(2023年) ]
福沢桃介氏は、木曽川の電力開発の当たるため長野県南木曽町に別荘を建て、読書や大井などの発電施設建設現場に向かったそうです。この別荘を訪れる際は、日本初の女優といわれ未亡人だった川上貞奴を伴って滞在していたそうです。
別荘は1960(S35)年に焼失しましたが、平成2年に復元され「福沢桃介記念館」として公開されています。
[ 福沢桃介記念館(2023年) ]
木曽川には福沢桃介氏が建設に携わった発電施設が現在でも使われ見ることができます。
その中でも目に付くのは南木曽町の木曽川に架かる桃介橋です。読書発電所の建設資材を運搬するため架けられた橋で、コンクリート造の3基の主塔と木製補剛桁による4径間の吊り橋です。現在は南木曽町が管理する人道橋ですが、当時はレールが敷かれトロッコで資材を運搬していました。
中央の主塔は河原へ下りる階段があり、河原から橋を眺めることもできます。
橋が完成したのは1922(T11)年9月で、一時期は老朽化のため通行止めになっていましたが1993(H5)年に町が復元し人道橋として通行できるようになりました。橋面にはトロッコのレールを模した装飾がつけられています。
[ 桃介橋(2023年) ]
読書発電所で発電機を廻す水は、7kmほど上流にある読書ダムから導水路を通って送られてきます。読書ダムからはトンネルを流れる区間がほとんどですが、柿其川の谷を渡る際に柿其送水橋でいったん地上に出て、再びトンネルに入り発電所に至ります。柿其送水橋は長さ142.4m、水路部分の大きさが高さ5.5m、幅6.8mもある大きな鉄筋コンクリート橋で、谷を渡る部分は2連のアーチ橋で川と道路を越えて行きます。
[ 柿其送水橋(2023年) ]
福沢桃介氏により建設された水力発電施設は完成から100年を経ていますが、今日でも関西電力の施設として使われています。地球温暖化に対処するためカーボンニューラルが声高に叫ばれている世の中で、二酸化炭素を排出しない水力発電施設は見直されつつあります。しかし水力発電に必要なダムは自然破壊の槍玉に挙げられ、新たな建設は困難になっています。
原子力、太陽光、風力による発電も簡単に増やせない状況にあっては、
これまで造ってきた再生可能エネルギー施設を大切に使っていかなければなりません。
[ 読書ダム(2023年) ]
<参考資料>